挨拶句について
https://ameblo.jp/seijihys/entry-12498733744.html 【挨拶句について】 より
栗を剥くことひたすらになつてをり 成瀬正俊(なるせ・まさとし)
(くりをむく こと ひたすらに なっており)
昨日、保坂リエ「くるみ」主宰のお宅にお邪魔した時、この色紙が飾られていた。
昔、保坂さんが「玉藻」主宰の星野椿さんに誘われ、鎌倉の句会に参加した時、隣に「ホトトギス」の重鎮・成瀬正俊さんが座っておられた。
長時間の句会でお腹が空くので、みんなに栗が配られた。
保坂さんは初めての参加で、少しでもお役に立とうと、成瀬さんの栗を一生懸命剥いてお渡しした。
最初は「大丈夫ですから…」と恐縮されていた成瀬さんであったが、剥いてもらった栗を「ありがとう」と素直に受け取った。
句会が始まり、清記用紙の内の一句に保坂さんは「あっ」と驚いた。
掲句があったのである。
これは自分のことを詠ってくれたのであろうと、迷わず選ぶと、やはり成瀬さんの句であった。
句会が終って、保坂さんはこの句を記念に色紙に書いていただいたそうである。
以前のブログでも紹介したが、成瀬さんは今はどうか知らないが、日本で唯一個人で城(犬山城)を持っていた。
犬山城内の天守閣へ向かう坂道に「成瀬」という表札をかかげた御宅があった。
掲句などを見ると、さぞ物腰おだやかな紳士なのであろう。
この句は、成瀬さんの保坂さんへの「挨拶」であり、栗を剥いていただいたことへの感謝の一句なのである。
栗を剥いている保坂さんの誠実さもうかがえるし、それを眺めておられる成瀬さんのあたたかい視線もうかがえる。
俳句の「挨拶」などというとついつい難しく考えてしまいがちであるが、掲句のように挨拶は簡単な方がよいのだ。
例えば、
五月雨をあつめて早し最上川 芭蕉 という名吟は、山形で発表した時は、
五月雨をあつめてすずし最上川 であった。
「早し」と「涼し」では何が違うのか?
「早し」は最上川の描写に絞り、自然讃美と詩性を持たせているのに対し、「涼し」には句座に参加した人や土地への挨拶が籠められている。
風土を湛えることが、その地に暮らす人々へのそのまま挨拶になり、芭蕉はこの句で、
「(梅雨のうっとうしい時期ですが、今日は雨水を含んで勢いよく流れる最上川がとても涼しく感じられます。)ここはとてもよい所ですね」と挨拶しているのである。
挨拶は、「ありがとう」とか「暑いですね」とかで良いのである。
掲句や芭蕉の句のように根底に人々や自然への「感謝」があることが大事なのだなと思う
https://ameblo.jp/seijihys/entry-12498733746.html 【挨拶句について2】 より
花ちるや瑞々しきは出羽の国 石田波郷(いしだ・はきょう)
(はなちるや みずみずしきは でわのくに)
前回、俳句の「挨拶」について書きましたが、挨拶句に対する私の考えをきいていただきたく、また「挨拶句」について書いてみたくなりました。
私の考えでは、今の俳句愛好者が作っている作品はほとんどが挨拶句だと思っています。
挨拶句というと、人に対しての挨拶と思いがちですが、実はそうではないのです。
挨拶の範囲は人はもちろん、すべてものに呼びかけることが挨拶なのです。
掲句もその例、出羽は今の山形県、この句は国誉め、土地誉めの一句であり、出羽への挨拶なのです。
前回、私は、挨拶は、「ありがとう」とか「暑いですね」とかで良いのである。と書きましたが、この句も簡単に言えば、桜の散る山形は瑞々しさにあふれていて良いところですね
と挨拶しているのだと私は思います。
私が思う挨拶句を挙げてみます。
いくたびも秋篠寺の春時雨 星野立子(いくたびも あきしのでらの はるしぐれ)
頼家もはかなかりしが実朝忌 水原秋櫻子(よりいえも はかなかりしが さねともき)
あたたかき十一月もすみにけり 中村草田男(あたたかき じゅういちがつも すみにけり)
秋風のかがやきを言ひ見舞客 角川源義(あきかぜの かがやきをいい みまいきゃく)
実朝の海あをあをと初桜 高橋悦男(さねともの うみあおあおと はつさくら)
蛍狩おおきな月をあげにけり いさ桜子ほたるがり おおきなつきを あげにけり)
立子の句は大和路への挨拶、秋櫻子の句は、二代鎌倉将軍・頼家(北条氏と対立し失脚のちに死)、三代将軍実朝(頼家の遺児に鶴岡八幡宮で暗殺)という悲劇の一門への挨拶なのです。
また、草田男の句は故郷四国松山のあたたかさを詠った句で、産土の地への挨拶です。
もちろんその背景を知らなくても、あたたかかった今年の秋への挨拶句ととってもよいと思います。
源義の句は見舞い客と、その気持ちのよい一日を授かったことへの挨拶(感謝の気持ち)、悦男さんの句は伊豆の海であり、風土と自分が生まれ育った土地への挨拶、桜子さんの句は、豊かな自然を讃えている、土地への挨拶句なのです。
身近な例で言えば、いつもコメントを下さり、ブログで毎日、作品を発表されている大介さんの作品は、読んでいてほとんどが自然への挨拶句だと私は思っています。
ですから、私の考えは旅吟や自然詠は、ほとんどが挨拶句です。
また自然詠に限らず、私の、背泳ぎの指太陽に触れてゐる 誠司も、自分では太陽そして夏への挨拶だと思っています。
つまり、「対象と自分との交歓」が挨拶になるわけです。
俳人の石田郷子さんは、俳句は自然への感謝、祈りにも似た思いで詠んでいる、と言っていました。
そう考えれば彼女の作品はすべて挨拶句と言ってよいでしょう。
現代俳句のほとんど、というか俳句はほとんどが挨拶句だというのが私の結論です。
では挨拶句ではないものには何があるのかと言われれば、呼びかける対象の無い句が非・挨拶句になります。
自己の内面を観念的に表現した句などがそれに当たります。
私の考えで言えば、それは良い悪いではなく、無季俳句に多いように思います。
もっとも、それも自分ともう一人の自分との交歓というふうに考えればそれも挨拶句と考えてもいいわけです。
ですから、コスモスを詠えばコスモスに、鶯を詠えば鶯に呼びかけているわけですから季語を入れれば自然と挨拶句になると私は考えています。
私が季語を尊重する所以です。
挨拶句であるから高尚であるとは言いません。
しかし少なくとも私が俳句をする理由は、大切な人、美しい自然をはじめあらゆるものと自分との「交歓」にありますから、自然と挨拶句を詠んでいるのだと思います。
以上、私の挨拶句に対する考えです。
よかったらみなさんの考えを聞かせてください。
https://ameblo.jp/seijihys/entry-12498733747.html 【挨拶句について3】より
前回の波平さんのコメントなども踏まえて、またまた挨拶句についての、私の考えを述べさせていただきます。
まず、正岡子規についてですが、子規の俳句、特に写生に目覚めてからの俳句には波平さんのご指摘の通り「挨拶性」がかなり少ないと言えます。
前回紹介した、五月雨をあつめて早し最上川 芭蕉 これを子規は批判し、
五月雨や大河を前に家二軒 蕪村 の方が上等である、と述べていました。
これは、子規の「情緒よりも写生を重視」という姿勢がうかがえます。その時の子規の頭には俳句の挨拶性というものは一切意識に無く、また、あったとしてもむしろ唾棄すべき古臭い伝統とおもっていたのかもしれません。その証拠と言えるかどうかわかりませんが、虚子や漱石などには優れた弔句がありますが、子規にはありません。あったとしてもそれほどいい句ではないはずです。
子規の俳句革新とはこれまでの季題情緒によりかかり、言葉遊びとなっていた俳諧の古臭い概念を否定し、文学としての俳句を屹立させるという志があったわけです。
では、子規の俳句または短歌などにおける文学性とは何か。
それは、写生による「情緒からの脱却」と病・死などを見つめる「文学的テーマ」を俳句で実現することであったと思うのです。
まず「情緒からの脱却」についてですが、子規の短歌に、
ガラス戸の外に据えたる鳥籠のブリキの屋根に月映る見ゆ
小庇にかくれて月の見えざるを一目見むとゐざれど見えず
照る月の位置かはりけむ鳥籠の屋根に映りし影なくなりぬ
という一連の作品があります。
この三首は脊椎カリエスの子規が、ブリキの屋根に映る月影を見つけ、病床を這い出して、小庇に隠れた月を見ようとするのですが、激痛の為なかなか上手く進めず、そのうち月は位置を変えてしまい、ブリキ屋根の月影も失せてしまった、というものです。
特徴的なのは、ここに登場する「月」「鳥籠」「ガラス戸」「ブリキ屋根」などという素材が、叙情や季題的情緒を一切排した即物的、ただそこにある「モノ」として描かれていることです。
その表現方法は子規の俳句にも見られ、鶏頭の十四五本もありぬべし(けいとうの じゅうしこほんも ありぬべし) 筆も墨も洩瓶も内に秋の蚊帳(ふでもすみも しびんも うちに あきのかや)などには、「挨拶性」がなく、対象を即物的「モノ」として描いています。
挨拶というのは、対象(モノ)との交歓にあるわけですが、子規にはそれが無く、あるのは、ある意味、冷静に「モノ」を見つめる文学者の目です。
そこには挨拶性がないわけで、それこそが子規の提唱した写生であったのです。
つまり、私の考えでは近代俳句には文学指向があるだけで「挨拶」がないのです。
むしろ「挨拶」などという非文学的なものを否定している所に近代俳句は始まっているのです。
それを「花鳥諷詠」として、もっと自然に身を置いて詠おうと軌道修正したのが、高浜虚子だと私は思うのです。どちらを支持するかは、その人の嗜好によって違うのだと思います。
次に病・死などのテーマですが、この問題はやはり自己の内面に深く問いかけるものです。
そこには自己との対話・葛藤などがテーマになってくるわけですから、やはり「(自己以外の)対象との交歓」という「挨拶性」が薄くなってゆくものだと思います。
しかし、老・病・死が挨拶句にならないかというと、決してそうではないと私は考えます。
つまり「挨拶句」とは方法論なのです。
老・病・死を、葛藤などの内面を深く追求する方法と、「ものとの交歓」という挨拶性によって見い出す方法があり、子規はその文学的指向によって前者を選んだと思うのです。
子規の晩年の句は、糸瓜咲て痰のつまりし仏かな(へちまさいて たんのつまりし ほとけかな) おととひの糸瓜の水もとらざりき(おとといの へちまのみずも とらざりき)
ですが、これは、血痰に苦しんでいた子規と、糸瓜の水が痰をきる効能があるということから生まれた句です。
やはりこの句には挨拶性がありません。
しかし、私の先師である角川源義の絶唱に、 月の人のひとりとならん車椅子(つきのひとの ひとりとならん くるまいす) 後の月雨に終るや足まくら(のちのつき あめにおわるや あしまくら)という句があります。
一句目は死期を悟った源義が、車椅子で月を眺めながら、偉大な先人たちや懐かしい人々が集っているであろう月へ、私ももうすぐ行くのであろう、という、まるで車椅子ごと月へ渡ってゆくような切ないメルヘンがあります。
二句目は病気の萎えた足を枕に敷いて、死ぬ前にうつくしい「後の月(名月の次の満月)」を見たいと、心待ちにしていたのだが、雨に終ってしまった、もうこの世であの美しい月をみれないのだろう、という思いを詠ったものです。
ここにはかなり自分の思いが強く入っていますが、やはり「月」への思い、挨拶性が根本にあると思います。
子規の句と何が違うかというと、対象への愛着が違います。
また、芭蕉晩年の句で、私が大好きな句に、此の秋は何で年寄る雲に鳥(このあきは なんでとしよる くもにとり)というのがあります。
生涯を旅に生き、旅に果てたいと願った芭蕉。
しかし、今年の秋はめっきり体力が落ち、気力も萎えてきた。
今年の秋はなぜこんなにも年寄って(衰えて)しまったのだろう、と感じているのです。
ここには芭蕉、晩年の意識があり、老そして忍び寄る死、そしてなおも続く漂泊への願望があります。
何より素晴しいのは「雲に鳥」であり、芭蕉は老い・死への不安・寂しさを抱えながら、雲間へ悠々と消えてゆく鳥の飛翔を眺めているのです。
この「鳥」は「旅に生きたい」と願った芭蕉の魂の象徴のように思えるのです。
この句も、自分の思いが強く滲み出ていますが、鳥や現世への深い挨拶性があると私は思うのです。
つまり挨拶句とは方法論であり、「モノとの交歓」によって自己の思いを託すか、そうでないかということになります。
またまた長くなってしまいましたが、いかがでしょうか。
ちなみに芥川や漱石にも挨拶性が見られない、というのは先述の、やはり文学者としても冷徹な目がそうさせるのではないかと考えますが、漱石には、有る程の菊投げ入れよ棺の中 秋風や屠られに行く牛の尻 芥川には、初秋の蝗つかめば柔らかき あさあさと麦藁かけよ草いちご 青蛙おのれもペンキ塗り立てか などに挨拶性を見ます。