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李白と奥の細道

2018.04.01 04:22

https://ameblo.jp/57577-kansiyaku/entry-11023556317.html 【李白•杜甫と「奥の細道」、寄り道(芭蕉、ハイク)】より

盛唐-32

「芭蕉は杜甫•李白の二大詩人に傾倒し、その影響を受けることが著しい」と昔の教科書(三省堂)に書いてあった。

『奥の細道』の冒頭の「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人なり」が、李白の『春夜、桃李の園に宴するの序』(古文真宝後集) の出だしの「それ、天地は万物の逆旅にして、光陰は百代の過客なり」を下敷きにしていることは高校の時に学んだが、杜甫との関係は知らなかった。

教科書を見ると、「夏草やつはものどもが夢の跡」の句とその前の文章が記されていた。前文には奥州藤原三代の栄華と(源義経が平泉に身を寄せたために頼朝に)滅ぼされたことが書かれ、教科書では、「夏草や」の句の後に杜甫の『春望』の詩が引用されていた。前文の後の部分は「泰衡らが旧跡は、衣が関を隔て南部口をさし固め、夷(えぞ)を防ぐとみえたり。さても義臣すぐってこの城にこもり、功名一時のくさむらとなる。国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠打ち敷きて時のうつるまで涙を 落しはべりぬ」である。

「春望」の詩の始まりは「国破れて山河あり、城春にして草木深し」である。

『奥の細道』には史実•古文•和歌の他に漢詩•漢籍を 踏まえた文章が多く見られる。

芭蕉(1644-1694)はその時代に、どのようにして多くの漢詩•漢籍を読むことができたのだろうか。

ところで連歌から生まれた俳諧を和歌と並ぶ文学のジャンル(俳句)として確立したのは芭蕉の大きな功績と言って差し支えないと思う。

詩を表すのに575は、短かすぎるように思われるが、『季語』の約束や『切れ』の工夫によって、その難点を補い、描きうる世界はむしろ広く深いと思う。

俳句は世界的に最も短い詩であるが、日本語を用いず、必ずしも音節数にこだわらず。3行詩として欧米諸国、南米、インド、中国などで愛好者(作者)が増え、今やhaiku(ハイク)は世界的である。

30年ほど前、来日した米国の先生の講演の冒頭にご自分の作られたhaikuを拝見したことがあった。

また、週刊誌で外国人のhaikuを紹介していたのを見たこともあり、haikuの作者が世界的に広がっていることを実感した。haikuで覚えているものはないので、検索で調べたところ「古池や蛙飛びこむ水のおと」の多くの英訳が見つかった。

 次はその例。

       The old pond:

        A frog jumps in-

       The sound of the water.( R. H. Blyth 訳)

註 松浦友久編訳 李白詩選(岩波文庫)によると、李白の『序』の題名は正しくは

『春夜、従弟の桃花園に宴するの序』である(李白別集の主要各本)。


http://e2jin.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/post-0d38.html 【春夜宴桃李園序(李白)&奥の細道(芭蕉)】 より

「奥の細道」の解説書を読むと、どんな本でも、冒頭部分は李白の詩「春夜宴桃李園序」から引用しているとあります。両方を比べてみます。

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【春夜宴桃李園序】(李白)

夫天地者萬物之逆旅、(それてんちはばんぶつのげきりょにして)

光陰者百代之過客。(こういんはひゃくだいのかかくなり)

而浮生若夢、(しこうしてふせいはゆめのごとし)

爲歡幾何。(かんをなすこといくばくぞ)

意訳:この世のすべてのものは宿屋であり、月日は旅人である。そして人生は夢のようなものだ。楽しいことをするといってもどれほどのものがあるだろうか。

→要するに、李白の言いたいことは?…

『だからこそこの世を楽しまなければならない!』

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【奥の細道】(芭蕉)

月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也。(つきひははくたいのかかくにして、ゆきこうとしもまたたびびとなり)

舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす。(ふねのうえにしょうがいをうかべ、うまのくちとらえておいをむかうるものは、ひびたびにしてたびをすみかとす)…

意訳:月日というものは永遠の旅行者であり、過ぎゆく年もまた旅人である。舟の上に生涯を浮かべて過ごす船頭や、馬のくつわを引いて年とってゆく馬子は、毎日が旅であり、旅を住処としている。

→要するに、芭蕉の言いたいことは?…

『だから漂泊の思いやまず旅に出るのだ!』

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李白の詩には、空しい心の中だからこそ、現世を明るく前向きに生きようという意識が見えますが、芭蕉の文章には、無常感だけがただよっていて、ただうつろに生きているような気がします。文学的にどちらがすぐれているのかはわかりませんけど、個人的には李白のほうが好きだなぁ。『歓を為すこといくばくぞ』にひかれます。ちなみに「百代」は李白の詩では『ひゃくだい』、奥の細道では『はくたい』と読むことになっているそうです。読みぐせとのことですが、これは『はくたい』のほうがおしゃれです。