「イギリス産業革命と紅茶文化」4 コーヒー・ハウス「ギャラウェイ」
いつ頃茶がイギリスに初めてもたらされたかは明確な記録が残っていないが、最初に茶を売り出したのは1657年、ロンドンのコーンヒル街の路地エクスチェンジ・アレーにあったコーヒー・ハウス「ギャラウェイ」。店で茶を飲ませたのもこの店は最初だと言われている。この茶はオランダから持ち込まれたものである。その茶は1ポンド(約454g)当たり6~10ポンド(現在の約6~10万円 当時の労働者の平均年収は4ポンド程度)と非常に高価であった。このとき、この店で売り出した茶は、日本や中国の緑茶と、それに武威夷茶(ボヘア・ティ)であって、純粋の紅茶ではなかった。そして茶の内容は、17世紀にはだいたい緑茶とウーロン茶がが、半々くらいの割合であった。
ギャラウェイが茶の売り出しにあたって宣伝したポスターは、冒頭でまず「古い歴史や文化を誇る国々は東洋の茶を、その重量の二倍の銀で売り買いしている」と高価さをうたい、さらに茶の効用について、頭痛、結石、水腫、壊血病、記憶喪失、腹痛、下痢、怖ろしい夢などの症状に効き目があり、ミルクや水をお茶と一緒に飲めば肺病の予防になり、肥満の人には適度な食欲をもたらし、暴飲暴食の後には胃腸を整える、と万病に効果を発揮する東洋の神秘役として紹介されている。
イギリスでの紅茶の普及は、コーヒー・ハウス抜きにはありえなかった。ポルトガルやオランダでなく、イギリスで紅茶が発達した最大の理由は、なんといってもコーヒー・ハウスにおいて、上流階級だけでなく、一般市民(といっても中流以上だが)が、さかんに茶を飲んだことにある。このコーヒー・ハウスの歴史を見てみよう。イギリスにコーヒーを初めてもたらしたのは、トルコのコンスタンチノープルからオックスフォードに逃げてきた、ギリシャ正教の司祭コノピオス。彼は1637年、ベイリアル・カレッジに迎えられたが、母国にいた時のように毎朝コーヒーを飲んでから、祈りを捧げる習慣を続けていた。やがてオックスフォードの学生たちの間で、この新しい飲み物が評判になって流行し始め、ジェイコブ(ヤコブ)というユダヤ人によって1650年、はじめてオックスフォードにコーヒー・ハウスが建てられた。ロンドンでコーヒー・ハウスが最初に開かれるのはこの2年後の1652年。その後コーヒー・ハウスはすさまじい勢いで英国全土に出現する。最盛期には、ロンドンに3000軒もあったといわれている。
これほどまでにコーヒー・ハウスが人気を集めた理由は何か?ピューリタンの影響力の強い禁欲の時代、酒類を出すパブより、ノンアルコール飲料を中心としたコーヒー・ハウスが世間的に好ましい社交の場として注目されたことが一つ。また、当時流行していたペストに対して、コーヒー独特の香りが予防になるという俗説があったことも影響していたようだ。またコーヒー・ハウスの利用の手軽さも関係していた。入場料はほとんどが1ペニー、飲み物も平均1杯1~2ペニー。最低これだけ払えば何時間でも過ごすことができた。コーヒー・ハウスが別名「ペニー・ユニバーシティー」と呼ばれたのも、1ペニーで新聞を読んだり、情報交換ができる大学のような場所として重宝されたからだ。さらに、階級制度の厳しかった時代にしては珍しく、入店に制限がなかったことも特徴だった。ただし、それは男性に限られ、女性は入店できなかった。紅一点は、「アイドル」「バー・メイド」と呼ばれるカウンターでコーヒーや茶を淹れる女性給仕人。美人の「アイドル」目当てに来る客も多かったようだが、江戸時代の水茶屋(例えば、江戸谷中の笠森稲荷門前の水茶屋「鍵屋」で働いていた看板娘おせん)と変わらない。
海軍士官で長大な日記を残したことで有名なサミュエル・ピープス(1633~1703)も、1660年9月25日にコーヒー・ハウスで初めて東洋の茶を飲んだと記している。また1667年のある日には、帰宅した時に、妻が医師の指示に従って茶を風邪薬として飲んでいるのを見たと記されている。コーヒー・ハウスが茶の効用を宣伝したことが、10年ほどで広く知れ渡り、信じられていたことが窺われるが、それもコーヒー・ハウスの拡大に伴ってのものだろう。しかし、茶がイギリスの王侯貴族の間でもてはやされるようになるには一人の女性の登場を待たなければいけない。
「ロンドンのコーヒー・ハウス」17世紀
コーヒーハウス「ギャラウェイ」
ウィリアム・ホランド「ロイズ・コーヒーハウス」
エドガー・バンディ「コーヒー・ハウスの雄弁家」1880年頃