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俳人・金子兜太の足跡ー俳句の旅と熊谷の自然・郷土をめぐってー

2018.04.04 04:30

http://www.kumagaya-bunkazai.jp/kounanmatinoiseki/haijin_kanekotoutanoasiato.pdf

【俳人・金子兜太の足跡ー俳句の旅と熊谷の自然・郷土をめぐってー】 より

熊谷市立江南文化財センター 山下祐樹

金子兜太(1919-2018)

大正8年(1919)9月23日、埼玉県小川町生まれ、秩父の地で育つ。旧制熊谷中学(現在の埼玉県立熊谷高等学校)を経て、旧制水戸高等学校在学中に句作を始める。1943年、東京帝国

大学経済学部を卒業。同年、日本銀行に入行。

1944年より終戦まで、海軍主計中尉、後に大尉としてトラック島(現在のミクロネシア連邦チューク諸島)に赴任。1946年に復員し日本銀行に復職する。1955年、第1句集『少年』を刊行し、翌年に「現代俳句協会賞」を受賞する。1962年、俳誌『海程』を創刊、主宰を務める。

1967年、熊谷市に転居。1974年に定年退職後、俳句に専念。1983年、現代俳句協会会長に就任。

1988年、「紫綬褒章」を受章。精力的に句作を進め、「詩歌文学館賞」(1996年)、「現代俳句大賞」(2001年)、「蛇笏賞」(2002年)、「日本芸術院賞」(2003年)、「正岡子規国際俳句賞大賞」(2008年)などを受賞。2008年に文化功労者。2009年、熊谷市名誉市民に推挙。2010年に「毎日芸術賞特別賞」及び「菊池寛賞」を受賞。2016年、戦後一貫して現代俳句を牽引したことが評価され「朝日賞」を受賞した。随筆・評論も多数刊行。現代俳句の巨星として活躍を続けた。2018年2月20日逝去。

金子伊昔紅 (かねこいせきこう 1889~1977)

金子兜太の父で本名、元春。農山林医として結核撲滅に貢献する一方、俳人としても「馬酔

木」の同人で、水原秋桜子や高浜虚子らと親交があった。粗野だった秩父音頭を現在の形にし普及に努めた。

金子皆子

(かねこみなこ1925年1月8日 - 2006年3月2日)

埼玉県出身の俳人。旧姓・塩谷。秩父郡野上村(現長瀞町)生まれ。1947年、金子兜太と結婚し句作をはじめる。1953年、兜太の所属誌「風」に投句開始。1955年、風賞受賞。1962年、兜太の「海程」創刊に参加し、発行事務を全面的に担当する。

海程賞、1988年、第35回現代俳句協会賞、2005年、『花恋』で第1回日本詩歌句大賞受賞。1996年頃より癌を患い長く闘病生活にあった。2006年3月2日死去、81歳。

俳句とは

古代からの歴史を経て江戸時代において確立された「俳諧の句」を縮約した〈俳句〉という語は、俳諧集《尾蠅(おばえ)集》(1663),上田秋成の《胆大小心録》(1808)などに用例がある。しかし,江戸時代には一般化せず、この語が5・7・5音の組合せを基本にした定型詩を指すようになったのは、明治時代、すなわち正岡子規による俳句革新が行われた過程においてである。

それまでは発句(ほつく)という言い方が普通であった。発句とはもともとは連句における最初の句だが,江戸中期以降,発句のみが単独に作られることが多くなっていた。 「俳諧の句」を略した語で、もとは連句の各句をもさしたが、明治中期、正岡子規が俳諧革新運動において、旧派の月並俳諧における「発句」に抗する意図でこの語を使用したことから、一般化し定着した。

出典『株式会社平凡社/世界大百科事典 第2版』

古代の歌

筑波の道 :12代景行天皇の時、日本武尊が老人に「新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる」と問い、老人が「日日並べて夜には九夜、日には十日を」と答え、連歌の始まりとされることから連歌の異称。

万葉集 :16代仁徳天皇より47代淳仁天皇まで、約3世紀半の歌を収めた日本最初の歌集。4500首余の長歌、短歌、施頭歌など。あらゆる階層の生きた声を集める。大伴家持他の撰。

古今和歌集 :60代醍醐天皇の勅により、万葉以後の秀歌を集めた。勅撰第一号の歌集。約1000首を編集。延喜14年(919)頃成立。紀貫之他の撰。優美繊細。

新古今和歌集:建仁元年(1201)、後鳥羽上皇の院宣により第8番目の勅撰集として作られた。撰者は藤原定家、家隆、僧寂蓮他。

【松尾芭蕉】(1644~1694)

江戸前期の俳人。伊賀上野の生まれ。名を宗房。別号、桃青・泊船堂・風羅坊など。仮名書き署名は「はせを」。藤堂藩伊賀付侍大将家の嫡子藤堂良忠(俳号蟬吟)の近習となり、その感化で俳諧を学ぶ。良忠の病没後、京都で北村季吟に師事。のち江戸に下り、俳壇内に地盤を形成、深川の芭蕉庵に移った頃から独自の蕉風を開拓した。「おくのほそ道」の旅の体験から、不易ふえき流行の理念を確立し、以後その実践を「細み」に求め、晩年には俳諧本来の庶民性に立ち戻った「軽み」の俳風に達した。俳諧を文芸として高めた功は大きい。後世、代表作を「俳諧七部集」に収める。主な紀行・日記に「野ざらし紀行」「笈おいの小文」「更科紀行」「おくのほそ道」「幻住庵記」「嵯峨日記」などがある。

【与謝蕪村】

(1716~1783) 江戸中期の俳人・画家。摂津の生まれ。本姓、谷口、のち与謝氏。別号、宰鳥・夜半亭、画号、長庚・春星・謝寅など。池大雅と「十便宜図」を合作するなど日本文人画を大成する一方、俳諧は早野巴人はじんに学び、「景気(叙景)」「不用意(即興)」「高邁洒落(離俗)」を柱に、写実的・古典趣味的・浪漫的な俳風を形成した。晩年、中興俳壇にあきたらず、「俳力(俳諧性)」の回復を唱え、「磊落(自在性)」の境地を志向した。編著「新花摘」「夜半楽」「此ほとり」「昔を今」など。

【小林一茶】

(1763~1827) 江戸後期の俳人。幼名、弥太郎、名は信之。別号、俳諧寺など。信濃国柏原生まれ。一五歳で江戸に出、俳諧を葛飾派の二六庵竹阿に学び、のち夏目成美の庇護を受ける。方言・俗語を交え、不幸な境遇を反映して屈折のある異色な作風を示した。老年帰郷し結婚したが、不遇の中に没した。著「おらが春」「父の終焉日記」など。

【正岡子規】(1867~1902)

俳人・歌人。松山市生まれ。本名、常規。別号、獺祭だつさい書屋主人・竹の里人など。新聞「日本」・俳誌「ホトトギス」によって写生による新しい俳句を指導、「歌よみに与ふる書」を著して万葉調を重んじ、根岸短歌会を興す。また写生文による文章革新を試みるなど、近代文学史上に大きな足跡を残した。著「竹の里歌」「俳諧大要」「仰臥漫録」など。

【高浜虚子】

1874‐1959(明治7‐昭和34)

俳人、小説家。本名清。旧姓池内。松山市生れ。伊予尋常中学在学中、同級生の河東碧梧桐を介して正岡子規を知り師事。三高から二高に転じて中退。上京して碧梧桐とともに子規の周辺にいて俳句運動を助けた。子規の写生を有情の方向で実らせ、絵画的な特色とともに、季題情趣に新しい世界を見せた。松山で創刊された《ホトトギス》を1898年から東京に移して経営、子規の俳句運動の〈場〉を新聞《日本》との両輪にした。《ホトトギス》では文章にも力を注ぎ、写生を生かした文章表現を子規と力を合わせて開拓した。

熊谷の俳句

2016(平成27)年、熊谷市と熊谷市教育委員会は「熊谷市誕生10周年記念事業」として、名誉市民であり、日本を代表する俳人の金子兜太先生に、熊谷の風景や特色にちなんだ句を詠んでいただき、それぞれ俳句ゆかりの地に句碑を建立した。句碑の建立に際して、隣接地における解説板の設置と、各句を紹介するリーフレットが配布されるにあたり、筆者が解説文と構成を担当した。

(以下略)