新田義貞の墓(称念寺)
http://ponta.moe-nifty.com/blog/2011/04/post-3282.html 【【現存天守】丸岡城、新田義貞の墓(称念寺)】より
2月上旬、越前かにを満喫したぽん太とにゃん子は、福井県の丸岡城をみちくさしました。
丸岡城は、日本に12しかない現存天守のひとつで、しかも現存天守のなかでは最古のものだそうです。公式サイトはなさそうなので、坂井市丸岡観光協会公式サイトのページにリンクしておきます。
現存天守とは、江戸時代以前に造られた天守閣が現在まで残っているものです。それ以外のものは熊本城のような復元天守であったり、テッコンキンクリート造りの大阪城のような復興天守であったり、とりあえず造ってみた模擬天守であったりします。ヨーロッパなどを旅行すると、あちこちに古城が残っていますが、うらやましいかぎりです。日本もあちこちに古城が残っていたら、なんか楽しかったのに。石造りの西洋のお城と違って日本のお城が木造であることや、徳川家康の一国一城令で多くの城が廃城になったことが影響しているのでしょう。
2階に登る急な階段です。丸岡城は、厳密にいうと、昭和23年(1948年)の福井地震で倒壊してしまい、昭和30年(1955年)に修復再建されました。以前は国宝でしたが、現在は重要文化財なのが残念です。
2階です。丸岡城の築城は、天正4年(1956年)。大河ドラマ「江」に出てきた柴田勝家は、天正3年(1575年)の北陸攻めの功績が認められ、越前之国の守護職に任ぜられ、北ノ庄に城を築きました(柴田勝家と鈴木保奈美(お市)が自害した城ですね)。同年、勝家の甥の勝豊は豊原城を築きましたが、翌天正4年(1576年)に丸岡城を築いてここに移りました。
最上階からの眺めです。絶景かな、絶景かな。
一番上の写真の石垣の手前に石碑が写っておりますが、有名な「一筆啓上、火の用心、お仙泣かすな、馬肥やせ」という手紙文が刻まれております。この「お仙」が、丸岡城6代目城主の本多成重だそうです。
丸岡町の観光案内を見ていてたら、新田義貞の墓があると知り、訪れてみました。場所は称念寺、こちらが公式サイトです。
こちらが称念寺のなかにある、新田義貞の墓所です。新田義貞といえば、群馬県で生まれ、ぽん太の棲息する多摩の分倍河原で鎌倉軍と戦ったはずですが、福井県で死んだとは知りませんでした。なんか最後は北陸方面に逃げて行き、延元3年/建武5年(1338年)に戦死したらしいです。このあたりの歴史はぽん太はよくわからん。NHK様、大河ドラマで幕末と戦国時代ばかりでなく、ぜひ室町も取り上げてください。
こちらがお墓ですね。そういえば歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」は、舞台を室町時代に設定しておりますが、大序は「兜改めの場」と呼ばれ、戦利品の兜のなかから新田義貞の兜を探し出すという話しです。この兜は福井市の藤島神社にあるそうで、重要文化財に指定されているとのこと。ところがこの兜、明暦2年(1656年)にお百姓さんが水田から掘り出したものだとのこと。これはなんだか面白そうですが、今回はみちくさはやめておきましょう。
お寺の案内板です。これによれば、明智光秀が永禄5年(1562年)にこの寺を訪れ、門前に寺子屋を開いたそうです。そして後にこの寺を訪れた松尾芭蕉は、「月さびよ 明智が妻の咄せむ」と詠んだそうです。
ぽん太は、芭蕉といえば『奥の細道』ぐらいしか知らないのですが、この句は出てないようです。ぐぐってみると、こちらの明智が妻の話|芭蕉文集というサイトに出てました。引用させていただくと
将軍明智が貧のむかし、連歌会いとなみかねて、侘びはべれば、その妻ひそかに髪を切りて、会の料に供ふ。明智いみじくあはれがりて、「いで君、五十日のうちに輿にものせん」と言ひて、やがて言ひけむやうになりぬとぞ。
ばせを
月さびよ明智が妻の話せむ
又玄子妻に参らす (真蹟懐紙)
ぽん太が自由にタヌキ語約すれば、「明智光秀が以前に貧しかった頃、連歌会を主宰するためのお金がなくて困っていたところ、妻が密かに自分髪を切って売り、会の費用に充てた。光秀はたいへん感激して「ああお前、俺は出世して50日以内にお前を輿に乗せてやる」と言ったが、やがてその通りになった。『月よ、しみじみと照らしてくれ。明智光秀の妻の話しをしようと思うのだ』 又玄の妻に送る」。
「真蹟懐紙」というのは、何でしょう。そういう名前の句集があるのか、芭蕉が懐紙に自ら書いて送ったものをいうのか、そういうものを後に集めたものなのか、さっぱりわかりません。
芭蕉の弟子の路通がまとめた句集「俳諧勧進牒」では、次のように書かれています。
伊勢の国又幻が宅へとどめられ侍る比、その妻、男の心にひとしく、もの毎にまめやかに見えければ、旅の心を安くし侍りぬ。彼の日向守の妻、髪を切りて席をまうけられし心ばせ、今更申し出でて、
月さびよ明智が妻の咄しせむ
(俳諧勧進牒)
タヌキ語訳、「伊勢の国の又幻さんの家に泊まったとき、奥さんも又幻さんと同じ気持ちで細かく気を使ってくれたので、旅の不安がやわらいだ。あの明智光秀の妻が、髪を切って人をもてなした気持ちが今更ながら思い出されたので」。元禄2年(1689年)、「奥の細道」の旅を終えた芭蕉は伊勢に参拝の折に又幻さんの家に泊まり、そのときに詠んだ句だそうです。
振り返って称念寺の案内を考えてみると、芭蕉が称念寺を訪れた時にこの句を詠んだと書いてありますが、なんか根拠はあるのでしょうか?明智光秀が門前で寺子屋を開いたというのもホントかどうかわからないし、また奥さんが髪を切ったという逸話それ自体がホントかどうか、その逸話が寺子屋を開いていた時期なのかなど、さまざまな疑問が湧いてきます。結局このあたりは、信じるも信じないもあなた次第です、といったところでしょうか。いずれにせよ元禄時代には、光秀の妻の逸話は多く人の口に上っていたようです。
光秀の妻が髪を切った話しといえば、歌舞伎の『時今也桔梗旗揚』(ときはいまききょうのはたあげ)が頭に浮かびます。四世鶴屋南北が文化5年(1808年)に作ったこの歌舞伎は、武智光秀(明智光秀)が小田春長(織田信長)を本能寺で討つまでを描いた狂言です。「馬盥の場」は、春長が光秀に馬盥(ばだらい。馬を洗うための大きなたらい)で酒を飲ませるという場面ですが、さらに光秀の妻皐月の切髪を、満座のなかで光秀に与えて、屈辱を加えます。ぽん太はこの意味がよくわからなかったのですが、この逸話を踏まえていたんですね。
http://ponta.moe-nifty.com/blog/2011/04/post-2076.html 【【芭蕉】「月さびよ明智が妻の咄しせん」補遺】より
前回のブログで、芭蕉の「月さびよ 明智が妻の咄しせん」という句に触れましたが、みちくさついでに『日本の古典―完訳 (54)芭蕉句集』(井本農一他校注・訳、小学館、1984年)をひもといてみました。
その脚注によれば、芭蕉を泊めた「又玄」(「ゆうげん」と読むそうです。「またげん」かと思ってた……)さんは、伊勢神宮の御師(おし:参詣者の案内や宿泊などを担当する下級の神職)をしていた島崎味右衛門(御巫権太夫清集:みかなぎごんだゆうきよため)の俳号で、芭蕉門下の俳人なんだそうです。なんと当時15歳で、妻はおそらくさらに年下。又玄が11歳の時に父が死去し、家業が傾いていたにもかかわらず、芭蕉を泊めて世話をしたんだそうです。
当時46歳であった芭蕉が、若いというよりまだ幼い又玄の妻に、明智光秀の妻の逸話を話し聞かせ、褒めそやし励ましている様子が目に浮かんできます。
ということは当時、「明智が妻の咄し」は、芭蕉の句を読むような人たちは皆知ってるけど、十代前半の女性は知らないような話しだったのでしょうか。
さらに脚注によれば、生計のために明智光秀の妻が髪を売った話しは、『太閤記』(小瀬甫庵(おぜほあん)著、寛永3年(1626年)頃)に書かれているそうです。また大田南畝(寛延2年(1749年)〜文政6年(1823年))は『一話一言』の巻15で、元禄頃の人の随筆から抄出した話しとして「○光秀の事」を記したそうです。光秀は朝倉義景に使えていましたが、感ずるところがあって辞任し、越前と美濃の境の柳が瀬の名主の元に滞在して、昔の侍仲間などを相手に連歌などをして暮らしていたそうです。あるとき自宅で会を開こうとして、そのもてなしを妻に言いつけましたが、自分たちの食べ物さえない状態だったので、髪を切ってお金に換えて支度をした、という話しだそうです。
話しは変わりますが、東京の江東区には「深川芭蕉庵跡」という史跡があります。例えばこちらのサイトが詳しいですが、深川の芭蕉庵があったところは、その後、紀伊殿の武家屋敷となり、現在では正確な位置がわかりません。しかし、大正6年(1917年)に「芭蕉遺愛の石の蛙」(伝)が出土したため、大正10年(1921年)に東京府はこの地を「芭蕉翁古池の跡」に指定したそうです。現在は芭蕉稲荷神社として祀られており、また近くには平成7年(1995年)、芭蕉記念館が作られております。
調べてみると、芭蕉庵というのは3回作られたようです。まず最初は延宝8年(1680年)の冬で、新進気鋭の宗匠として頭角を現していた芭蕉は、突然その地位を捨てて深川の草庵に移り、風狂の世界を目指します。しかしこの庵は1682年(天和2年)の大火で類焼し、芭蕉は甲斐国都留郡谷村(やむら)に赴き滞留します。焼失した草庵は、天和3年(1683年)に、もとあったところの近くに再建されたそうです。元禄2年(1689年)、芭蕉は有名な奥の細道の旅に出ますが、この折に草庵を他人に譲渡したようです。元禄5年(1692年)、杉風、枳風によって三代目の芭蕉庵が完成しました。元禄7年(1694年)にこの庵から旅に出た芭蕉は、「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」の句を残してこの世を去りました。
話しは変わりますが、ぽん太が大月周辺で登山をしたあとよく利用する日帰り温泉に、芭蕉月待ちの湯があります。これまで漠然と、「へ〜、このあたりに芭蕉が住んでたのか」と思ってましたが、初代芭蕉庵が焼失したあとに芭蕉が移り住んだ甲斐国谷村が、ここだったんですね。このサイトによれば、滞在先は門人であった秋元家の家老高山伝衛門宅で、芭蕉は「名月の夜やさぞかしの宝池山」という句を残したと伝えられているそうです。
しかし、この句はなんかできがよくないし、芭蕉のすべての発句を、疑わしいものまで含めて納めているという『芭蕉俳句集』(中村俊定校注、岩波書店、1970年)にも収録されていないのが、ちと残念なところ。
芭蕉は時期によって作風や心境が変わったそうですが、不案内なぽん太にはちっともわかりません。このあたりも理解したいものですが、それはまたの機会にみちくさを。
http://shonenji.net/nitta/ 【称念寺】より
新田義貞公は、1300年(正安2年)群馬県太田市に、新田朝氏の子として生まれました。新田家は八幡太郎に繋がる清和源氏の名門です。その頃、鎌倉幕府の政治は末期で、民衆は日々の生活に困惑していました。そこで、義貞公は、1333年(元弘3年)5月8日に新田荘の生品神社にて、倒幕の兵を挙げたのです。利根川を渡って南下し、5月22日には難攻不落の鎌倉の幕府をわずか15日で、壊滅させました。
後醍醐天皇により倒幕の功を認められ、従四位越後守及び上野・播磨両国の介に任命されました。ついで左近衛中将・武者所の頭人になりました。この時の政治を『建武の新政』といいます。
しかし足利尊氏が天皇に反旗をひるがえしたために、後醍醐天皇(南朝方)からは足利追討の宣旨を得るにいたります。足利氏も天皇(北朝方)を擁立したため、この時代を『南北朝の動乱の時代』と呼びます。
しかし後醍醐天皇を取り巻く公家たちの失政により、南朝方は奮いませんでした。1336年(延元1年)に全国を転戦していた新田義貞は勢力を盛り返すべく、越前に恒良親王・尊良親王を擁護して奮戦します。1338年(延元3年)7月2日灯明寺畷の戦いにおいて、眉間に矢を受け戦死します。義貞公の遺骸は葬礼のため時衆の僧(時宗の陣僧)8人により、長崎の道場に運ばれ、ねんごろに葬られました。時に39歳でした。主君を失った多くの家来も長崎の道場にて、出家したことが『太平記』に記載されています。明治天皇は、明治15年に「正一位」を追贈しました。
新田義貞公と称念寺
新田公は、1333年(元弘3年)5月に新田荘生品神社で兵を挙げて以来、一度も故郷に帰ることなく全国を転戦して1338年(延元3年)に戦死されました。毎日が生死の現実であり、戦乱や病気・けがなどで多くの人々の死とも向かい合う経験をしました。全国の人々が敵味方に分かれて争いあうなど、価値観の混乱した時代でもあったのです。南朝方のリーダーとして、一人の人間としてぶれることなく生き抜いた新田公にとって、その心の支えとなる本当の信仰が根底にあったことは、十分伺えることです。称念寺には託何(たくが)上人という時宗の高僧が、ちょうど新田公が越前に来られた時に滞在していました。またすべてを捨てて信仰に生きた時宗の坊さんは「陣僧」といって、多くの武士団に従軍僧として身一つで付き添っていました。さらに各地の時宗道場は、念仏信仰の場であり、お茶や連歌などのサロンでもありました。すべてを捨てて命がけで、ただ念仏勧進の遊行上人のお姿は、命を懸けて合戦に散った新田公とあい通じるものがあり、称念寺という念仏道場で真剣に、お互いが人生を語ったのでしょう。改めて、義貞公はなぜ、称念寺にご縁を持ったのでしょう?
(1)陣に伴う僧(陣僧)という「時宗」の僧侶が、新田公の周囲に沢山おられた。けが人を助け、戦死したら、念仏十念し、その遺骸を葬り、また菩提を弔うために遺族に伝えることが陣僧の役割でした。そうした陣僧が伝えた情報により、『太平記』などの軍記物語も作られたのです。『太平記』の記述から、伺えます。
(2)時宗教義の常に臨終と心得て、「南無阿弥陀仏」一つで救われるとする念仏の教えは、新田公のように、戦場で毎日真剣に生ききられた武士には、ピッタリであったのです。『一遍上人語録』等から伺えます。
(3)遊行上人のように、ぶれることなく念仏一つで布教された生き方は、戦乱の中で価値観がぐらつきやすいリーダーにとって、もっとも参考になる教えであり、生前から交流がありました。歴代の遊行上人や、各道場の時宗の僧の手紙が全国に残っています。
(4)当時の時宗道場は、無縁(またはアジール)と呼ばれる安全地帯であり、武士は心の平安を求め行き来していました。『太平記』の中に義貞戦死の後に、家来が長崎道場で出家したことが述べてあり、またその時代の手紙等が全国に残っています。
新田公の偉大さとは?
新田義貞公の生きられた時代は、南北朝の動乱と呼ばれた混乱と無秩序の時代でした。そんな中でも誠意を尽くし、まじめに生きた代表が新田義貞公です。「太平記」という書物を見ると、
(1)義貞公の生涯は、苦しむ民衆を見て立ち上がり、難攻不落の鎌倉幕府を倒しました。
(2)その後はぶれることなく一族郎党を率いて、南朝方に尽くした至誠の一生でした。
(3)その戦い方は道義を重んじ、忠節を尽くし、姑息な政治手段を使いませんでした。
(4)常に戦闘では真っ先にたち、部下を大切にしました。
(5)しかも民衆をできるだけ巻き添えにしないように、配慮もしました。
(6)足利方とは比較できない小集団でありながら、工夫してその大きな困難さに立ち向かいました。
足利氏は確かに天下が取れましたが、その後は兄弟一族で殺し合いがあり、部下の内紛ありの毎日でした。また室町幕府開設後も、後醍醐天皇や新田義貞公の怨霊におびえる、後ろめたい生涯でした。新田義貞公こそは「日本一の至誠の武将」といえます。
江戸時代の『太平記』と、新田義貞公
江戸時代は、大名から庶民に至るまで、「太平記読みの時代」といわれるほど、太平記の道徳精神・人生観が参考にされました。つまり南北朝動乱の中で活躍した、新田義貞公や楠正成(まさしげ)が再評価されます。もちろん徳川家が新田氏支流を称することで、『日本外史』の著者頼山陽も、新田義貞公の生き方を称賛したことはいうまでもありません。
そして水戸光圀の編纂した『大日本史』を見ると、その意図はなお一層明らかになります。「将軍伝」論賛では、「南北朝の動乱を譎詐(きっさ)・権謀(けんぼう)によって勝利した足利尊氏は、しかし『天下後世を欺く(あざむく)』ことはできなかった。はたして足利氏が十五代でほろんだあと、足利氏に代わって将軍家となった徳川氏は、新田氏の後裔である。」と述べて、南朝方として忠義を尽くした新田公礼賛が、展開されます。
また、南北朝の動乱の中で奮闘した新田義貞公については、「新田氏の高風・完節に至っては、当時に屈すといえども、よく後世に伸ぶ。天果たして忠賢をたすけざらんや。」と述べます。つまり足利氏と雄(ゆう)を争って敗れた新田氏は、その忠(ちゅう)貞(てい)(忠節と貞節)ゆえに天祐(てんゆう)(天の助け)を得て、家康の代に幕府を起こすことができたと述べるのです。
さらに、この南朝正当論と忠臣思想が、(又は日本外史・大日本史観が)明治維新の基礎イデオロギーに発展していくのです。新田公が活躍する『太平記』が、幕末のリーダーによって読み返され、新たな新田義貞像が出来上がっていきます。(称念寺蔵の、橘曙覧の短歌「外文(そとつふみ) 朝廷(みかど)おもいにますらをを 励(はげ)ませたりし功績(いさを)おほかり」からも伺えます)現在、徳川系譜は信用に足らないものだと評価されていますが、江戸時代の武士や明治維新のリーダーたちが、この新田公の精神・価値観を学び、新時代の国造りに指針とした事実には変わりないのです。また新田公が徳川家の精神的拠り所になった事も、確かなのです。
つまり江戸に幕府を開いたい家康公は、新田義貞公がご先祖という誇りと、時宗につながるご縁(時宗の僧であった徳阿弥が先祖)の念仏思想があり、五十年ごとに称念寺で行われた徳川幕府の新田公の大法要執行は、その精神の再確認だったのではないでしょうか。