明智光秀とは?
https://gifu-kiringakuru.jp/about-mitsuhide/https://gifu-kiringakuru.jp/about-mitsuhide/ 【明智光秀とは?】 より
本能寺の変にて主君・織田信長を討ったことで有名な明智光秀だが、軍事、政治、外交などすべて万能にこなす逸材であった。
そんな光秀の人格の背景はベールに包まれている。
光秀がどこで生まれ、どのように育ったか、その前半生は謎に包まれている。
水色の桔梗紋 画像 桔梗紋について
明智氏の祖である土岐家が桔梗紋を使っていたこともあり、同様の家紋を採用した。
また光秀は、桔梗の花の色にちなんで水色の桔梗紋を使用。本能寺の変以降は、「裏切り者の家紋」と認識されていた時代もあるとされている。
信長家臣一の築城名人
近世城郭のモデルとなった坂本城を築城
信長家臣一の築城名人光秀。
総石垣で天守を持つ安土城のような「近世城郭」のルーツを作った織田信長だが、実は安土城に先駆けて、近世城郭のモデルとなったのが坂本城。
その坂本城の築城を任されたのが光秀であり、信長からの信頼の高さが窺える。
坂本城築城後には、丹波攻めの軍事拠点とした「亀山城」「福知山城」「周山城」の築城、「黒井城」の改修を任されるなど、光秀は近世城郭の発展の一役を担ったと思われる。
鉄砲の名手
若くして鉄砲の腕前を磨き戦に活用する仕組みを作った光秀。
『明智軍記』によると、美濃から逃れてきた光秀が越前の朝倉義景に仕えた際、義景は鉄砲で数多の敵を打ち落としてきた光秀の腕前を確かめようとした。
光秀は30センチ四方の的(中央に黒星)を45メートル離れた場所から100発撃ち込み、黒星に68発、的に32発と、百発百中の成果を挙げた。
これに感心した義景は、仕えて間もない光秀に鉄砲隊を預けたと伝わる。
信長仕官後の長篠の戦いにおいては、鉄砲に注目した信長が、光秀に火縄銃と弾薬の調達を任したとも言われ、影の立役者として勝利に導いたという説もある。
一武将としての戦場での働き、外交官としての朝廷とのやり取りなど、信長は光秀に期待の意を込めて、数々の役割を与えたと思われる。
茶、連歌にも精通する文化人
文化人としての教養も。
あらゆるモノゴトに精通する光秀
信長は、茶会の開催には自分が認めた者しか権利を与えない「御茶湯御政道」という政策を取っていたため、特定の上級家臣しか催すことはできなかった。
1577年(天正5年)、松永久秀を滅亡に追い込んだ信貴山城の戦いで大きな功績を挙げた光秀に、信長が茶会の開催を許したのを機に、光秀は没頭したと伝わる。
光秀は連歌も好み、判明するだけでも生涯で50以上の連歌会を主催したり、参加したと言われている。中でも有名なのが、1577年(天正5年)4月、愛宕山で興行した千句の賦何連歌。
百韻を10回繰り返す難しいもので3日もの日数を要したが、それ以降熱心に連歌会を興行したとされている。
茶、連歌にも精通する文化人 イメージ画像
光秀の軌跡
● 1528年(享禄1年)1歳 美濃国(現在の岐阜県)にて生誕 空白の時
● 1556年(弘治2年)29歳 斎藤道三が斎藤義龍と争った長良川合戦で道三側に付いた光秀。
道三が敗死すると、明智城も攻め落とされ、越前へ逃れる。
● 1568年(永禄11年)41歳 足利義昭の足軽衆として臣従。義昭が越前一乗谷から美濃岐阜へ移った後、信長が義昭を奉じて上洛。
● 1570年(永禄13年/元亀1年)43歳 近江・姉川合戦や志賀の陣で功を挙げ、出世の道に乗る。
● 1571年(元亀2年)44歳 光秀が中心となり比叡山延暦寺攻めを行う。
近江志賀郡を拝領し、初めての城作り、坂本城の築城を開始。義昭との主従関係を解消。
● 1575年(天正3年)48歳 朝廷より「惟任日向守」を賜る。丹波攻めを信長から命ぜられる。
● 1576年(天正4年)49歳 妻・煕子が病死。丹波攻めの拠点・亀山城の築城を開始。
● 1578年(天正6年)51歳 娘・玉(後のガラシャ)が細川忠興に嫁す。
● 1579年(天正7年)52歳 丹波と丹後の平定を完了させる。
● 1580年(天正8年)53歳 丹波を拝領。
● 1581年(天正9年)54歳 京都で行われたパレード『京都馬揃え』で、それまでの功績を認められ、序列3番目に並ぶ。
光秀父子が細川父子の招きで丹後の天橋立にて遊び、親睦を深める。妹の妻木が没する。
● 1582年(天正年)55歳 本能寺の変を起こす。 山崎合戦で敗死し、坂本城落城。
光秀の虚像 誕生の地岐阜を読み解く
数多くの文献に精通する本誌監修・小和田哲男氏に、あらゆる視点から読み解いた光秀像をはじめ、戦国史における岐阜県の特徴について語って頂きました。
信長家臣で一番の出世頭は、秀吉ではなく光秀だった?
明智氏の祖は、源頼朝と同じ清和源氏の一族で、美濃国守護の土岐家と言われている。明智氏は代々、美濃国明智荘(現在の可児市・御嵩町)を治め、光秀はその地で生まれた説が最有力。その一方で父親の名前においても3つの説があり、生まれた場所も岐阜県各所に伝説が残っている。
「歴史は勝者が作る」という言葉があるように、現代に歴史が正しく伝わっているかは判断が難しい。
山崎の戦いで羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が光秀に勝利したことで、秀吉を美化した歴史が残っている可能性がある。
例えば『金ヶ崎の戦い※1』がそのひとつ。
戦況不利と見た信長が最小限の被害で抑えられるように、"金ヶ崎の退き口"と呼ばれる撤退戦を行った際の出来事。
歴史資料を見ると、秀吉自ら殿(しんがり)を志願して様々な策略を使って撤退したと伝わるが、実際には光秀と秀吉らに信長が命令したのではないかと言われている。
そして、秀吉以上に光秀が功を挙げて、織田氏家臣初の一国一城の主となり、『比叡山延暦寺攻め※2』においても光秀が中心になるほどに昇進したのだろう。
『丹波攻め※3』においても、『信長公記※4』に「丹波国、日向守(朝廷より賜わった光秀の官位名)働き、天下の面目をほどこし候。」と、信長が光秀の活躍を褒めている記録も残っているなど、軍事的な才能は天才的であった。
また、有職故実(古来の儀式・礼法の典型的方式。それを研究する学問)に長けて朝廷との取りまとめを任されたり、城作りや国作りを成功させたりと、信長は光秀の働きに一目置いており、重宝されていたはずだ。
※1金ヶ崎の戦い
1570年(元亀元年)信長が朝倉義景を攻撃した際、同盟関係にあった浅井長政に裏切られ、挟撃の危機に行った撤退戦。 ※2比叡山延暦寺攻め
1571年(元亀2年)信長と浅井・朝倉連合軍との戦いにおいて、敗走した連合軍の兵が比叡山延暦寺に逃げ込み、それを匿ったことにより信長が怒り攻めたて、終いには比叡山を焼き払った。 ※3丹波攻め
1575年(天正3年)信長は丹波の国衆を外交で取り入れようとするが、反旗を翻したため、武力行使するため、光秀に攻略を命じた。 ※4信長公記
信長の一生を記録した史料。一部錯綜が認められる箇所もみられるが、文書上から確認される事跡を正確に記しているため、史料としての信頼が高い。
様々な憶測が今なお飛び交う、本能寺の変~山崎の戦い。
光秀がなぜ、本能寺の変を起こしたのか、その説はいくつかある。
信長のパワハラに対する"怨恨説"。
光秀中心の世を作ろうと考えた"天下取り野望説"。
勧修寺晴豊や近衛前久ら公卿(朝廷の高官)に唆された"朝廷黒幕説"。
京から追い出されていた足利義昭を連れ戻すための"足利義昭黒幕説"。
最近有力になりつつある、"長宗我部元親関与説"。
これは、光秀の重臣・斎藤利三の妹が嫁いだ長宗我部元親の四国全土の所領を認めてもらうため、信長と謁見させる仲立ちを光秀が行った。
そして「四国は切り取り次第」と所領を認めてもらったが、信長が心変わりをして、大名であった三好氏を復活させるため、四国一部を三好氏に与えようとした。
それに怒った元親が、光秀に信長を討たせるように仕向けたという。
私としては、朝廷が決めている暦に口を出すなど朝廷をないがしろにする信長の非道に我慢ができなかったからだと思っている。
本能寺の変後の山崎の戦いでは、秀吉に負けてしまったが、光秀が考えなしに信長を討ったとは考えにくく、想定外の連続が負けに響いたのであろう。
一つ目は、秀吉の『中国大返し』。
備中高松城(岡山県)にて強敵・毛利軍と戦っ天下取りている中、200kmを7日間で京都まで戻ってくるという早さに、戦の準備が間に合わなかった。
二つ目は、光秀の与力であった細川藤孝が誘いを断ったため。
娘の玉(のちの細川ガラシャ)を藤孝の子忠興に嫁がせていたため、味方になると思っていただろう。
そのほか、光秀の与力である高山右近や筒井順慶なども誘いに乗らず、軍勢が整わないまま合戦に突入してしまい、多勢に無勢で負けたのである。
軍事、産業の要所・美濃 美濃を制する者は天下を制す。
戦国史上、天下分け目の戦いといえば、前述した山崎の戦いに加え、関ケ原の戦いが挙げられ、戦地となった岐阜県美濃地方(美濃国)は、歴史に大きな影響を与えた地として語ることができる。
中山道が通る街道の要所、伊勢湾からの交易や木曽川を使った商品流通が盛んであるなど、経済の先進地として発展した美濃国。
穀倉地帯としても名高く、石高(土地の生産性を石という単位で表したもの)は、信長が最初に統治していた尾張国の54万石と変わらず、全国的にみても上位を誇っていた。
そんな豊かな美濃国に信長は目を付け、濃姫(帰蝶)の父・道三の仇討ちの意も込めて、美濃国の戦国大名・斎藤龍興の居城・稲葉山城を攻め落としたと言われている。
稲葉山城を含め、美濃国は独立の山が点在し、数多くの山城があった。
たとえ山が連なっていたとしても、堀を造って独立の山と見立て、山城を形成していた。
山城の利点は、重力を利用して弓矢や鉄砲を上から打ち下ろして城を守りやすいこと。
信長が美濃国を治めていた時代には、武田氏との戦の要所になった山城が東美濃に何ヶ所かあり、現代では跡地として、情緒を感じられる場所となっている。
美濃国は他国に比べて臨済宗が多く、学問寺である大徳寺や妙心寺の末寺がある。
孫子や六韜、三略といった兵法書が寺に置いてあり、僧侶とともに武家の子どもたちが学んだのであろう。
光秀もそのひとりで、学問寺で本に嗜みつつ、切れ者・道三の元で実践を学んだと言われている。
光秀が信長に才能を見出されたのも、真面目にコツコツと努力を積み重ねたのが実を結んだのであろう。