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散る桜 残る桜も 散る桜

2018.04.07 06:44

https://www.zen-essay.com/entry/tiru-sakura 【【禅語】 散る桜 残る桜も 散る桜 ~良寛禅師 辞世の句~】 より

いつも衣の懐に手毬やおはじきを入れて、子どもらと無邪気に遊んでいたという良寛和尚。

「散る桜 残る桜も 散る桜」という禅語は、そんな良寛の辞世の句と言われている。

今まさに命が燃え尽きようとしている時、たとえ命が長らえたところで、それもまた散りゆく命に変わりはないと言い切る良寛の心。

桜は咲いた瞬間から、やがて散りゆく運命を背負う。

ブッダが説いた「死」の原因

仏教の創始者であるブッダは80歳で亡くなった。

旅の途中、チュンダという人物から施しを受けた供物を食べたことによる食中毒が原因だったと考えられている。

それはキノコ料理だったとも、豚肉料理だったともいわれている。

極度の下痢と脱水症状に苦しみ、衰弱していくブッダの姿を見て、チュンダは責任を感じ泣き続けていたという。

しかし、そんなチュンダに、ブッダはこう言い聞かせた。

「チュンダよ。嘆く必要はない。お前は最後の供物を私に与えてくれた。大いなる功徳がお前にはある」

また、齢80になって死の淵をさまようブッダの傍で、不安にうろたえる弟子のアーナンダにはこう言い聞かせた。

「嘆くでない。悲しむでない。生じたものが滅しないということはありえないのだ。生まれた者は必ず死ぬのである」人は生まれた時点で必ず死ぬことが決まっている。生まれたから、死ぬのである。

チュンダの食事を食べなくても、ブッダは死を免れることなどできはしなかった。

だからブッダはチュンダが罪の念に苛まれるのを防ごうとした。自分の食事が死の原因だなどと思って嘆かなくていいのだ、と。

それどころか、貧しい身でありながら精一杯の食事を施してくれたチュンダに対し、あなたは大きな功徳を積んだと言って、感謝の気持ちさえ伝えている。

この言葉を聞いて、チュンダは一層涙を流したに違いない。

死に至る病を患い、余命を宣告されるのは、死を眼前に突きつけられることと同じであり、辛く厳しいことであるのは間違いない。

だが、余命というのであれば、人は生まれた時点で「寿命」という余命を宣告されて生きていることを忘れてはいけない。

誰もが、生きて、死ぬのである。

1年後の死は不幸で、10年後の死は幸福かといえば、そんなわけはないだろう。

ガンが不幸の元凶なのではない

ガンを患い医者から余命を宣告され、苦悩の日々を送っていた人がいた。

その人は当初、残りの人生を悲観することしかできなかったが、ある時、いまある命の尊さに深く感じ入り、これまでに味わったことのない幸福感を覚えたという。

「ガンを患うことがなければ、生きることの尊さも、命の尊さも知らずに人生を終えていたかもしれない。命というものに意識を向けることなく死んでいたかもしれない。

だから今では、むしろ人生の最後にガンを患ったことを有り難いことだとさえ思っている」

その人はそう述懐した。

幸福や不幸といった概念がいかにあやふやなものであるかを思い知らされる。

致死率100%の寿命

人は死ぬ。

必ず尽きる命を得たこの人生は、致死率100%の「寿命」という病にはじめから冒されている。命があることと命が失われることは、まさにコインの裏表。

病に冒されたから死ぬのではない。生きているから、死ぬのである。

良寛の残した辞世の句は、哀れで、はかない。

人間は死から逃れることはできないという諦観のようにも聞こえ、命を諦めた言葉にも受け取れる。

しかし、禅において「諦める」という言葉は、物事の真実を明らかにするという意味の「明らめる」という意味で用いられる。

必ず死ぬこの人生とは何なのか。

それを明らかにすることが「諦める」であり、諦観という言葉の真意だ。

「散る桜 残る桜も 散る桜」

桜は散る。命は散る。必ず散りゆくこの命とは何なのか。

人がその人生において本当に考え抜くべき問いを残してこの世を去った良寛の辞世の句に、潔さと美しさを感じるのは、私だけではないはず。


https://yumetgn.themedia.jp/posts/601503/ 【散る桜、残る桜も散る桜】別れるということは、また新しい旅立ちなんだ・・】 より

散る桜 残る桜も 散る桜 

良寛の一句「散る桜残る桜も散る桜」で

「散って行く桜があれば、未だ美しく咲き放っている桜もある。しかし、結局どちらも最終的には散る」ということですが、あれだけ満開に咲き誇る桜がいとも簡単に消えて行き、そしてまた五月の新緑を迎え次の春に備えてエネルギーを蓄えて行きます。

(中略)

それと共に、此の両句とも東洋に伝統的にある無常観を表したものであり、先哲は此の世の儚さを感慨し人間の命が如何に儚いものであるか、ということをある意味詠っているわけです。

(北尾吉孝氏のブログより)

まもなく桜の季節ですね。桜の寿命は2週間くらいでしょうか。待ちに待った春に、一気に開花し、人々の注目を集め、潔く散っていく。

そして、本格的な生命の息吹を感じる新緑が、一気に広がっていきます。

桜の咲くころは、人生にとっても、いろいろな意味で重要な時期ですね。

出会い、そして別れをする時期。期待に胸を膨らませて、新出発をする時期。

散る桜 残る桜も 散る桜 

桜が散っていく。しかし、残っている桜も、いずれ散って、すべての桜は無くなってしまう。そして、代わりに、新緑が芽生える・・・長い短いはあるが、いずれ散る。

人の人生と同じである。

少し前ですが、38年間、勤めた会社から、退職するシーンのCMがあったが、なんとなくむなしさを感じた。38年と言えば、大学卒業して、60歳まで。

いろいろな意見はあろうが、人間の一生の大半としては、儚い、むなしさを感じる。

1 散る桜 残る桜も散る桜 

いつか散りゆく この身じゃないか 男ごころに咲く花は いまをさかりに 咲けよ咲け

2 散る桜 残る桜も散る桜 

ひとり酒でも 盃ゃ二つ  忘れられない面影を  花にうかべて かさね酒

「昨日出逢って今日別れ、  黙ってうなずく花もある。 しかし、覚えていてほしい。

 別れるということは、また新しい旅立ちなんだ」

3 散る桜 残る桜も散る桜 

所詮 短い命じゃないか  散ってしまえば みなおなじ  風の来ぬ間に 咲けよ咲け

4 散る桜 残る桜も散る桜 

泣くも笑うも はかない命  一期一会の夢おえば  せめて別れの 花と咲け

5 散る桜 残る桜も散る桜 

せめて別れに歌おうじゃないか 男ごころに咲く花は 花と咲く身の  明日に咲け花と咲く身の 明日に咲け 

鶴田浩二のヒット曲である。

桜の時期には、今一度、人生について、考える機会じゃないでしょうか?

人生には出会いと別れ。たった一度の、人生。満開に花が咲くのは、ほんの少し。

自分の人生を咲ききっていきたいですね。

最後に「散る桜,残る桜も散る桜」「貴様たちだけを死なせはしない」

「最後の一機で俺も特攻に出撃する」といいつつ特攻はしなかったリーダー、責任者は多い。

北朝鮮の元山といえば、「予備学生の墓場」といわれた海軍特攻隊の基地があった所です。

この隊の司令・青木泰二郎大佐は、敗色が濃厚となると、いち早く8月11日に家族ぐるみで

元山の海軍基地から日本に脱出しました。

彼はミッドウエー海戦で撃沈された空母「赤城」の艦長でしたが、その時撃沈された帝国海軍の軍艦中唯一の生き残り艦長でもありました。

僕としては、一手の大将として信じられない行為を二度もしている。

他人にやらせて、自分はやらない。世にこう言うリーダーのなんと多いことか。

何万回の立派な演説より、率先垂範の行動だ。

こんなことをしている連中は、最後は、青木大佐のようになる。

いい気になっていると、萬田銀次郎氏の言葉のようになる。

このことだけは肝に命じときなはれ

魔物は天界に住んでまんねやで。

天界…すなわちなにもかも上手くいって有頂天の時に魔物は襲って来まんねや、

魔物は有頂天に住んでまっからな。これを魔がさす…と言いまんねやで!