マハラジが指し示したもの
今回はニサルガダッタ・マハラジについてお話しします。
ラマナ・マハルシについて教えなどについて触れ出したのも、それほど前のことではないですが、マハラジはマハルシよりも後に知りました。
「I AM THAT 私は在る」というマハラジの書籍の中では一番有名なものがあり、それを読んだのがマハラジに触れた最初です。
「I AM THAT 私は在る」は非常に分厚い本でして、読むのに時間がかかりましたが、そこに書かれていることが、これはすごいと実感した記憶があります。
具体的にどのようなことが書かれていたかは、あまり詳細な記憶がありませんが、その後「意識に先立って」という本が2〜3年ほど前に出版されまして、これも読んで非常に感銘を受けました。
そして今年になってから「ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの」という本が出版されまして、これはラメッシ・バルセカールという、マハラジの一番弟子と言って良いと思われるインド人の方が、マハラジが語ったこと、指し示したものをまとめたものです。
マハルシの本もそうですが、マハラジのそれ以前の本は西洋人の方がまとめたものですが、この本に関してはインド人で、しかもマハラジの説かれたことをおそらく最も正確に理解したであろう、ラメッシ・バルセカールがまとめたもので、私個人としては、この本は非常にわかりやすい、他の非二元であるとか、悟り、覚醒についての本はわかりにくいものが多いですが、この本は実によくまとまっています。
そして翻訳を髙木さんという方がされており、この方の訳が良いです。
翻訳本は時には日本語になっていない、訳のわからないものもありまして、また翻訳している人が、教えをどれほど理解しているかによっても、読み手の理解のしやすさ、わかりやすさというものが大きく違ってきます。
その点髙木さん自身が非常に教えの真髄を掴んでいる方でして、そういう方の訳だととてもわかりやすいです。ですから「ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの」は非常におすすめです。
私はこの本を読んでとてもわかりやすいなと思いましたが、色々な本がありますが、これは次元が違うなと。
他にも多くの非二元や悟り、覚醒に関する本がありますが、まだ触りの部分であったり、その本を書いている人が、本当にわかっているのかな?と感じることもありますが、ラマナ・マハルシにしろ、ニサルガダッタ・マハラジにしろ、本当に達成しているなということが、言葉からもそうだし、行間からも伝わってきます。
マハルシの場合は、私個人としては本を読んで感銘を受けたというより、瞑想して静かにしている時にマハルシの臨在や存在、言葉ではないもので伝わることが多かったですが、マハラジは個人的には言葉ですね。
本とか翻訳者の髙木さんがマハラジについてお話ししてくださるものを読んだり、直接話を聞いたりすることで、言葉で伝わるものが大きかったです。
この本では究極次元のことが書かれていまして、様々なことをマハラジは言及していますが、「あなたが生まれる以前はどのような状態であったか?」ということをよく質問者に問いかけています。
私がそれを読んで思ったのが、禅で「父母未生以前」という公案があり、父母と書いてぶもと読みますが、生まれる以前ということですね。
父母が生まれる前はあなたはどういう状態だったんだ?というという公案で、マハラジがその公案を知っていたかどうかはわかりませんが、禅の公案と同じことを言われているなと。
教え方とか教えの細かい部分の違いはあったとしても、共通するところがあり、根底ではつながっているのだなと思いました。
父母が生まれる以前は、マハラジの言い方では絶対状態、という言い方をされていますが、当然、肉体や思考、感情、マインド、そういったものではない、それらに全く属さない絶対状態。
私たち人間は肉体であったり、思考や感情、マインドといったものを私だと捉えています。それが当たり前になっています。
これが極一般的な人の当たり前な在り方ですね。大多数がそのように考えています。
そこから更に深まっていくと、「I AM THAT」「私は在る」の段階に到達していきます。
私は男である、女である、こういう概念に多くの人がとらわれていますが、ただ私は在る、I AM ということですね。
これはマハルシも表現として使っていますが、マハラジも本の題名になっているくらいですから、よく用いています。
ところがこれもまだ最終段階ではない、それが絶対状態であり、私は在るというのもある種の思考ですから、私たちが普段思考にとらわれているとか、よくスピリチュアルで思考にとらわれないように、ということを言いますが、そういうものとは違う次元の、本当に微細な繊細な思考、それが私は在るです。
それが生じる以前の絶対状態、例えば大海原があって、それの波が生じる前の状態、全てが根底でつながっている大海原の状態、それが絶対状態、これは比喩でして、もちろん本来の絶対状態とは、時空であるとかそれとは違うものですが、ここでは一つの例えとして説明しています。
晩年のマハラジは、I AM、私は在る、意識に先立ち、その背景にあるもの、そのことばかり語っていて、現実次元の質問には答えられなかったということですが、マハルシ同様マハラジも余分なものを一切落としていき、私は在る、そしてその先の絶対状態、その次元のことを説いていました。
そこに無理に至らせようとすることもなく、ただそのことを説かれていたようです。
無理に導き入れようとすると、それはまた違うものになってしまうのでただ説いていると。それに対して質問者がなかなか理解できなくて「それはわかりました。しかしどうすればいいんでしょうか?」というようなことを質問者が言います。
そうするとマハラジはがっかりされた様子であったり、場合によっては怒り出したりということもあったようです。
そして私たちは偽りの自分にすごくとらわれていますね。
マハラジからすれば、全て偽り、偽物でして、それではないのだよ、ということを根気よく説かれていました。
しかしどうしても私たちは肉体であったり、マインド、思考、感情にとらわれてしまいます。
そしてわかったつもりになって質問者が何かを言っても、それをマハラジは粉砕してしまいます。そういった妥協はなかったのですね。
マハラジの写真を見ると、なかなか眼光が鋭いです。ラマナ・マハルシとはまた違った表情をされています。
このようにI AM 私は在る、が微動だにしない、ということが伝わってくるなという印象があります。
これはこれでラマナとは別の意味での聖者、覚者の在り方なのだな、と私は感じます。
どちらが優れているとか、どちらの悟りが本物であるとか、そういうことは全く無意味でして、マハルシとマハラジは実際に対面したことがあるということを聞いた記憶がありますが、やはりお互いに認め合っていたということですね。
マハルシやマハラジは他の人のことを評価することはあまりなかったようですが、OSHOは色々とクリシュナムルティがどうだとか、あの男が語っていることはどうだこうだ、ということをよく言っているのが本にも残っていますが、マハルシやマハラジは他者の評価をしているのを、私は読んだり聞いたりしたことはほとんどありませんが、この二人はお互いに認め合っていたとのことで、言葉を交わさなくてもお互いに通じていたのではないかと思います。
ともかくこの「ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの」は非二元の本の中でも極めて優れた一冊です。私も色々と読んできましたが、それは間違いない。
マハラジ自体の悟りは絶対的なものであり、それをまとめているのがラメッシという、マハラジの説かれたことを、指し示したものを正確に理解された方がまとめていて、翻訳されている方もマハラジの説かれていることをかなり正確に理解されているので、そういう意味では奇跡的な一冊ではないかと思います。
他の本を読むのもいいと思いますが、私はマハラジ関係の本だと「ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの」これがとても良いのでお勧めいたします。