ときには哲学者きどりを…
私たちは、現世に留まっていつまでも遊んでいられるのなら…(つまり、寿命がなく、おかれた環境が概ね平和であるなら)特に何かについて思い悩むことはないでしょう。それが幸福かと考えると何か漠然とした虚しさを感じます。
実際は否応なしに時間が過ぎて行き。最期には死んでしまいます。気が付いたらこの世に生まれていて、寿命が尽きたら去るのです。普段はタイムリミットを意識せずに生活していると思いますが、死は避けられない事実です。このように極端に解釈すると、これもまた空しく感じます。
しかし、人生の最終章までにはいくつもの幕があり、段落があるでしょう。
短期、中期、長期と、それぞれに何か目標や希望があれば生き甲斐がうまれ、自分が何者を演じればよいのか明確になります。むなしさは無くなります。
(勿論精神的にであり、これによって金銭的な生活苦は解消されませんが)
ですので、その何かを自分で決めるか決められないかが大きな問題になると思います。それがないうちは自分の人生でありながら、エキストラとして参加しているようなものだと思います。エキストラが悪いとは思いませんが、主役を演じてこその人生ではないでしょうか。
知識や経験が、完全とはいかないまでも、ある程度充実していないと幼稚な価値観しか持てません。もちろん誰もが子供のうちはそんな状態です。純粋に夢や希望を語っても大人からみれば無謀なわがままにしか聞こえません。子供たちはまだエキストラです。つぶらな瞳で主役と思しき大人たちを見ています。
またもや・・・とりとめのないことになってしまいました・・・
今回言いたいことは自分の価値観で目標や夢を持ちましょうということ。それを設定してそこに向かって毎日進んでいることが人生の最大の目的だということです。
成功や達成を得ることではなく、何かに向かっていることこそが
「より豊かに生きる」ことだと思います。
それなら道草も、遠回りも悪くないでしょう。とりあえずは向かっているわけですから。
がむしゃらに最短最速で到達しようとすれば、速度を増すほど視野は狭くなり、狭量になってしまうでしょう。
図太く丁寧に、自由闊達でいきたいものです。