明智光秀と名前の話
2019.10.03 京都府福知山市
■明智光秀と名前の話
戦国大名や戦国武将は時折、名前が変わることがあります。その要因は天皇や主君からの賜姓や養子縁組、自ら改めるなど様々です。同様に「明智十兵衛尉光秀」も丹波攻略の控えた天正3年(1575)7月より「惟任(これとう)光秀」と名を改めます。天正3年7月3日、織田信長は宮中の蹴鞠に参加し、官位昇進の内示があったもののこれを辞退し、代わりに明智光秀や丹羽長秀ら数名の家臣たちの改姓や任官を申し出ます。これにより光秀は九州の名族の姓である「惟任」と九州の日向国を管理する役目をもつ官職「日向守(ひゅうがのかみ)」を与えられます。この時点では九州は織田家の勢力下ではなかったので、領地や権利が与えられたわけではありませんが、後の西国攻めを見据えてのものだったと考えられています。賜姓と任官以降、光秀は基本的には「明智姓」を使わず、文書の署名も「惟任」や「日向守」、またはこれらを短縮したものや「光秀」という名前のみを記すようになります。名前の表記は古文書の年代や真贋を判断するうえでの重要要素となります。光秀が出した手紙には年号があまりかかれていません。その手紙がいつ出されたかを年代を考えるとき、「惟任」や「日向守」の表記により天正3年7月の前か後かを判断する基準になるからです。ちなみに光秀も自身の娘婿となった三宅弥平次秀満や丹波攻略の際に貢献した小畠氏などに「明智姓」を与えたりしています。「姓名」や「官職」は当時の社会情勢や人間関係をとらえる上で非常に興味深い要素なのです。
https://rekan.jp/1628/ 【惟任日向守とは 明智光秀が「これとう」になった理由】 より
惟任日向守とは
惟任日向守(明智光秀)は、どうして「惟任」(これとう)と言うのか?
惟任の由来に関して考えてみました。
惟任(これとう)と言うのは、惟任氏と言う意味で、朝廷(天皇)から、明智家がもらった姓名となります。
そのため、明智光秀じたい、惟任日向守、明智惟任日向守、明智惟任日向守光秀と記載されることがあります。
これは、明智光秀が出した書状には、よく「惟任日向守」と自分の名前を明記しているためでして、時代劇などでも、よく「惟任日向守」と明智光秀は呼ばれたりしています。
では、なぜ明智氏が惟任氏とも称したのでしょうか?
惟任氏
南北朝時代の武将に美濃源氏の土岐頼貞がおり、足利尊氏に味方して戦功があり、美濃守護を任じられました。
その9男に土岐九郎(長山頼基)がいますが、その美濃・長山城主である長山頼基の子・明智頼重(あけち-よりしげ)が、明智頼兼の娘と結婚して養嗣子となって明智家の家督を継ぎ、土岐明智氏の祖となりました。
その明智城主である養父・明智頼兼は、子の明智光行が早く亡くなったため、養子を迎えたともされます。
その早世した明智光行の母は、豊後・大神一族の娘でした。
豊後の大神氏(おおが-し)は、惟任氏(これとう-し)の祖でもあり、土岐明智家の祖となった明智頼重の子の一人が、惟任頼秀(惟任彦六)と称しています。
では、明智光秀が、なぜ、明智一族の姓名でもある惟任と称したのか?
これは、織田信長の命があったようです。
織田信長の命
織田信長は、全国統一の総仕上げは、九州になることがわかっており、どうやら、朝廷に働きかけて、一部の重臣に、九州にまつわる名族の氏名を与える勅許を得たとされています。
1575年のことです。
実際に、簗田広正は別喜(戸次)姓を下賜されて、別喜右近(戸次右近)と名乗りましたが、豊後大神系の戸次氏と言う事になります。
丹羽長秀は鎮西九党のひとつで、明智光秀の惟任(これとう)に近い、惟住氏(これずみし)の名を賜り惟住長秀と名乗っています。
塙直政は、九州・大蔵氏の嫡流である原田の姓を下賜されました。
これらと同じように、明智光秀は惟任と日向守(ひょうがのかみ)を賜ったのです。