新田義貞
https://www.touken-world.jp/tips/7426/ 【新田義貞と刀】 より
「新田義貞」(にったよしさだ)と言えば、難攻不落の鎌倉幕府を滅ぼした凄い人物。南北朝の動乱においては、南朝の「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)側に付き、ライバル・足利尊氏(あしかがたかうじ)と対立します。「日本一の至誠の武将」と言われた悲劇のヒーロー・新田義貞の生涯に迫ります。
新田義貞は、1301年(正安3年)生まれ。本名は源義貞。源氏の名門・清和源氏「源義国」(みなもとのよしくに)の長男「義重」(よししげ)の子孫です。義重が、上野国新田荘(現在の群馬県太田市付近)を任せられたことから、「新田本宗家」と呼ばれ、新田姓を名乗るようになりました。
ちなみに足利尊氏は源義国の次男「義康」(よしやす)の子孫。下野国足利庄(現在の栃木県足利市)を任せられたことから、足利姓を名乗るように。のちにライバルとなる2人は、奇しくも先祖を同じくする同族同士。両家とも立派な家柄でした。
1317年(文保元年)に、父「朝氏」(ともうじ)が死去。16歳で家督を継ぎ、源氏の宝刀「鬼切安綱」(おにきりやすつな)を手にします。この鬼切安綱は、源頼光が天照大御神から授かったとされる物。また源義仲が鬼を切ったことから「鬼切」と呼ばれるようになったとの逸話もあります。
このように、源氏の宝刀を相続される名門でありながら、新田本宗家は鎌倉幕府からは冷遇されていました。理由は、源平の争乱(治承・寿永の乱[じしょう・じゅえいのらん])のときに先祖の義重が遅刻したとか、義重の娘が頼朝の側室になるのを断ったからと言われています。
新田本宗家は、家柄の割には領地も少なく、裕福でもなく、義貞自身も無位無官でした。一方、足利家は幕府から優遇されて、裕福。尊氏は、15歳にして官位は従五位下、治部大輔に任命されていました。それでも義貞は、寄付を募って長楽寺を再建するなど賢く育ち、武芸の研鑽(けんさん)を積み、強靱(きょうじん)な武士へと育つのです。
愛刀/鬼切安綱
鬼切安綱(おにきりやすつな)は、源氏の棟梁「源満仲」(みなもとのみつなか)が安綱に打たせた1振で、源氏の宝刀。のちになぜか國綱(くにつな)へと改銘。頼光四天王の「渡辺綱」(わたなべのつな)が鬼の腕を落としたことから、鬼切の名で呼ばれるようになりました。
1331年(元弘元年)、後醍醐天皇と楠木正成は鎌倉幕府を倒そうと「元弘の変」を起こしますが、失敗。後醍醐天皇は隠岐(おき)に島流しになります。義貞は、初め幕府側に付き「千早城の戦い」に参加しますが、1333年3月(元弘3年/南朝・正慶2年/北朝)、病気を理由に途中帰国。実はこのとき、後醍醐天皇の皇子「護良親王」(もりよししんのう)から北条氏打倒の詔を受け取り、急遽退去したのではないかと言われています。
さらに義貞は4月、徴税にやってきた幕府の使者2人を切り殺すという事件を起こします。貧乏なのに重い徴税を課されて我慢がならなかったのでしょう。この結果、所領は没収。義貞は憤慨し、ついに反幕府の態度を示すことに。幕府も義貞討伐に動き出します。
5月、義貞は挙兵。このとき、義貞軍はわずか150の兵でしたが、反幕府に立ち上がろうと越後国から2,000の兵、甲斐・信濃国から5,000の兵が加わることに。その後、武蔵国で尊氏の嫡男「千寿王」(4歳)の200の兵と合流し、「新田・足利連合軍」を形成。これを知ると、各地から我も我もと兵が集まり、最終的には20万もの兵になったと言われています。
新田軍は、「分倍河原の戦い」(ぶばいがわらのたたかい)にて、北条軍を撃破。多摩川を渡って霞ヶ関に出て「関戸の戦い」に勝利。藤沢・片瀬・腰越・十間坂などの約50か所に放火し、鎌倉へは山側から攻めるチームと海側から攻めるチームに分かれます。海側チームは稲村ケ崎へ。当時、稲村ケ崎の崖下は満潮でとても通過できませんでした。しかし、義貞が太刀を海に奉じると、龍神が呼応してみるみる干潮になったと言われています。この干潮を利用して、由比ガ浜へ。激戦を繰り広げ、海・山両側から鎌倉御所を挟み撃ちにします。最終的には、北条氏の菩提寺「東勝寺」まで追い込み、北条高時と家臣870人が自害。
義貞は、たった15日で、難攻不落と言われた鎌倉幕府を滅亡させ、北条家の重宝「鬼丸国綱」(おにまるくにつな)を手に入れるのです。
愛刀/鬼丸国綱
粟田口国綱作で、北条家の宝刀。天下五剣のひとつ。
鎌倉幕府・初代執権の北条時政が病に倒れたときに、この刀が火鉢に装飾されていた小鬼を斬り落とし、時政を救ったという逸話があります。
南朝の総大将に
ちょうど同じ時期、尊氏は京都の六波羅探題(ろくはらたんだい)を攻め落とし、すぐに上洛。後醍醐天皇は、千寿王の父でもある尊氏に、「従三位武蔵守鎮守府将軍」の地位を与えます。
一方、義貞は出遅れて上洛。恩賞として「従四位上左兵衛佐上野守・越後守・播磨守」と美しい妻「匂当内侍」(こうとうのないし)を与えられます。妻は別として、鎌倉幕府を倒幕したのは義貞なのに、明らかに不当な扱いでした。
そしてすぐに、後醍醐天皇は新しい政治「建武の新政」を始めます。これは、幕府も院政も摂政も関白も否定して、天皇の理想を実現する物ですが、武家の慣習を無視していたため、多くの武士から不満を呼びます。そこへ1335年(建武2年)、鎌倉幕府の末裔「北条時行」が「中先代の乱」(なかせんだいのらん)を起こします。尊氏はあっという間に時行を討伐。しかし、武士のプライドが目覚め、後醍醐天皇の新政権に反旗を翻す決意をします。
1336年(建武3年/北朝・延元元年/南朝)、尊氏は、「持明院統」(じみょういんとう)の光明天皇を立てて「北朝」と称し、「大覚寺統」(だいかくじとう)の後醍醐天皇に譲位を迫ります。一方、後醍醐天皇は吉野に逃れ、皇位は自分の「南朝」にあることを主張、朝廷が二分します。そして尊氏と義貞の確執を知った後醍醐天皇は、南朝の総大将に、義貞を大抜擢するのです。
その他、後醍醐天皇が選んだ人選は、「北畠顕家」(きたばたけあきいえ)と楠木正成でした。これが、ミス。北畠の官位は従二位で、義貞は従四位上。いくら総大将でも、指図できる立場ではありません。また正成は朝廷に、「義貞の首を差し出して、尊氏と和睦しましょう」と提案。不信を買い、謹慎になるという有様でした。
正成は、やっと参戦を許されるものの、自案の戦法は採用されず朝廷に従ったため、5月「湊川の戦い」で討ち死に。また顕家も6月、「石津の戦い」で討ち死に。義貞も連敗続きで、1338年(建武5年/南朝・暦応元年/北朝)、「藤島の戦い」にて、戦死。享年37歳でした。
明治時代に正一位に
結局、後醍醐天皇も、1339年(延元4年/南朝・暦応2年/北朝)8月に崩御。南北朝が統一されたのは、その53年後の1392年(元中9年/南朝・明徳3年/北朝)となります。
思えば、鎌倉幕府を倒したときに働きに見合った恩賞がもらえなかったのに、義貞はなぜ後醍醐天皇の味方をしたのでしょうか。それ程尊氏が嫌いだったのか、政治的センスがまるでなかったのかと悔やまれるところです。
1882年(明治15年)、義貞は「ぶれることなく南朝に尽くした正義の人」と見なされ、正一位の官位が与えられました。こうして、鎌倉幕府を滅ぼした悲劇のヒーローはやっと報われたのです。