未来の嘘

2021.04.01 08:51
アベミハ原作沿いです


ずっと、去年の最後の練習のあとのやり取りが頭から離れなかった。

部内恋愛禁止の話が出た時のことだ。

「あべくん、はっ、モモカンがスキなのか!」

あくまで、阿部の役に立ちたいという思いから、条件反射的に出てしまった言葉だった。

その場では阿部は困惑した表情を見せ、少しうつむいて考え込んでいる様子だった。

だが、帰り道で別れの挨拶を交わした時、彼は全くいつも通りだった。

野球部の練習をしている時は、辛い思いを忘れられるのだが、ふとした時に心がちくちくと痛むのを三橋は自覚し始めた。

どうしてだろう。なんで、あの時のことがいまだに忘れられないんだろう。

出会ってから今までずっと、阿部は捕手として三橋に徹頭徹尾尽くしてくれている。

それ以上に何を望む必要があるんだ。

そう思って、三橋は自分の心の悲鳴に耳をふさぎ続けた。



それが良くなかった。

年度が変わり、いよいよ4月1日。

来週には新学期が始まるというのに、三橋のモヤモヤは頂点に達していた。

苦しくて夜も眠れない日が続き、ついにたびたび練習中に集中力が切れるようになってしまった。

ようやく少しずつコントロールが安定してきた、とバッテリーそろって実感していた矢先だったのに。不可解なタイミングでボールがすっぽ抜けるようになってしまった。

投球練習中、10球目で放ったボールが大きく阿部のミットを反れた。

ボールがピッチングネットに跳ね返ってバウンドしたのを見て、すぐそばから大きなため息が聞こえる。

「今日はもう上がりな」

投手コーチの百枝利昭が三橋に告げると、阿部がマスクを外してプレートの方まで駆け寄って来た。

「まだ温まってないのかもしれません。もう少しいいですか」

「駄目だ。三橋を見てみな」

阿部が三橋の様子を伺うと、確かに少し元気がないように見える。アップしている最中は調子が良かったのだが……

「こりゃ、心の問題だな」

「は?」

「阿部、三橋を家まで送ってやりな。何か悩みがありそうだから、道々聞いてやるといい」

阿部は渋々承諾し、まだ練習中の部員を残して、二人はとぼとぼと自転車を押して歩いていた。

だが、案の定会話は弾まず、いつの間にか三橋の家に到着してしまった。

「お前、悩みって、何」

阿部が思い切って別れぎわに聞いてみたが、三橋は視線を合わさず、陰気に首を振るばかり。

「ちゃんと話せよ。力合わせて強くなろうって、約束しただろ」

「……」

「お前、俺を頼ってくれ、って自分で言っただろ。俺のことは頼らないのかよ」

「……」

それからいくら待っても返事が返って来ないので、阿部は諦めて三橋を置いて家に帰った。



阿部君のことで悩んでるのに、阿部君に相談なんてできるわけないじゃないか。



阿部の本当の気持ちが知りたくて、水を向けたりしたわけでは決してなかった。

恋愛の話が出た時、話の流れから自分が勝手に判断して、阿部に好きな人がいるなら役に立ちたい、応援したいと思って出た言葉だった。

「ーー俺はお前が好きだよ」

出会って間もないあの頃から、この言葉を忘れたことはない。

自分でも全く自覚しないうちに、身勝手な想いはひそかに芽を吹き出し、自分の預かり知らぬところで一人スクスクと成長していたらしい。

もしも、阿部君が1ミリでも俺を好きなんだとしたら。

その相手にモモカンがスキなのか、なんて言われて、平常心でいられるんだろうか。

阿部はずっといつも通りだ。

ーーそれは、自分に対して、気持ちがないということ。

これがもらい事故なのか。

こんなに苦しいなら、誰も好きになんてなりたくない。

毎晩苦しくて泣いてるなんて、誰にも知られたくなかった。もちろん、阿部自身にも。



人は苦しさで追い詰められた時、自分でも全く不可解な行動を取ってしまいがちだ。

夕食を済ませ、風呂から出ても、三橋の心は波立って少しも落ち着かなかった。

部屋のベッドにごろりと横になると、LINEの通知が入っている。

何気なくアプリを開ける。阿部からのメッセージだった。

「何かあったらスグに連絡しろよ」

「明日遅刻すんなよ」

ぼうっとしていたので、そのまま無意識にツリーを上にずらし、何件か確認したところで枕元にスマホを置く。

すると、そのスマホから軽快な音楽が鳴り始めた。

通話の呼び出し音だ。

あわててバッと画面を確認すると、「阿部隆也」と表示されている。

間違って阿部のアイコンをタップし、それから音声通話ボタンを押してしまっていたらしい。反射的に通話終了ボタンを押した。

ほっとしたものの、次の瞬間、「何か用?」と阿部からメッセージが入った。

「ワンコールって何」

「スゲー気になんだけど」

ど、どうしよう。

立て続けにメッセージが入り、三橋は真っ青になりながらワタワタとあわててしまった。

間髪入れずに着信音が鳴る。

阿部からだ。思わずキャイイーッと悲鳴を上げる。

しかしすぐに出ないと明日が怖いので、三橋は数秒迷ったのち、受話ボタンを押した。

「……はい」

「ーー何?」

「なん、でも、ナイ、ですっ。間違え、ました」

「なんでもないわけねーだろ」

「ごめん、なさい」

「ゴメンじゃねーだろ。ちゃんと話せよ。気になんだろーが」

ふと、部屋の壁に母親がかけていった今年のカレンダーが目に入った。

もうすぐ、4月1日が終わろうとしている。

その今日の日付の下には、「エイプリルフール」の文字。

そうか。

今日だったら、なかったことにできるんだ。

苦しいなら、今すぐ吐き出してしまえばいい。

冗談にできるのは、今だけだから。



「好き、です」

「ーーはっ?」

「俺、阿部君が、好き」

「……」

「ずっと、好き、でした。俺、駄目なんだ。阿部君に、ずっと、投げなきゃ、駄目なんだ。……阿部君と、ずっと、一緒にいたい。俺と、付き合って、ください」

三橋は息を詰め、ぎゅっと右手の拳を握った。

これから降ってくる言葉に備えるために。

「……からかってんの?」

ああ、やっぱり。

「今日、エイプリルフールだもんな」

「……」

そうだよ、ごめんね、って笑って返したいのに、涙があふれそうで、泣き声に気づかれたくなくて、声を出すことができない。

通話を切ろうとすると、それを察したかのように「待て」という声がした。

「寝るなよ。15分だけそのまま起きてろ。そしたら電話するから」

そのまま、阿部の方から電話が切れた。

いったいどういうことだろう。

ざわざわした気持ちのまま指示に従って起きていると、きっかり15分後に電話が鳴った。

「は、はい」

「お前のオヤいる?」

何故か、電話の向こうの阿部は息が荒かった。

「い、いる」

「起きてる?」

何か不審な気配を感じ、三橋は緊張した。

「起きてる。テレビ、見てる」

「わかった。ーー今、俺、お前んちの玄関の前なんだけど」

驚いて窓のカーテンを開け、玄関を確認する。

暗くてよくわからないが、確かに黒い影が玄関前のアプローチに立っていた。

「上着着てからこっちに来い。オヤに気づかれんなよ」



阿部の指示通り、クローゼットからグランドコートを取り出して羽織ると、三橋は足音を立てずに階段を下り、そっと玄関の引き戸を開けた。

そこには本当に阿部が立っていた。かたわらに阿部のシティサイクルが置いてある。

同じく部のグランドコートを羽織り、ジーンズ履きだ。思わず小さく叫んでしまった。

「う、うそっ」

この15分の間に、ダッシュで自転車を飛ばして来たのだろうか。さっき別れたばかりなのに、もう時間も遅いのに、どうして?

「しーっ!」

阿部はびっと人差し指を口の前で立てた。「静かに。お前のオヤに気づかれんだろーが」

「ご、ごめん。でも、なんで、来たの」

三橋が恐る恐る聞くと、阿部の表情がみるみるうちに険しくなる。小声で阿部は囁いた。

「ーーお前さ」

「うっ……」

「エイプリルフールだから、わざわざあんなこと言ったわけ」

せっかく勇気を出して、なかったことにしようとしたのに、わざわざ対面で確認してくる阿部が恨めしい。

「あれは、嘘なのか?それとも、本気か?」

「……」

嘘に決まってるだろ。だって、恋愛禁止だろ。

これが嘘にならなかったら、俺達、バッテリーじゃいられないだろ。



「じゃあ、わかった。エイプリルフールって嘘ついていい日だもんな」

三橋は、鼻水を啜りながら阿部を見上げた。

夜は薄曇り。今にも雨が降り出しそうな、湿っぽい風が緩く流れている。

自宅の門近くに植わっている白木蓮から、大きな花房が二人の間にこぼれて落ちた。



「俺はお前が好きじゃない。すごくメーワクだよ。だから、付き合わない。でも、野球部は恋愛禁止になったし、俺らは甲子園に行くんだろ。卒業しても、俺とお前は付き合わない」

ああ……

俺、フラれたんだ。

でも、良かった。これで吹っ切れて、明日からまた練習に集中できる。

ちゃんと、顔、上げろ。

阿部君に、聞いてくれてありがとうって、言うぞ。

三橋が顔を上げた瞬間、

何か温かいものが、唇をかすめた。

そのまま、阿部の声が心地良く耳に響く。

「未来への嘘な。覚えとけよ」



三橋が呆然としていると、「おやすみ」と声を残して、阿部は去って行った。

ぬくもりが残る、自らの唇に触れる。



あんな緊張した阿部の顔を見たことがなかった。

最後の一言を発した時、少し阿部ははにかんでいたようなーー



布団に入ると、ひとしきり静かに三橋は泣いた。

最近ご無沙汰だった安らかなまどろみがやって来た。

きっと、明日は昨日よりいいピッチングができる。


今日くれた言葉も、ちゃんと覚えていよう。

甲子園で優勝して、卒業したら、きっとーー



ゆっくりと、三橋の意識が遠のいていった。

明日と、ずっと先の甲子園に向けて。