熱田
https://www.kitaguchilaw.jp/blog/?p=1063 【小澤實「芭蕉の風景(196)」熱田編から】より
新幹線に乗って遠方に出張するときは,車内誌「ひととき」を手に取る。
このところの一押しは,俳人・小澤實氏の「芭蕉の風景」の連載物であるが,先の広島(呉)への出張に際して読んだ今月号は,偶々,熱田(愛知県名古屋市)で詠まれた句(揚出句とその脇句)が紹介されていた。
① 此海(このうみ)に 草鞋(わらじ)すてん笠(かさ)しぐれ 芭蕉
② むくも侘(わび)しき 波のから牡蠣(かき) 桐葉
①の句意は,「この海(伊勢湾)にわらじを捨ててしまおう。旅笠には時雨(しぐれ)が降り掛かっている。」
貞享元年(1684年),芭蕉が,江戸から郷里(三重県伊賀)を訪ねたときの往路(「野ざらし紀行」),東海道の「桑名」(現・三重県桑名市)から舟で伊勢湾を渡って(「七里の渡し」),「宮」(現・愛知県名古屋市熱田区)に到着した際,熱田の宿屋の主にして,
俳句の弟子・桐葉への挨拶句が①の句である。
「わらじを捨てる」ということは,「桐葉」の宿にしばらく逗留する趣旨であり,「笠(かさ)しぐれ」は芭蕉の造語で,宗祇(室町時代の連歌師)の「世にふるもさらに時雨の宿りかな」(世の中に生き長らえるといっても,時雨に雨宿りする間のような,はかなく短いものだ)を踏まえているという。
この句から,江戸時代の名古屋市は,熱田神宮付近から南が海だったんだ,と改めて思う。
②の句意は,「波立つ海から収穫したばかりの『から牡蠣』(殻付きの牡蠣)を酒の肴(さかな)に 殻(から)を剥(む)いてみましたが,身がやせこけてて,侘しいものです。」
弟子の桐葉としては,師匠の芭蕉を丁重に接待したいのだが,酒の肴に仕入れてきた「牡蠣」は,あいにく小粒で,貧相な「おもてなし」しかできません,と詠んでいる。
桐葉の,恐縮した思いが伝わってくるような句だ。
小澤氏によると,「時雨」の音と「波」の音とが響き合っているとのこと。
広島に出向くと,いつも大先生が広島名産『牡蠣』をご馳走してくれるが,昔は,熱田でも,『牡蠣』が饗応に使われていたのですね。
ちなみに,江戸時代の「宮」と「桑名」の様子は,安藤廣重の下掲・版画のとおり。
https://toppy.net/nagoya/atsuta4.html 【火渡り神事と芭蕉のツレん家】 より
裸足で火の上を歩く火渡り神事-円通寺
熱田神宮の正門は南側にあるので、東門前の道路を南下します。右側が熱田神宮の敷地でなくなると、たくさんの幟が立つ曹洞宗円通寺があります。このお寺は、古墳時代の豪族尾張氏が熱田の神宮寺として建立したもので、弘仁年間(810-24)には弘法大師が自ら彫った十一面観音像を安置し、円通寺と名付けたといわれています。山号は補陀山ですが、火の神様が祭られていることから秋葉山と呼ばれており、毎年12月16日に行われる火渡り神事もよく知られています。
火渡り神事は火まつりとも呼ばれ、名古屋の年末恒例行事のひとつです。周囲200メートルほどの大護摩に火が入れられると、白装束に裸足の行者達がその火の上を渡ります。続いて信者や一般の人々がその火の上を渡っていきます。こうすることで1年の汚れを火で清め、新しい年を迎えるというわけです。200メートルは結構距離がありますし、走らずに歩くことから火傷をしそうな気がするのですが、不思議と火傷は負わないそうです。一度チャレンジしてみたいような...ちょっと怖い気もしますが。ただ、間違ってもストッキングなど燃えやすいものを身に付けて渡らないようにとのことです。それは想像しただけで怖い。
かつては神宮内にあったひつまぶしの名店-あつた蓬莱軒神宮南門店
円通寺から2本南の道路を西に歩いて行くと熱田神宮の正門があります。その正門近くにも興味深い場所があります。まず、門の前にはうなぎのひつまぶしで有名なあつた蓬莱軒の神宮南門店があります。蓬莱軒は本店がここから南に300メートルほどのところにあります。なぜそんな近くにお店を構えているのかといいますと、この神宮南門店は1949(S24)年から1996(H8)年まで熱田神宮の東門境内にあったお店なのです。諸事情によりこの南門近くの土地に移転したため、本店と近くなってしまったのです。本店はいつも行列で混んでいますから、こちらは穴場的な存在となっています。ひつまぶしについては本店の所で詳しくご説明します。お店の前を通るだけでタレの焦げるいい香りが漂います。
芭蕉の門人でもありツレでもあった-林桐葉宅跡
そしてその蓬莱軒の南どなりには、名古屋の言葉で言うと松尾芭蕉のツレの家がありました。そのツレとは林桐葉です。彼は1684(貞享元)年冬、「野ざらし紀行」の旅をしていた芭蕉をこの家に呼び句会を開きました。そのときに林桐葉は蕉門に入り、その後芭蕉は何度もここを訪れました。桐葉は鳴海で酒作りをしていた下里千足を芭蕉に紹介し、1687(貞享4)年には熱田三歌仙をここで巻いています。そんな桐葉も晩年には書道に熱中してしまい、俳句にはあまり興味が無くなってしまったそうです。そして1712(正徳2)年に亡くなっています。ただ書道もかじっただけではなく、臨高の号をもつ書の大家でもあったそうです。芭蕉は1694(元禄7)年に亡くなってしまっているので、それもあって晩年の林桐葉は俳句をあまりやらなくなってしまったのかもしれません。
芭蕉は亡くなった1694(元禄7)年にも名古屋を訪れています。この林桐葉の家は旧東海道の近くにあったこともあるでしょうが、門人としてだけではなく実際に友人としての付き合いもあったそうです。交通が発達していない当時、芭蕉の全国行脚の話はそれはそれは刺激的だったことでしょう。桐葉は芭蕉が来るのをいつも心待ちにしていたのだと思います。亡くなったと知った時のショックは大きかったでしょうね。
東海道の渡し舟に時を告げた鐘-蔵福寺
その林桐葉宅跡の向かいには蔵福寺があります。ここには七里の渡し航行のために、時を告げる鐘が設置されていました。今も当時の鐘が残されています。七里の渡しとは、東海道唯一の海上路でここから桑名までを結んでいた渡し舟です。七里の渡し跡はここから500メートルほど南西です。そこには戦争で燃えてしまった、時の鐘鐘楼が復元されています。この蔵福寺ですが、お寺の名前の看板が外から見えるところに無いのでちょっと不安です。
https://ameblo.jp/kk28028hrk/entry-12606383615.html 【笈の小文03】より
「笈の小文」の第5句は
5: 冬の日や馬上に凍る影法師 芭蕉句123参照
「この凍り付くような旅路。馬上に乗った私の影法師が凍り付いている」という一句。
「笈の小文」の第6句は
6: 鷹一つ見付てうれしいらご崎 芭蕉句079参照
「何も見当たらない茫洋とした冬の伊良湖崎、悠然と空を舞う一羽の鷹を見つけてうれしい」という一句
「笈の小文」の第7句は
7: 磨ぎなほす鏡も清し雪の花 (松尾芭蕉)
(とぎなおす かがみもきよし ゆきのはな)
前詞に「熱田御修覆」とある。熱田は名古屋市熱田区にある熱田神宮。官幣大社。「野ざらし紀行」の時にも訪れているが、荒廃していた。その翌年、貞享3年(1686年)10月に修復を終える。翌年(貞享4年)に笈の小文で訪れたときは新装なった熱田神宮。熱田大神が主神。神体は日本武尊(やまとたけるのみこと)の草薙の剣。
「磨ぎなおされた主神の鏡は清浄の光を放っている。折しも降る雪も花のように清々しい」
という一句である。新装なった熱田神宮の主神の鏡を詠んだ、実に清々しい一句である。
「笈の小文」の第8句は
8: 箱根こす人も有あるらし今朝の雪 芭蕉句107参照
「今朝のような雪をみると、こんな日に箱根の山を越える人もあるようだ」という一句。
「笈の小文」の第9句は
9: ためつけて雪見にまかる紙子かな (松尾芭蕉)
(ためつけて ゆきみにまかる かみこかな)
名古屋の「ある人の会」に招かれた一句。「ためつけて」は「きれいに整えて」、「まかる」は「出かける」という意味。「紙子」は保温用に作られた紙の服。
「さあ、きれいに整えて、雪見の会に紙子を着て出かけようかな」
という一句である。
冬の正装らしい正装も持たない、芭蕉もせめて、きれいに身を整えて出かけよう」という、うきうきした気分がみなぎっているような一句。普段は旅路に身を置きながら、招かれれば人好きな芭蕉らしい心情が伝わってくる。
階段の延々続く暑き島 (桐山芳夫)
三重県の離島で答志島の次に訪ねたのは神島であった。
https://blog.ebipop.com/2015/02/winter-basyo_8.html 【社殿を飾る白い花「磨なをす鏡も清し雪の花」】 より
熱田には何があったのか?
芭蕉は、渥美半島の厳しい旅からもどって、熱田(現・名古屋市熱田区)に宿泊。
熱田は東海道・宮宿(熱田宿)の宿場町。
熱田神宮の門前町として栄えた所。
芭蕉は、3年前の「野ざらし紀行」の旅で熱田神宮を訪れている。
このときは、熱田神宮は廃墟のように荒れ果てていたという。
今回、伊良古崎の旅から名古屋方面に向かってもどり、熱田神宮を参拝したときは、社殿は改修されていた。
磨なをす鏡も清し雪の花
松尾芭蕉
(*磨なをす:とぎなおす)
この「鏡」は、神社に祭ってある丸い鏡のこと。
芭蕉は、熱田神宮の改修された社殿を参拝したとき、そこに祭られた鏡に自身の姿を映して見たのかもしれない。
磨きなおされた清らかな鏡に、はたして、芭蕉の姿は映っていたのか、いなかったのか・・・・。
場面は暗転して、はらはらと白い花びらのような雪が落ちてくる上空。
舞い落ちる雪を見つめていると、自身が花びらの降る天空へ舞い上がって行くような錯覚を覚える。
芭蕉は、そんな錯覚におそわれたかどうかは別として。
地上の清い鏡と、天空の雪の花の対比が、とてもメルヘンチックなイメージを広げている。
それは辺境の旅からもどった芭蕉の、安堵感を表したもの。
芭蕉は、伊良古崎までの旅で、自身の鏡を磨ぎなおした思いであったかもしれない。
で、冒頭の「熱田には何があったのか?」
それは、3年前とは見違えるほど修復された熱田神宮の境内で、神々しいものがもたらす清らかな「安堵」ではあるまいか。
渥美半島の旅では辛かった雪が、いまは花となって、芭蕉に安らぎを与えているような。