大垣
http://www.asahi-net.or.jp/~ee4y-nsn/oku/ogkaa01.htm 【大垣】より
<大垣>(おおがき)岐阜県大垣市
大垣は戸田氏十万石の城下町。また陸路(美濃路)と水路(水門川)が通じる物資の集散地であり、西濃地方最大の都市として繁栄しました。
芭蕉は八月二十一日(陽暦10月4日)頃に大垣に到着。芭蕉にとって大垣は幾度か訪れたことのある地。未知の地を巡る旅であった「奥の細道」の旅も、ここ大垣が結びの地ということになりました。
駒にたすけられて、大垣の庄に入れば、曽良も伊勢よりかけ合ひ、越人(えつじん)も馬をとばせて、如行(じょこう)が家に入り集まる。
<現代語訳>馬に(乗って徒歩の苦労を)助けられて、大垣の町に入ると(折から)曽良も伊勢から来合わせ、越人も馬を走らせてきて、如行の家に(みんな)入り集まる。
前川子(ぜんせんし)、荊口(けいこう)父子、其外(そのほか)したしき人々、日夜とぶらひて、ふたたび蘇生のものにあふがごとく、且(かつ)よろこび、且(かつ)いたわる。
<現代語訳>前川子、荊口父子(をはじめ)、そのほか親しい人々が昼も夜も訪ね来て、まるで生き返った人に会うかのように(私の無事を)喜んだり疲れをいたわったりしてくれる。
大垣では、多くの門人・知人から温かいもてなしを受けました。病気治療のため加賀の山中で別れた曽良とも無事再会を果たします。
「奥の細道」の旅はとりあえずここまで。しかし芭蕉の旅はまだまだ続きます。大垣には半月ほど逗留し、九月六日(陽暦10月18日)には、はやくも次の目的地、伊勢へと向けて旅立つのでした。大垣は新たな旅の出発の地になります。木因(ぼくいん)らの見送りを受け、舟に乗り込みます。
旅のもの憂さも、いまだやまざるに、長月六日になれば、伊勢の遷宮おがまんと又ふねに乗りて
<現代語訳>長旅の疲れの重い気分もまだ抜けきっていないうちに、九月六日(陽暦10月18日)になったので、伊勢神宮の遷座式(せんざしき)を拝もうと思い、再び舟に乗って…
<芭蕉の句>
蛤の ふたみに別 行秋ぞ(はまぐりの ふたみにわかれ ゆくあきぞ)
<句意>
蛤の(離れがたい)ふたと身とが別れるように尽きぬ名残を惜しみつつ、(私は伊勢の二見ガ浦へと出発することになったけれども)秋もまた去ろうとしている。
三省堂・新明解シリーズ「奥の細道」(桑原博史監修)より
https://setuoh.web.fc2.com/ohogaki/ohogaki.html 【奥のほそ道結びの地 大垣を訪ねる】より
露通も此みなとまで出むかひて、みのゝの國へと伴ふ。駒にたすけられて大垣の庄に入ば、曾良も伊勢より来り合、越人も馬をとばせて、如行が家に入集る。前川子、荊口父子、其外したしき人々日夜とぶらひて、蘇生のものにあふごとく、且悦び、且いたはる。旅の物うさもいまだやまざるに、長月六日になれば、伊勢の遷宮おがまんと、又舟にのりて、
蛤のふたみにわかれ行秋ぞ (おくのほそ道)
敦賀の色の浜まで出迎えた路通を連れて、馬に乗って大垣に入ると、木因や如行などの多くの親しい友人や門人などに歓待される。長らく芭蕉に同行していた曾良も駆けつける。芭蕉の旅は二週間後にはさらに伊勢へと続くが、おくのほそ道はここで結んでいる。元禄2年(1689)3月27日(新暦5月16日)に深川の採荼庵を発って以来、元禄2年(1689)年8月21日(新暦10月4日)頃大垣に到るまでの600里(2400km)の長旅を終える。それにしても芭蕉の健脚ぶりには驚かされるばかりだ。
初めて訪ねた大垣は、人口16万の岐阜県第二の都市。
駅前から伸びる広い通りは街路樹に覆われ、歩道の路端には様々な草花が植えられて、しっとりした感じだ。 市内を屈曲して通じる水門川の両岸は、遊歩道の「四季の道」として整備されて、「ミニ奥の細道」として22の句碑が並んでいる。無料のレンタサイクルで水門川を辿る。
「閑さや岩にしみ入蝉の声」 立石寺) 「暑き日を海に入たる最上川」 (酒田)
「荒海や佐渡によこたふ天河」 出雲崎) 「一家に遊女も寝たり萩と月」 (市振)
「石山の石より白し秋の風」(那谷寺) 「さびしさやすまに勝ちたる濱の秋」(色の浜)
「折ゝに伊吹をみては冬こもり はせを」 八幡神社傍らに「大垣の湧水」の井戸があり、「おいしいかな」
大垣は地下水の自噴帯に位置していて、良質で豊富な地下水に恵まれ「水都」と呼ばれているそうだ。
「ふらすとも竹植る日はみのと笠 はせを」 馬場町
木因何某院居をとふ 隠家や菊と月とに田三反 はせを」 船町港跡
住吉橋。おくのほそ道結びの地の水門川の船町港跡に架かる。
「い勢にまかりけるひとの送りけれは 蛤のふたみに別行秋そ はせを」 船町港跡
「惜むひげ剃りたり窓に夏木立 白桜下木因」 船町港
「南いせくわなへ十りざいがうみち」 木因俳句道標
旅立つ芭蕉像。 船町港跡
芭蕉と見送る木因像。 この二人の距離は
水門川。桜の頃に、たらい舟で川下りができるとか。水質保全に様々な取り組みがされているそうだが……。
船町港跡から住吉橋を望む。「昭和初期には年間約1万もの船が行き来していた」そうだ。
住吉神社。海上交通安全の神様。船町港河畔に立つ。
「霧晴れぬ暫く岸に立給へ 如行」 船町港跡
住吉燈台。高さ約8mあり、岐阜県指定史跡。元禄年間頃に船町港の標識と夜間の目印として建てられた。船町港は、江戸から明治にかけて大垣城下と伊勢を結ぶ運河「水門川」の河港。
秋の暮れ行く先々は苫屋哉 木因 秋に寝ようか萩に寝ようか 芭蕉
霧晴れぬ暫く岸に立給へ 如行 蛤のふたみに別行く秋ぞ 芭蕉
おくのほそ道結びの地の住吉公園一体は、「飛騨・美濃さくら三十三選の地」で、春の桜に秋の紅葉が美しい由。 道標。「左 江戸道」「右 京みち」。美濃路沿いにあったものの レプリカ。
おくのほそ道結びの地から1km程西に進むと、「芭蕉・木因遺跡」の標柱があり、そこに正覚寺という小さな寺がある。『俳聖松尾芭蕉の大垣来訪(4回)は俳友谷木因をはじめとした大垣俳人を訪ねてのことである。木因は芭蕉と同門で北村季吟に俳諧を学び、親交が深かった。大垣藩士近藤如行ら多くの俳人を芭蕉門下にした。元禄7年(1694)、芭蕉が浪華で病死すると、木因は深く悼み、「芭蕉翁」追悼碑を建てた。木因の死後、芭蕉、木因の因縁を偲び「芭蕉・木因遺跡とした。』 大垣市教育委員会
冷水山正覚寺本堂。
本堂前の墓地。大垣の俳人の句碑も並んでいる。
「 芭蕉翁」。左右に「元禄七戌年」「十月十二日」
あか/\と日はつれなくも秌のかぜ はせを翁』 木因墓。木因は船問屋を業とする富裕な商人。芭蕉を伊勢に運んだのも木因の舟だって。
大垣城は、関ヶ原合戦で西軍・石田三成の拠点となるが落城。その後、石川、松平、岡部、松平に続き寛永12年以降は、戸田十万石の城となる。現在の城は昭和34年に再建された。4層4階の珍しい天守閣を持つ。 昭和20年に戦災で焼失し、乾櫓を復興、天守、艮櫓などは外観復元してあるという。
大垣城旧柳口門。 艮隅櫓。天守閣は覆いがされて工事中。
柳口門から城内を見る。 戸田氏鉄騎馬像。18年にわたり藩政の基礎を築いた。