住職5分間法話(R3年 4月更新) 「布施」その①
禅宗など自力修行で悟りを得ようとする宗派においては、「六道」という悟りへの修行道で、第一番にあげている修行行為が「布施」です。阿弥陀如来の教えを一心に信仰する中で、悟りへの道が開かれるという「他力本願」を説く浄土真宗・浄土宗においても、慈悲ある行為として「布施」は大切にしています。
「布施」の「布」は、「広く」「多くの人」にという意味です。「施」は「喜捨」という意味です。私が持っているものを「喜んで我が身から切り離して、人にさしあげる」と言う意味のことばです。
「布施」をした場合、多くの人は、「私が」、「誰に」、「何を」あげたか、ということに捉われて暮らしているのではないでしょうか。もし、その心が生じているのであれば、それは「喜捨」にはなりません。与えた自分の方が恵んであげたのだとか、恵んであげた自分の方が相手の人より位置的に高いところにいると錯覚していたら、それはとんでもないことです。何故なら、「布施」という行為は、「貰ってくれる人」、「受け取ってくれる人」がいて成り立つ行為ですから、「施者・せしゃ」と「受者・じゅしゃ」は全く平等の位置関係です。もし、相手の人が、受け取ることを拒んだら、布施の行為は成立しません。施者、受者、施物(せもつ)があってこそ成り立つ行為です。施物は、形あるもの(お金、品物)もあれば、激励や慰め、いたわりの行動など形のないものもあります。そして、布施は原則として、相手の人から喜んでもらえるものを差しあげることが大切です。
「布施」には「三輪清浄」(さんりんしょうじょう)というこころが大切です。「私が」「誰に」「何をあげた」かを記憶から完全に消してしまうということです。なぜ三輪清浄が大切かと言えば、相手の人からお返しや、感謝の言葉や、あげた物さえ忘れられる行為があったら、「私があげたのに」、「誰に」、「何をあげたのに」と、「のに」「のに」と愚痴や腹立ちなど不浄な心が芽生えてくるからです。
それでは、せっかくに生じた尊い行為が汚れることになります。布施のこころは、「惜しみなく与える」「何らの見返りも期待しない」という清浄の心の行為です。「我執」といって、「あげた我を忘れず」「あげた物を忘れず」「あげた人を忘れず」暮らしている、その執着の心があると、永遠に迷いの道から抜け出すことできませんよ。