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誰から聞くかは重要ではない

2021.04.19 22:00

どんな分野でもそうですが、どうしても名の知れた人のところに人は集まります。




例えば映画でもやはり名の知れた監督のものであるとか、有名な俳優、女優が出ているとそれだけでヒットしやすいです。




これは確かにそうだという場合が多いですが、これも絶対的なものではありません。




あまり知られてない、無名の監督がとったものでもヒットすることがあります。




数年前に「カメラを止めるな」という映画が上映され、これは非常に評判となり、ご覧になった方も多いと思いますが、最初は確か上映館数が2館でした。




ところが口コミでどんどん評判となりまして、大ヒットしました。私も劇場に3〜4回観に行き、動画配信されてからも1度見ました。




知ってる俳優は一人もおらず、監督も知らない人でしたが、よくできた映画で大ヒットしました。




ですから名の知れた人が監督するから、必ずしもヒットするとか、本物とは限らない。




もちろんその逆もあり、知られていない人が提供してやはりダメだった、というこれもまた多く、名の知られた人が提供してヒットしたり、本物であるということもありますが、名が知れているから絶対本物とは限らないということをここ数年実感しています。




精神世界、スピリチュアルの世界でもやはり名の知られた人が本を出したり、セミナーを行う、そうすると人が集まります。




そして名の知られていない人が何かを提供しても、人がなかなかあつまりません。




どうしても人間の習性として、致し方ないところかもしれませんが、私は色々と探究して、色々なものを見たり、多くの人に会ってきましたが、名前が知られているとか、有名だからと言って、間違いがないとか本物とは限りませんでした。




案外なの知られていない人、ビジネスとしては決して成功しているとは言えない人の中に、本物が隠れているというケースが多いかと思います。




特に非二元であるとか、覚醒や悟りとなりますと、誰が教えたり伝えているかというよりも、「これ」とか真我であるとか、そういったものにダイレクトに繋がっていけるかが大事であり、誰それが話しているから聞こうというのは、それはちょっと違うのかなと、私は感じています。




こう言うと「いやいや指導者やグルやマスターを選択するのは非常に大切だ。伝統的な教えでも言われているではないか」と言う人もいるでしょう。




インドやチベットではよく言われていることですね。




私もそれが間違っているとまで言うつもりはないでなく、正しい教えを伝承している方から教えを聞く、ということはもちろん大切ですが、その人にどうしても意識が向いてしまうとなると、それはちょっと違うかなと思います。




どうしても誰それが書いているとか、誰それが言っているとか、ということになると、教えや真理そのものより、その人個人、その人のパーソナリティに惹かれてしまうという傾向が、どうしても生じてしまいます。これは本末転倒です。




ですから誰から聞くかとか、誰が書いていたものを読むか、ということよりもより大切なことはその教えや真理にダイレクトに繋がるかどうかが大切で、パーソナリティは二の次であることをきちんと理解しておくことが大切です。




誰から教わるとか、師弟の関係、縦のつながりですね、これは非常に大切だと強調する人がいます。




インドやチベットなどは、今でもそういう傾向が強いと思われますし、日本人の指導者でも、そこを強調する人もいます。




もちろんそれはそれで良いことだと思いますが、それが強くなり過ぎると弊害が生じてしまうなというのが、今の私の実感です。




師匠と弟子とか、グルと弟子とか、そういう関係性、縦の関係ですね、垂直の次元ですが、これをしっかりと確立することによって、上に引き上げられるということがあります。




しかしこれが強くなり過ぎると、意識の幅が狭まると言いますか、視野が狭くなってしまう傾向があるなと感じます。




縦の関係性、師匠と弟子の関係性を強調する人は、そこに意識があまりにも向きすぎるあまり、広い視点が持てなくなったり、ある部分が非常に狭くなってしまうということがあるかなと。




一方、それをあまり強調しないタイプの人は、かなり寛容で、あれをしちゃダメとか、これをしなさいということが無い、もしくは少ないです。




縦の関係性を強調する人は、あれやっちゃダメ、これやっちゃダメ、あれしなさい、これしなさい、という傾向があるように見受けられます。




それも大切な場合もありますが、あまりにもあれはダメ、これはダメ、というのが強すぎると、何か大切なものを見失ってしまうな、という感じがしています。




ダグラス・ハーディングというスピリチュアルの指導者がいまして、色々な実験を考案して、それを私もやってみたことがあり、非常に興味深いものですが、ダグラス・ハーディングは、昔ながらの師匠と弟子の関係を戒めていた、それどころか嫌っていたくらいだったそうです。




師匠や先生扱いされると、それは違うよ、と言うだけでなく怒るくらいだったとのことですね。




ダグラス・ハーディングはそういった関係性が、むしろ弊害となってしまうことを感じられていたようでして、それは私も本当にそう思います。




あまりにも縦の関係性を強調し過ぎると、私が良かれと思って言ったことでも、全然違うように解釈されたり、これはダメだよ、とかこれはこうしましょう、という風にどんどん言われてきて、何だか自分の意識がどんどん狭まっていくような感じがしました。




それが比較的寛容なタイプの方と接していると、色々な縛りがなく、広大な意識になっていきました。




これは私が長年に渡って培ってきたものですが、以前は私も師匠と弟子の関係性、垂直の次元を重要視しており、そのような関係性を築こうとしていましたが、確かに引き上げられる部分もありますが、それをやればやるほど、本来の広大無辺な意識から離れていくなという感じがしました。




今はそのようなことを言ってくる人から意図的に離れているし、自然に離れていき、そういうタイプの人との関係が断たれるようになっています。




昔ながらの師匠と弟子の関係が良い、という方はそれで良いと思います。




しかしそれが強くなり過ぎると、様々な弊害も生じてきまして、相互依存の関係などですが、そういったことで色々と問題が発生したりするということが、それこそ履いて捨てるほどあります。




あまりにも縦の関係性、垂直ばかりに向かっているとダメかなと、もっと横の広がり、水平の次元も大切にしていく。




もちろん横に広がるだけではダメで、それだけだと引き上げられることもないですが、やはりどちらも包括した、統合された状態、それが大切だと強く思います。




どういった形で探究していくかは、その人それぞれの自由と言いますか、絶対的な正解はないですが、私個人としては、特定の人との関係性だけを強調し過ぎるのは、弊害が生じるという思いが強いです。