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伊昔紅と兜太を感じられる壺春堂を未来へ残したい

2018.04.04 03:03

https://camp-fire.jp/projects/view/262817  【伊昔紅と兜太を感じられる壺春堂を未来へ残したい】

まちづくり・地域活性化

壺春堂とは、俳人として有名な金子兜太の生家であり、父伊昔紅(本名:元春)の暮らした場所です。兜太・伊昔紅の感性を培った息吹を感じられる部屋、生前交流のあった俳人水原秋桜子や加藤楸邨の短冊・色紙をはじめ、数多くの貴重な資料が残されています。今回はその壺春堂のシンボルとなる扁額制作費用を募集いたします。

このプロジェクトは、2020-07-23に募集を開始し、107人の支援により751,000円の資金を集め、2020-08-30に募集を終了しました


はじめに・ご挨拶

皆様はじめまして、一般社団法人「兜太・産土の会」(とうた・うぶすなのかい)理事長の菊池政文です。この度は私たちのページをご覧下さりありがとうございます。

当会は、埼玉県秩父の皆野町に現存する、俳人、金子伊昔紅・兜太親子が起居していた古民家「壺春堂」(こしゅんどう)を以前のように活気ある交流の場となることを目的として、後世に残せるよう活用し続けていくことを目指しています。

皆野町のこと

壺春堂のある皆野町は、埼玉県の北西部に位置する秩父盆地の一角にあります。山々に囲まれ、町の中央には荒川が流れる自然豊かな町です。秩父鉄道「皆野」駅からほど近く、歩いて3、4分の場所に壺春堂はあります。江戸時代に建てられ、約150年以上も町を見守ってきました。

金子 兜太(かねこ とうた)のこと

金子兜太は昭和から平成にかけ、前衛俳句、社会性俳句の旗手として活躍した俳人です。

伝統俳句と異なる自由な作風が魅力の一つであり、兜太自身も野性味があり、大らかで自由な人物でした。

兜太は一九一九年に父元春(俳号:伊昔紅)と母はるの間に生まれました。

二歳から四歳まで父の勤務地である上海で過ごし、高校の進学で水戸へ出る十七歳まで皆野町で暮しました。幼いころから、伊昔紅が開催する俳句会の様子を見たり、庭で練習していた秩父音頭を聞きながら眠りについていました。そんな生活の中で、兜太の体には自然と五七調がしみこんでいきました。

句会で酔って喧嘩をする様子を見て、母は「俳句なんかやるんじゃないよ、あれは喧嘩だからね。」と、いつも兜太に言い聞かせていたといいます。

そんな兜太ですが、旧制高校で出会った先輩の誘いで句会に参加することになり、初めて俳句を詠みました。その後は十九歳で加藤楸邨主宰の「寒雷」に投句し、以来楸邨に師事します。

俳句の虜となった兜太を、母は「与太」と呼んでいました。

百四歳まで生きた母とのエピソードに次のようなものがあります。

亡くなる年の夏、具合があまり良くないと聞き見舞いに訪れた兜太の顔を見るなり、

はるは「与太が来た、与太が来た、ばんざーい」と満面の笑みで言ったそうです。

その時のことを兜太は俳句に残しています。

夏の山国母いてわれを与太と言う

大学を繰り上げ卒業してから日本銀行へ入行しましたが、入行後すぐ海軍中尉として応召、戦地へ赴くことになります。太平洋トラック島での体験が、戦後の生き方の元となります。

戦後は日本銀行へ復職し、退職まで二足のわらじで俳句を作り続けました。

四十代の後半頃、秩父にほど近い熊谷へ越してから、秩父という兜太にとっての産土(うぶすな)を

意識するようになったと言います。生まれ育った土地、産土(うぶすな)はどんな時でもそこにあり、「産土こそが人生を支えてくれる」と、故郷をとても大事にしていました。

この言葉は、私たち兜太・産土の会の名前の由来でもあります。

兜太の俳句には、産土である秩父を詠んだ句もたくさん残っています。

曼珠沙華どれも腹出し秩父の子

(兜太が東京の大学時代、休暇で秩父に帰郷した時に作った句)

兜太はまた、漂泊の人生を歩んだ小林一茶や山頭火に惹かれた研究家でもありました。

座右の銘は「荒凡夫」(あらぼんぷ)。

小林一茶が六十歳の正月に書いた文章の中に「荒凡夫」という言葉が出てきます。

荒凡夫とは、自由に煩悩のままに生きる平凡な人間のことです。六十歳になった一茶は、自分が煩悩を捨てきれない、どうしようもない平凡な男であることを自覚し、残りの人生を阿弥陀如来に向けて「どうか荒凡夫で生かしてください」と願っています。

自分の愚を自覚した人間は強い。また、本能は欲を生み出すことが多い一方、美しいものをとらえてくれる。本能を押し殺すことなく、荒々しく平凡に生きて、人に迷惑をかけることもない。兜太はそんな一茶の生き方に「一茶の荒凡夫で自分も生きたい」と強く共感しています。

兜太の俳句のように、兜太自身も派閥を作らず、様々な人たちとの自由な交流がありました。

人としても俳人としても、野性的であり、人にやさしく、ユーモアのある人でした。

金子 伊昔紅(かねこ いせきこう)のこと

兜太の父・金子伊昔紅(いせきこう)も開業医をしながら俳人として活動していました。

壺春堂は、伊昔紅が営む医院と住居を兼ねた建物でした。午前は宅診、午後は往診で出かけ、帰宅が深夜になることも少なくなかったと言います。

伊昔紅が、往診の途中で詠んだと思われる句が残っています。

往診の靴の先なる栗拾ふ

当時は医療保険制度もなかったため、診療の報酬を現金ではなく野菜や魚などでいただくこともあったそうです。中には草や木、石などの場合もあり、今でも壺春堂の庭にはその面影を残す様に、色々な草木や石が存在しています。

伊昔紅はまた、秩父音頭を復興した人物でもあります。当時卑俗な歌詞のため禁止されていた秩父音頭の歌詞を公募や自らが書き直し、振り付け等も手直しして再生しました。

俳人としては「馬酔木」(あしび)に所属し、水原秋桜子や石田波郷らと親交がありました。自宅である壺春堂で毎月俳句会を開き、20人を越える中青年が集まりました。みんな昼間は仕事をしながら俳句を詠みました。壺春堂は秋桜子をはじめとする俳人たちが訪れ、交流を深めた場所でもあります。

壺春堂内部は伊昔紅時代のままの状態で保存されています

壺春堂を訪れた様々な文化人の俳句が残る襖紙

今でも皆野町の様々なお店で伊昔紅の句と出会うことができます。町には伊昔紅撰文の記念碑も多数存在します。金子伊昔紅は壺春堂とともに、秩父や皆野の文化を牽引する存在として、地域から愛された人物でした。

壺春堂(こしゅんどう)のこと

「壺春堂」は兜太の父伊昔紅が営む、医院と母屋を兼ねた建物で、築150年以上を経ています。この中には金子兜太の幼少期から青年期の自筆の日記や蔵書など、貴重な資料が多数残されております。

伊昔紅時代の壺春堂を知る先輩方々に取材する中、父親の伊昔紅(いせきこう)、兜太と弟の千侍(せんじ)といった金子家の俳人3名がここに住まい、秩父の文化を牽引していた伊昔紅を慕って何名もの文人墨客、例えば、水原秋桜子、加藤楸邨、石田波郷などが夜な夜な句会と酒宴を催していたと聞き及びます。その「壺春堂」には先人の俳人等の熱狂が生んだ俳句の「言霊」が濃厚にそこ彼処に浸透していると感じます。

これまでの活動

壺春堂の保存改修を目的として、2019年5月に「兜太・産土の会 壺春堂再生・兜太記念館設立プロジェクト」 が発足しました。

改修前の壺春堂外観

改修工事打ち合わせ風景

同年においては有志の皆様からの寄付により展示室への受付やコミュニケーションスペースとして使えるカフェ様式への改修工事及びトイレの増設、エントランスの補強工事をすることができました。

改修後の壺春堂外観

改修後の壺春堂コミュニケーションスペース

改修すべき箇所はまだまだございますが、たくさんの方からの支援により、ここまで改修することができました。ホームページにて活動実績の記録を公開しておりますので、ぜひご参照ください。

http://www.koshundo.jp/

「壺春堂扁額制作プロジェクト」のこと

壺春堂には伊昔紅が開業した当時から存在する「一壺春」と書かれた書と扁額が残っています。しかし、本来の名前である「壺春堂」の扁額はありません。

皆さまのお力添えにより、壺春堂をコミュニケーションスペースとして改修することができましたが、場所を作っただけでは人は集まりません。まずは壺春堂を知っていただくことが大切です。交流の場として再生していくにあたり、私たちは本来の名称である「壺春堂」の扁額を作り、建物のシンボルとすることで壺春堂に再び命を吹き込みたいと考えました。扁額は経年による変化を楽しみ、長く残っていくものでもあります。壺春堂も同様に、時の流れに変化しながらも長く持続していくようにとの願いでもあります。

壺春堂開業当時から存在する「一壺春」の扁額

《扁額と書の依頼の経緯》

改修と同時に、産土の会メンバーでは壺春堂の資料や歴史を調べておりました。その調査の中で資料に触れるうち、伊昔紅と兜太、壺春堂には“書”との縁が存在していると感じる様になりました。伊昔紅は文学に精通することで自然と筆を持った人であり、兜太は自分の言葉の表現のため、今の時代でも敢えて筆を選んだ人だと気が付いたのです。

書からは、伊昔紅と兜太の違い、兜太の年齢による書の変化など、俳句とともに人となりや歴史までも感じることができます。壺春堂のシンボルとして魂を持ち、今後何十年にもわたり残っていく「壺春堂」の扁額にとって、書は重要でした。

伊昔紅や兜太の書のこと、壺春堂の歴史など様々な流れを汲んだ「壺春堂」を生み出せる、書と文学の両方に造詣がある方を探したいと思いました。その結果、書道学博士で専門が日本書道史、そして日本文学にも精通している根本知に行きつきました。また、根本氏も金子兜太のファンであったことからこの度の依頼が実現いたしました。制作については、根本氏のご紹介で彫師の「中村美工堂」様にご依頼させていただくことになりました。

《コロナウイルスの影響とクラウドファンディングの立ち上げ》

さあいよいよ扁額制作のために動き出していた時、新型コロナウイルスの事態により世の中が大きく変化してしまいました。有志の方へのお話しもできない状態となってしまい、寄付が当初の予定を大幅に下回る金額となっている状況です。

現在は、書道家の根本知氏の書までは完成している状態ではありますが、それを扁額として完成させることができておりません。この状況の中、どうにか壺春堂を救う手立てはないかという一心で、クラウドファンディングを立ち上げました。

金子兜太や伊昔紅の言霊が残るこの壺春堂の扁額をなんとか完成まで導きたい、そして今後の再生・保管のシンボルとして創り上げたいという目標を達成するため、何卒皆さまのご協力を賜りたく。何卒よろしくお願い申し上げます。

今回ご依頼させていただいた書家の根本知(ねもと さとし)氏からひとこと

『かねてより金子兜太の血の通った俳句、そしてその父である伊昔紅の、文学のみならず書にも向けた純粋な眼差しに惹かれておりました。この度、記念館の扁額をご依頼いただきまして、自分らしい書のなかに兜太のような飾り気のなさ、そして伊昔紅のようなたおやかさを意識して揮毫しました。』

詳しいお話は後日、壺春堂で講演をお願いしておりますので、そちらでお話しいただくことになっております。私達も伊昔紅や兜太の文字を書の観点からお話しいただけるということで、大変楽しみにしております。

図書館のスーツを着た男性

自動的に生成された説明プロフィール

根本 知(ねもと さとし)

1984年生まれ。

埼玉県越谷市出身。

2013年大東文化大学大学院博士課程修了、博士号(書道学)取得。現在、大東文化大学文学部書道学科、放送大学教養学部人間と文化コース、大東文化大学第一高等学校、日本橋三越カルチャーサロンなどで教鞭を執る。

主な著書に『美文字の法則 さっと書く一枚の手紙』(さくら舎)、『光悦―琳派の創始者―』「光悦の書」(共著/宮帯出版)。またTV出演にTV TOKYO「美の巨人たち」「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」などがある。