木のもとに汁も膾も桜かな
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/hanami.htm 【木のもとに汁も膾も桜かな(ひさご)】より
(きのもとに しるもなますも さくらかな)
元禄3年3月2日、伊賀上野風麦亭での花見の歌仙の発句 。この句は、土芳の『三冊子』に「軽み」を発見した句とする記述がある。
木のもとに汁も膾も桜かな
桜の木の下で花見をしていると、そこに花びらがしず心なく散ってきて、おかげで汁椀といわずナマスといわず花びらで一杯になってしまう。なんと豊かな花の一日であろうか。「汁も膾も」は何から何まで、何もかもという意味の慣用句であった。
大津市戒琳庵の句碑。牛久市森田武さん提供
http://santouka.cocolog-nifty.com/alpha/2009/01/post-37e8.html 【木のもとに汁も膾も桜かな】 より
―表象の森― 「花見の巻」解題
安東次男「風狂始末」を読みすすめながらあらましを筆録するというこの「連句宇宙」もとうとう7歌仙を終えて、残すはあと3つの歌仙。
師走から新年へと、このところ言挙げのペースも乱れ勝ちだったが、心機一転、このあたりで取り戻したいと思う。
「冬の日-尾張五歌仙」「春の日」「阿羅野」-いずれも名古屋の荷兮編-に続く、所謂「七部集」の第四「ひさご」-珍碩編、元禄3年仲秋刊-の最初に収める。「細道」後の新風を探るべく、路通を連れて郷里伊賀を出た芭蕉が、「猿蓑」撰に先駆けて膳所で指導した唯一の現存連句である。
「ひさご」は当「花見の巻」以下五つの歌仙のみを以て編み-四季発句の部はない-小冊子ながら「貞享冬の日」を継ぐ志を顕した集で、序も「阿羅野」の逸材越人に請うている。
連衆は膳所衆のほかに荷兮・越人・路通、それに大津からは只一人乙訓が加わり、近江蕉門の古参尚白と千那は加わっていない。新旧勢力の交替時の常とはいえ、これは蕉門が経験した初の躓きとなった。
「花見の巻」連衆
・芭蕉翁-路通が敦賀へ出迎えに立ったのは膳所からで、主従の大垣入は元禄2年8月下旬、9月6日木因の支度船で伊勢に向い、伊賀上野に帰ったのは同月下旬。五十韻や歌仙数席を重ね、11月末路通を伴って奈良へ出、春日若宮祭見物の後、膳所に赴き、草庵-義仲寺宿坊か-に入った。その間京に出て上京の去来宅-もしくは落柿舎-で鉢叩を聞き、膳所に戻って越年。正月3日ひとまず伊賀へ帰り、3月半ば頃まで「山里」の春を惜しみ、藤堂家中に招かれて俳席を重ねる。
あらためて出郷した俳諧師は、「花見の巻」に一座の後、4月6日国分山の幻住庵に入った。「猿蓑」撰のはじまりである。翁ときに47歳。
・珍碩-浜田氏、近江膳所の人。後、高宮氏を称す。号珍夕、洒落堂、略して酒堂とも。生歿・経歴詳かでなく、元文2-1737-年頃、70歳ぐらいで歿か。芭蕉との初会は元禄2年冬、曲水を介してであったと思われ、二十歳そこそこの青年で、すでに膳所衆のホープと目されていた。
芭蕉はこの無名の新人に、「山は静にして性を養ひ、水はうごいて情を慰す。静動二の間にしてすみかを得る者有。浜田氏珍夕といへり」云々と、異例の讃を書与えている。
・曲水-曲翠とも。菅沼氏、名は定常、通称外記。膳所藩老職、五百石。句の初見は其角編の「続虚栗」。貞享4年江戸詰の時、其角を介して直門に入ったらしく、したがって湖南蕉門の派生には尚白系と曲水系の二つがあった。「ひさご」には「花見の巻」のほかに曲水の名を見ないが、これは同年夏から江戸詰になったからか。興行当時31歳。
<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>
「花見の巻」-01
木のもとに汁も膾も桜かな 翁
次男曰く、板本の巻首に「花見」と、句から離してしるしている。これはこの興行の趣向、もしくは懐紙袖書と見倣すべきものだろう。発句の作意ではない。巷間、「芭蕉発句集」は誤ってこれを句の詞書としているようだ。
連・俳の「花」とは文字どおり賞翫の惣名で、桜は代表的なものだが其名で詠んでは「花」にならぬ。この巻の初折の「花」は定座の裏11句目でつとめている-「千部読花盛の一身田」珍碩-。
初句「木のもと」が下に敷いたのは、公任が「和漢朗詠」に選んだ花山院の「木のもとをすみかとすればおのづから花見る人になりぬべきかな」-詞葉・雑-あたりか。当日の句会が花びらの舞込む洒落堂での即事とすれば、汁も膾もサクラに見える-なる-という挨拶は俳になる。芭蕉であってみれば、自ずから人口に膾炙した西行の歌も思い浮かぶ。
「木のもとに旅寝をすれば吉野山花の衾-フスマ-を着するはるかぜ」
旅人ならぬ汁と膾に花の衾を着せるのが「花見」だ、という諧謔はわるくない。懐石の膳組で汁と膾は不可分でありながら互いに窮屈な仲だが-「羮に懲りて膾を吹く」という-、膳から下せば自由-無礼講-になる、花吹雪のおかげで汁と膾の見分けもつかなくなる、という発見は花見におかしみとくつろぎを生むだろう。
去来の「三冊子」に、「此句の時、師の曰く、花見の句のかゝりを少し心得て軽みをしたり、と也」と伝えるのは彼此いずれのことか、と。
http://kk28028hrk.livedoor.blog/archives/22990162.html 【芭蕉句044】より
今回は親近感の漂う一句。
木のもとに汁も膾も桜かな (松尾芭蕉) (きのもとに しるもなますも さくらかな)
元禄3年(1690年)3月2日、47歳。伊賀上野の風麦亭での花見。風麦(ふうばく)は、芭蕉の故郷伊賀の藤堂藩の藩士。「木のもとに」は「桜の木のもとに」という意味。「汁も膾も」は、当時、「何から何まで」を意味する慣用句だった。膾(なます)は「魚肉を細くこまかく刻んだ料理。
「こうして桜の木のもとで花見をしていると、汁にも膾(なます)にも花びらが落ち掛かってくる」という一句である。
近しい伊賀上野の風麦亭での作句のせいか、どこかほっとした気分が漂っていて、親近感にあふれている一句である。
続いて次の一句。
京に飽きてこの木枯や冬住ひ (松尾芭蕉)(きょうにあきて このこがらしや ふゆずまい)
元禄4年(1691年)10月末。48歳。芭蕉は2年間に及ぶ上方(京都、大阪)住まいから古巣の江戸に向かう途中、三河新城の菅沼権右衛門(俳号は耕月)亭に寄る。耕月(こうげつ)は新城の門人と思われる。10月末といえば旧暦だから木枯らしが吹く冬。そこにお世話になったので、その挨拶吟。
「華やかな京都の生活にも飽きて、木枯らしが吹くここ田舎の厳しい住まいに来てみればここはここで味わいがありますね。」
という一句である。
挨拶吟であるから、出来映えはいまいちであるが、どこに世話になっても、単なる挨拶にとどまらず、こうした作句をして残していく芭蕉の心配りが心憎い。
春が来て一丁前に鼻挙ぐ子象かな (桐山芳夫)
東山動物園で見た親子象の思い出。
(2019年9月27日)