生の詩人 金子兜太 ③
http://kuuon.web.fc2.com/SEINOSIJIN/SEINOSIJIN.131.html 【〈生の詩人 金子兜太〉】より
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群雀落つわが胸白い堰のごと
群雀落つわが胸白い堰のごと 皆『む』S23~35
昨日の二句、「遠雪嶺胸にブランコ止まりおり」、「赤錆鉄橋おんおん泣けずくぐりたり」と同様にまたはそれ以上に心理的な蒼白感がある。切迫した感じさえある。こういう心理状態の人に出会ったら、「大丈夫ですか」と声をかけたくなるに違いない。芭蕉の「病雁の夜さむに落て旅寝哉」が頭をかすめたが、芭蕉句の方はそれなりに自然との融合感があるのに対して皆子句の方は自然との断絶感を表現しているようにさえ思われるのである。
しかし逆に考えたい。自然との断絶感を表現できるということはまだ自然と繋がっているということである。表現とはそういうことであると考えたいのである。兜太はこの『むしかりの花』の序で次のように述べている。
・・・しかし、それ以上に皆子の作句への意欲を刺激したのは、生活環境の不快だった。住んでいたのは、私が勤めていた銀行の家族寮で、十数組がいた。物の乏しいころだし、毎日がざらざらしていた。それに加えて、私の勤め先における立場が複雑だったので、ほかの家族の目配りが違う。心情の海にひろがる干潟を潤そうとして、皆子は俳句をつくっていた。当時、「俳句は日常の安全弁」という言い方がよくいわれていたが、それだったといってもよい。・・・
表現するということの大切さを思う次第である。
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さらさら砂の頭蓋に夫子いて明し
さらさら砂の頭蓋に夫子いて明(あか)し 皆『む』S23~35
この句は
遠雪嶺胸にブランコ止まりおり
赤錆鉄橋おんおん泣けずくぐりたり
群雀落つわが胸白い堰のごと
などの一連の心理的な切迫感が強まっていく句の後に登場するのであるが、この句には困難に対する一つの解決が潜んでいるような気がしてならない。「さらさら砂の頭蓋」というのが、私には思考を停止させて事実をありのままに受け入れようという放下の状態のように感じるのである。この世の不条理な物事に対した時に思考がそれらを解決することは本質的に無いのであり、思考を捨てる事が解決になることもある。祈りの状態であると言えるかもしれない。そしてそういう状態において大切なものが見えてくる。この句の場合、「父子明し」がそれである。
解ったような、おこがましいような事を私は書いているが、私の場合の俳句鑑賞というのは、その俳句を私自身の内面に響かせて出てくる言葉をそのまま書いているのであり、客観的に作者の心理を分析しているのではないということを理解していただきたい。
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彼方透き秋楡の母如何に励む
070708
「さらさら砂の頭蓋に父子いて明し」につづいて次の句がある。
彼方透き秋楡の母如何に励む 皆『む』S23~35
この句にも、行き詰まっていた心の状態が開けてきたような印象を持つ。彼方が透き母の姿すなわち作者にとって大事なものの姿が見えてきたのである。心の中に大事なことの映像が結べる限り人間はへこたれないで励むことができる。「秋楡」という言葉がそのようなみずみずしさを取り戻した作者の心を象徴するように匂い立つ。
金子先生の言葉を借りれば、昨日今日の句は、心(ひとりごころ)から情(ふたりごころ)へ開けてゆく状態と言えるのではないか。
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コップに鳴らす夕焼重なり澄む母の忌
コップに鳴らす夕焼重なり澄む母の忌 皆『む』S37~42
「コップに鳴らす夕焼重なり」。私の書き写し間違いではないかとも思うくらいに意味は掴みにくい。しかし映像としては見えてくる。コップを前にしている。そこに夕焼が射している。その光と色彩が厚く重なっているような、まるで明るいキュービズムの絵画を見ているような映像である。そして「澄む母の忌」である。透明感のある厚い作者の心情とでも言ったらいいのだろうか。
映像としてはそうであり、そしてまた「コップに鳴らす」という言葉とともに、七・八・六というはみ出したリズムが独特の音楽性を持っている。心情を乗せた音楽性。これが皆子俳句の一つの魅力だと私は思っている。
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鰯雲漁網にかかる母の桃花鳥
鰯雲漁網にかかる母の桃花鳥(とき) 皆『む』S37~42
まず色彩が印象的である。そして生き物に対する愛。神話性もある。
鰯雲が空に流れているような秋の大きな海岸の風景。その中で漁民の日々の営みが行われている。ある時、その漁網に桃花鳥がかかった。その桃花鳥は「母の桃花鳥」であった。かつて母が愛した桃花鳥であった。あるいは母鳥である桃花鳥なのか。あるいは母なる大自然の象徴としての桃花鳥なのか。いずれにしても、作者の自然に対する愛しさが伝わってくる。
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深く明るい眼底の緑地ゆれる梯子
深く明るい眼底の緑地ゆれる梯子 皆『む』S37~42
「深く明るい眼底の緑地」、安らぎのある場所、今日は在るが明日は無くなるという場所ではなく常に存在する場所。そのような場所を作者は垣間見ているのかもしれない。私にまで安らぎの気持ちが伝わってくる。現実的には作者は「ゆれる梯子」を登っているのであるが、このような状態、つまり安らげる場所の存在を確信しながら揺れる梯子を登って行くような現実を生きて行くという状態は、あらゆる信仰者が成している状態ではなかろうか。皆子さんには信仰者の面影がある。
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からすからす呑み込んだ小石火打石
からすからす呑み込んだ小石火打石 皆『む』S37~42
楽しい句である。童話性ありありアニメーションを見ているようであり、また人生とはこんなものという寓意性あり、そしてそれを楽しんでいる風情がある。楽しんでいる風情というのは全体のリズムが快いことから受ける感じである。
この句の一句前に
掌の疲れ花のよう父へ書く
という句があるが、この句は和三十七年に兜太が『海程』を創刊した、その発行事務を全面的に担当することになり繁忙を極めた、時の句である(近刊の遺句集『下弦の月』のあとがきに兜太が書そういている。)。この「からすからす・・・」の句もそのような状況の気持ちがよく出ているのではないだろうか。
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乳房打つごとき
あかつきありて海
乳房打つごときあかつきありて海 皆『む』S37~42
強い自然との遭遇感。また強い運命との遭遇感。そしてそれらとの融合感を感じる。そしてその事の全体の背景にはあかつきの海が広がっている。ゆったりとした大きな自然の中の劇的な人間の運命。ゆったりとした大きな自然の中に溶け込んでゆくということ。女性の持っているゆったりとした大地性への目覚めのごときものを感じる。最後の「海」がとてもいいのだ。
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あじさい色に溜りながれゆく肉親
あじさい色に溜りながれゆく肉親 皆『む』S37~42
砂山の風紋に似る妻の日あり 〃
指にくる夕映えは鳥はばたかせ 〃
ほととぎす朝焼を継ぎ母のぼる 〃
みな美しく、流れるような夢見られているような日々が感覚的に書き取られている。感覚的であるゆえに一見難解であるが、女性特有の感性が説明なしに直接的に書かれているのではないだろうか。だから、読んでいると、こちらまでが流れるような柔らかい気分になってくる。色彩がまた柔らかく美しい。
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ある夜の厨皓皓と黴びる足
ある夜の厨皓皓と黴びる足 皆『む』S37~42
この句には強い何かがある。その何かは何だろうかと考えている。生きているエネルギーの強さ?。生きてある時にやってくる物事を戯けて見る力?。とにかく、ある夜の厨が皓皓として足が黴びている、あるいはある夜の厨で足が皓皓と黴びているというのは凄い。充実した生のエネルギーが形象化されたという感じである。
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峠大きな目で泣くははたちの新月
峠大きな目で泣くははたちの新月 皆『む』S37~42
作者自身の二十歳の頃の回想だろうか。客観的に距離感をもって見ている雰囲気がある。だから映画の一場面のような映像が結ばれているのではないだろうか。読む方も、香り高い紅茶でも飲みながら、新鮮で上質な映画を鑑賞をしているような気分になる。「峠」、「大きな目」、「泣く」、「はたちの新月」、これら全ての言葉の道具立てが初々しく新鮮な二十歳の頃の一つの場面を演出している。
今私は兜太の次の句を思いだしている。
祖父恋し野を焼く子等と共に駈け 『少年』
多分両句とも懐かしい映像感(懐かしい時代の映像感)があり、柔らかくて初々しい思春期のハートを感ずるからではないだろうか。同じ映画の違う場面と見ても不思議はない。
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牛泊める野駅に美しく兄の子
今は金子皆子『むしかりの花』の第二章〈青い鳥〉(昭和三十七年~四十二年)を鑑賞しているのであるが、これまで第一章から始まって、かなりの句を取り上げて来た。それだけ解りやすく読み応えのある句が多かった気がする。それがここに来て、急に取り上げられる句が少なくなってしまったような気がする。私の鑑賞力不足ということもあるだろうが。全体に難解であり、また迫ってくるものが弱いという感じがある。そこでこの第二章〈青い鳥〉の後半の五十四句をとばすことにした。それでも次の句などは叙情性のある良い句だと思った。
ふり向かぬ父の背雉子を抱いて蹤く 皆『む』S37~42
かなしみの草原を着る夫も鳥 〃
牛泊める野駅に美しく兄の子 〃
兜太句の場合、初期の『少年』などの句、また後期の『東国抄』以降現在までの句は解りやすいものが多く、難解なものはその間の句集に多い気がしている。皆子句の場合もそういうような事が言えるのだろうか。そのあたりの句作における現象も夫婦同行ということがあるのだろうか。ちなみにこの〈青い鳥〉の書かれた時期は兜太では『蜿蜿』という句集の時期にあたる。とは言っても『蜿蜿』には次のような秀句が存在するのである。
孤独な鹿草けり水けりおわれる鹿
どれも口美し晩夏のジヤズ一団
沼が随所に髭を剃らねば眼が冴えて
紫陽花の夜にうずくまる善意の妻
無神の旅あかつき岬をマツチで燃し
星近づけて馬洗う流域富ますべく
鶴の本読むヒマラヤ杉にシヤツを干し
三日月がめそめそといる米の飯
最果ての赤鼻の赤摩羅の岩群
海流ついに見えねど海流と暮らす
鹿のかたちの流木空に水の流れ
人体冷えて東北白い花盛り
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春月はばたく
ころがれころ
がれ熟寝猫
そういうわけで大分句を飛ばしたので、今日からは第三章の〈榛の木〉(昭和四十三年~四十五年)の鑑賞になる。さてこの章からは何句選べるだろうか。
春月はばたくころがれころがれ熟寝(うまい)猫
皆『む』S43~45
このようなリズムをともなって情を表現するのは金子皆子さんの特徴であり、句がいい。多分このようなリズムは頭から出てくるものではなく、体から(自然の情が体を通して)出てくるものだからではないだろうか。リズムは体の領域すなわち大地の領域に属するから、自然に発せられたリズミックな俳句は、しかつめらしく頭で考えなくてもいいし、感覚を研ぎ澄まそうと努力しなくとも伝わってくるので気持ちいい。
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新じゃが転ぶひざがしら強い太陽といる
新じゃが転ぶひざがしら強い太陽といる 皆『む』S43~45
偶然ではあるが、昨日は梅雨の晴れ間を得たのでじゃがいもを掘った。鍬などの道具を使うとじゃがいもに傷をつけることがあるので、手袋をはめて手で掘ってゆく。私はしゃがむ形が弱いので、殆ど土に膝を付けて作業をする。今年は我が家ではかなりの豊作のようである。二百キロくらいは収穫できるのではないか。
兜太の句に
芽立つじやがたら積みあげ肉体というもの 『少年』
とうのがある。そういえば、じゃがいもというのは土であるとか、肉体の素朴な姿を連想させる。この兜太句の場合は「芽立つじやがたら」であるから、生殖や情念をともなった肉体というものを連想させる。
この皆子句から受ける印象は、土であるとか、むしろ情念をともなわない肉体感であり、素朴で健康的なエネルギーの表現のような気がする。
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大弱りの森木洩陽のタスケテタスケテ
大弱りの森木洩陽のタスケテタスケテ 皆『む』S43~45
余裕のある戯け。童話性。アニミズムの要素。そして映像も見えてくる。
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川がらす好きな水輪の一つうつむく
この辺りもまた難解な句が多い。その中に次のような好句が出てくる。透明感のある一つの風景。粗大な現実世界の風景というよりは、より精妙な意識の世界の風景という感じである。当然「からすからす呑み込んだ小石火打石」と同じからすだなあとも思う。
川がらす好きな水輪の一つうつむく 皆『む』S43~45
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哭き木立暗き面を吊す月
〈父の死〉と前書のある次の一句がある
哭き木立暗き面を吊す月 皆『む』S43~45
寡黙である。ぶっきらぼうにただ暗いと言っている感じである。父の死を目の前にして表現に詰まってしまったという感じさえある。父の死、あるいはそれに象徴される、自分を司っているものの死を受け入れられない、見たくない、穿ちたくない、という心理があるのではないか。母の死に際しての「春山の底なる母の骨思う」という母の死を受け入れた感じの句とは大分違う。皆子さんには存在を司る力を父性的なものと見る傾向があったのではないだろうか。それ故に、そのことを暗示させる父の死に際して、このような口数の少ない表現になったのではないだろうか。何故ならそれは自己の死ということにほかならないからである。そして後年、癌という死の病に際してのあのふっ切れたような、永遠性への希求と言えるような真情吐露は、ここで詰まっていたものがその流れを得て迸ったという感じさえあるのである。つまりあの『花恋』での恋心は、存在を永遠を司るものへの恋心の表明である。
皆子さんに比べ兜太はその岳父の死に際しての心情の襞を克明に書き留めている。以下
山峡(岳父の死)・十二句 『暗緑地誌』
峡ふかく死にたり真水口に得て
月射す峡身(しん)熱きとき涙
遠山に日の痕(こん)集えば傷みの家
明(あか)きは生者晩秋樹林に日の足音
暗し山影銀鈴の瀬を葬(はふ)り人
峡の奥血痕のごと日の斑(まだ)ら
鷹影すぎ棺(ひつぎ)の岳父(ちち)に冬の花
ひたに山影秋霜のごとき死ありや
岳父(ちち)なき冬鷹過ぎ耳に赤のこる
誰にも鷹影貧の恨みの山の陰
父母なき妻に夢定(むじよう)の朝のとびくる冬
犬猫に冬どす黒き好日あり
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しみじみ生きるもの父母は鱗雲
しみじみ生きるもの父母は鱗雲 皆『む』S43~45
『句集』ではこの句は昨日の句の数句後にある。しっとりと落ち着いた風情がある。
愛するものの死に直面して人間は制御することの出来ない意識の領域で自己の死というものを垣間見ざるを得ない。そして多くの場合はその事(愛するものの死をいうこと)が言語化されることによって人間は自分を納得させて日常へ戻ってゆくことが出来る。例えば、「愛するものは天国に召された」、「彼は仏様の国に行かれた」、最近では「彼は千の風になってあの大きな空を吹きわたっている」という具合である。そのように、皆子さんの場合は「父母は鰯雲」であるという想念に到るような内面の落ち着き方があったのではないだろうか。
そしてこの句に「鰯雲果てまであれば亡母の白さ」(S23~35)などよりも落ち着いた全一感があるのは、父母がともに鰯雲であるという事から来るのではないだろうか。自分に生を与えたのは父でもあり母でもあるからである。
209
鳥のうなじと吾がうなじとにあり雪しろ
鳥のうなじと吾がうなじとにあり雪しろ 皆『む』S43~45
淡い水彩画の趣きといったらいいだろうか。鳥と自分の肖像が優しい淡彩に溶け合って描かれているという感じである。多分女性にしか描けない肌合いの句であり、だから遠くから美しいなあと思いながら眺めているだけの感じなのであるが、しかしそこに流れている自然との融合感は気持ちがいい。
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木洩陽にいる黒猫の目の国
木洩陽にいる黒猫の目の国 皆『む』S43~45
確かにそういう感じはする。そういう感じというのは、木洩陽の中に座ってこちらを見ている黒猫の目の中には国があるような感じであり、また木洩陽の中に座ってこちらを見ている黒猫自体がその国に既に居るような感じである。どんな国かと問われれば、そのような国であるとしか言いようが無いのであるが、例えば不思議の国のアリスのような夢というか物語りの国よりはもっと実在に近い感じがあり、艶のある時間が流れていて、身体は重力から解放されているように軽く透明感が在り、心にも何も重いものが無いような、そんな国である。
ちなみに「黒猫の目」について書いた兜太の句には次のような印象的なものがある。多分同じ猫のことではないか。
黒猫ありきらきらの眼は菱の実 『狡童』S47~49
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からすアワアワ私が溺れるという春
からすアワアワ私が溺れるという春 皆『む』S46~48
この「アワアワ」というオノマトペが魅力である。からすの擬声語でもあるし擬態語でもある。慌(アワ)てふためくのアワであるし、泡泡(アワアワ)のアワでもあるし、淡淡(アワアワ)のアワでもあるし・・・。そしてこの「アワアワ」は「アワアワ私が溺れる」というニュアンスも持っている。からすもアワアワしているし私もアワアワしている。
からすとの共生感とともに「私が溺れるという春」という客観的に自分を見て戯けている風情がこの句の魅力でもある。
兜太の次の句の鴉のオノマトペもとても魅力がある。擬声語でもあるのだが、意味を持った人間の言葉に近く、鴉と問答をしているような雰囲気がとても洒落ていて滑稽である。句の内容も構造も皆子句に似ている。そしてこの句が載っている句集『狡童』が昭和47~昭和49年の間の句作であるから、ちょうどこの皆子句の作られた時期と重なるというのも興味がある。
われら皮膚汚れたりあいあいと島鴉 『狡童』
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難解ということ
難解ということについて考えている。難解な俳句というのは内面のスナップ写真のようなものなのではなかろうか。よく俳句はスナップ写真のようなものと言われたりするが、それは外界の風景などについて言われることであると思うが、そのような俳句はいわば只事で詰まらないのであるが、その只事俳句の逆のケースが難解な句であり、それは内面をスナップ写真のように描写したものなのではなかろうか。大雑把に言えば、外界のスナップ写真が只事俳句であり、内面のスナップ写真が難解な俳句である、というようなことを考えている。
このあたりの皆子さんの句には難解なものが多いのであるが、それは内面のスナップ写真のような感じがするである。内面のことを書こうとしているから捨ててさっと通り過ぎるのも惜しいし、かといって取り上げて鑑賞するのも焦点が定まらないのである。そういうジレンマがある。
そういう難解な俳句を鑑賞すると、独り善がりな鑑賞になる恐れがあるのであるが、それを承知で明日から少し取り上げてみたい。
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ある夜沈めぬ桐の花見ゆ見ゆる悲しみ
ある夜沈めぬ桐の花見ゆ見ゆる悲しみ 皆『む』S46~48
若い頃はよくボブ・ディランの歌を聴いた。英語であるということもあるし、その歌詞は概ね難解なものが多いので歌の意味は全く無視して聞いていた。しかしそれで伝わってくるものがあったし、その伝わってきたものが私のボブ・ディランであった。そしてその伝わってくるものが気持ち良かったから、よく聴いていたのではないだろうか。
金子皆子さんのこの句なども意味は難解であるが、作者のいのちの質のようなものが韻律に乗って私の所まで届く。金子皆子さんはそういう自分のいのちの質を伝えられる韻律を持っていた俳人ではなかろうか。
次の句も同じような印象がある。いのちの質の破調とでも言っておこうか。そう言えばボブ・ディランにも同じようなことが言える。
千の椋鳥姉(あね)さま姉さませつ子千代紙
皆『む』S46~48
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風が開きし夕空が花 人よ
大きな風にみな坐り高声は鳥 皆『む』S46~48
晩夏吾らも哭きざま異なりし鬼か 〃
風が開きし夕空が花 人よ 〃
この辺りにある同じような雰囲気の句である。何が共通するものなのか考えている。
いろいろ言葉を探しているうちに、金子先生の「情(ふたりごころ)」という言葉に行きついた。これらの句に共通するのは情(ふたりごころ)への渇きであり希求でないだろうか。
ラーマ・クリシュナは「人間の中に神をみなさい」と言ったが、つまり情(ふたりごころ)というのはそういうことではないのか。金子皆子さんは本質的に情(ふたりごころ)の人であり、また人間の中に神を見たかった人ではないだろうか。
215
北国に踏切り響き蝶の少女
北国に踏切り響き蝶の少女 皆『む』S46~48
この句は焦点の定まった佳句である。映像も結ぶし、音も匂いもあるし、叙情もある。旅情もある。胸のあたりがせつなくなるような郷愁もある。「蝶の少女」というのが蝶のような少女でもあり、少女の蝶でもある。このあたりにアニミズムの雰囲気も漂う。
同じ頃の兜太の句集『暗緑地誌』(S42~47)に次の秀句があることを思いだした。
涙なし蝶かんかんと触れ合いて
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海のやさしいまつげ我が内側の鴎
海のやさしいまつげ我が内側の鴎 皆『む』S46~48
自然との一体感の中で癒される感じを表現したのではなかろうか。鴎と海はすでに一体である。そうに決まっている。彼らには自我による分離感は存在しないからである。鴎と海との緊密な交感に、いや交感以上の一体感に、作者は加わろうとしている。そして作者も実は自然と一体であるということを気付き始めているのではなかろうか。
この句と殆ど同じ時期に、兜太の句に次がある。
鴎やわらか妻よろこんで日だまりへ 『早春展墓』S48~49
鴎やわらか妻よろこんで日溜りへ 『狡童』S47~49
217
椋鳥の流れの中の風の大耳
椋鳥の流れの中の風の大耳 皆『む』S46~48
空の大景が見えるし風の音も聞えてくる。
昨日の句の「海のまつげ」もこの句の「風の大耳」も、多分真似をしたら危ない表現になる気がする。よほど自然との一体感が得られなければ使えないのではないか。金子皆子さんの場合はそれが使えたということだろう。
218
難解な句
次のような句は難解である。
朝日・旗凍る玩具をみな曳けり 皆『む』S46~48
水銀枯野霧巻けば霧にある細乳房(ほそぢち) 〃
林の春あらくれごとに鳥蜥蜴 〃
林の春茱萸(ぐみ)持ちぬあれは曾祖母 〃
首の骨鳴れれんげ田消えている眠り 〃
揺れるは人の頭か草の穂か危(注・月扁が付く)し 〃
219
夜の軒走るのは誰あおあお雨
次のような句は若々しい気あるいは感覚がある。
眉間にて青色を割り海鳥たち 皆『む』S46~48
青色が印象的な絵画のよう。
耳鳴りの奥の麦秋光り少女 〃
この「少女」は各々の人間の中に存在する無垢なる者という感じがする。
夜の軒走るのは誰あおあお雨 〃
夜の軒を走るのは誰かと思ったら、「あおあお雨」さんだったというのである。自然への親しみ・呼びかけ。アニミズム。
220
青衣の月とありわが水の林
次の句達はそれぞれ美しく優しい。しかしどこか籠っている感じもある。
青衣(あおぎぬ)の月とありわが水の林 皆『む』S46~48
連れ翔ちの鳥木洩陽の金の輪金の輪 〃
花の木のぼる黒猫花の木のいもうと