Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

英文和訳「いとも容易く彼女は倒れた。 そしてすぐに亡くなった。」: ミャンマーで今、起きていること

2021.04.07 23:20


The New York Times の記事を日本語訳しました。


元の記事




「いとも容易く彼女は倒れた。 そしてすぐに亡くなった。」


ミャンマーの治安部隊は2021年2月以降、40名を超える子どもたちを殺害している。 これはその中のひとり、Aye Myat Thu さんの記事である。 彼女はわずか10歳だった。


By Hannah Beech, The New York Times

2021年4月4日 3:00 a.m. ET



うだるような暑さの中、U Soe Oo さんはナタでココナッツの実を割る作業を繰り返していた。 冷たくてつるつるしてつかみにくい最初のひと切れに小さな両手が伸びた。


彼の10歳の娘はメイクアップ・アーティストや看護師、ときには『眠れる森の美女』 の主人公のような長く金色の髪を持つお姫さまになるのを夢見て、本当に夜になっても何度も眠らずにいた。 その子が甘いココナッツひと切れを手に小道へと駆け出した。


彼女が家の敷地の境界に立つ木々に達したちょうどそのとき、その女の子はよろけるようにうつ伏せに倒れ、彼女の父親は大声で呼び戻した。


ひと切れのココナッツが彼女の手のひらからモーラミャインの赤茶けた土の上へと滑り落ちた。 モーラミャインはミャンマー南東部の細長い群島にある港町だ。


Soe Oo さんはナタを置き、「大丈夫か!」と叫びながら娘のもとに駆け寄った。 そのとき、まだ彼女はもうひとつの厚切りのココナッツを持つことができていた。 彼は力の抜けてしまった両腕で彼女を抱き上げたが、一切血痕は見られなかった。 そのとき、なぜ彼女はひと言も発していなかったのだろうか。


銃弾は娘の Aye Myat Thu さんの左こめかみに入っていた。 2021年3月27日午後5時30分頃、柔らかな夕暮れの光の中だった。 1時間も経たずに夜の闇が降りてきたが、それを待たずに彼女は亡くなった。



モニタリング・グループによると、2021年2月1日にクーデターを起こし、国内の文民リーダーを拘束して以降、ミャンマー軍は、処罰されることもなく、虐殺と暴行と逮捕を繰り返している。 路上で、さらには自宅で、550名を超える人々が軍人たちや警官たちにより殺害されている。


ニューヨーク・タイムズ紙が検死報告書や葬儀詳細、住民からの報告をまとめた情報によると、それらの犠牲者のうち少なくとも40名が18歳未満の子どもたちなのである。 抗議デモに参加していたために殺害された人々は極少数なのだ。 他の多くの犠牲者は傍観者である一般市民であり、頭部にたった1発の銃撃を受け、見せしめとして処刑されているのである。


軍によるテロ行為に巻き込まれた都市や町の中で、家族とみんなで遊んでいたり、普段通りに暮らしていた子どもたちが殺されたケースも多い。 父のひざの上の心地好さを求めただけなのに、あるいは「お茶をちょうだい」「お水をちょうだい」とだけ言いながら、またあるいはココナッツひと切れを手に小道へと駆け出しただけなのに、その直後に最期の瞬間を迎えた子どもたちもいる。



「私の娘を殺した軍人たちに復讐する力なんて、私にはありません」

と、亡くなった Aye Myat Thu さんの母親の Daw Toe Toe Lwin さんは語った。


「すぐにミャンマー軍が退却してくれることを望みます。 私にできるのはそれだけです。」


今回の子どもたちに対する大量虐殺、その犠牲者数は、1988年の陸軍や治安部隊による弾圧での死者数を既に超えている。 こうして国民を恐怖に陥れることが、平和を望む民間人への最大限の武力を用いたミャンマー軍による襲撃に対する「慣れ」を生んでいる。 また軍による襲撃が、実弾や催涙弾を発砲する軍人たちに向けて一般市民が三本指を立てた小さなハンドサインで抗議の姿勢を示す決意を、より強固なものとしている。


今週、ミャンマーの特使が国連安全保障理事会でこのように警告した。


「血で満たされた浴槽が、すぐそこにある」


そして、


「国全体が誤った状態へと急降下していく、ミャンマーは今、その縁にある。」


その仏塔やラドヤード・キップリングの詩、ジョージ・オーウェルの随筆などで知られているモーラミャインでは、クーデターの1週間後に市民による抗議活動が始まった。 それ以来、彼らはほとんど毎日、時折港の船舶から抗議する人々や、オートバイの集団となって抗議する人々と団結している。



亡くなった Aye Myat Thu さん。 そのご家族は皆、政治には積極的に関わってこなかった。 4年前、モーラミャインに住む人々が、ある橋に他の州出身の軍司令官の名をつけることに対して抗議したときも、彼ら家族は沈黙を守り通した。 さらにその10年前、僧侶たちがクーデター後の軍事政権への抗議を先導したときも、彼ら家族は自宅に留まった。 また1988年、当時軍事政権下のミャンマーで民主政治を支持する運動が爆発し、軍による射殺だけで全国で何千名もの一般市民が犠牲になったときも、彼ら家族の沈黙は変わらなかった。


しかし、今回は違った。 Soe Oo さんは家具磨きの職人だ。 彼の上の娘ふたりは、それぞれ教師と美容室の経営者だ。 (Aye Myat Thu さんは5人の子の中の第4子だ。) 社会主義と数霊術が合わさって起こった経済危機により、一度は悪い状況に置かれたミャンマーで、一家が上の階級へと変わっていく感覚があった。 その経済危機とは、旧・軍事政権指導者が縁起の良い数字とする「9の倍数」を使った45チャット紙幣・90チャット紙幣への痛みを伴う改革である。 


* 並行して既存の高額紙幣の廃止が行なわれた。 廃止された紙幣の持ち主に対して十分な補償はされず、他の紙幣の交換は実施しない、あるいはごく限られた期間に一定額までの紙幣の交換を行う対応がされた。 このため、現金を自宅に保管する習慣 (いわゆるタンス預金) が一般的だったミャンマーでは、多くの国民が損害を受けた。 不定期に行われる廃貨、紙幣の増刷によって起きるインフレーションへの対策として、多くのミャンマー国民は金製品や米ドルを資産として保有している。


(9の倍数を使った紙幣が従来の紙幣に取って代わったとき、多くのミャンマー国民の貯蓄の一部が消え失せてしまった。)



現在、彼らの家族は裕福でも貧乏でもない。 しかし、明らかに彼らは10年前に始まった政治的改革・経済的改革の恩恵を受けており、それらは一般市民に携帯電話を購入させ、Facebook に参加させ、そして政治の支配が及ばない安全な場所に個人の預金口座を作らせた。


一家は見かけ上、オーディオ機器やTVなど、中産階級のいくつかの成功を手にした。 亡くなった Aye Myat Thu さんは青いカゴつきの自転車を買うために彼女のお小遣いを使った。 彼女は TikTok を知り、ティアラとピンクのハートのあるお姫さまフィルターに喜んだ。 彼女とその姉妹は可愛らしいアイテムの数々に喜び、踊ったかも知れない。 笑い声が弾け、あっという間に時間が過ぎてしまうから、姉妹は TikTok の再生を止めなければならなかっただろう。


ひょっとしたら、一家は初めて何かを失ったのかも知れない。 Aye Myat Thu さんのおばは「革命」のためにクーデターに抗議するデモに加わった。

Aye Myat Thu さんは、おばに質問ばかりしていたという。


「彼女は一度、『みんな、大通りに出て何をしているの』と、私に尋ねました。 彼女は人々が抗議をし、そして死んでいくことを Facebook で見ていましたからね」


おばの Daw Kyu Kyu Lwin さんはこのように語った。


「私はクーデターについて、そして人々がなぜそれに抗議しているのかを、彼女に説明しました。 私が説明していた間、彼女は何も言いませんでしたが、しっかりと聴いていました。 彼女は深く考えていたようでした。」



2021年3月20日、死者数が増加する中、モーラミャインの住民たちは、自分たちの身を安全なものとする創造的な集会を企画した。 自分たちがデモをすることに代わり、彼らは動物のぬいぐるみたちを一列に並べて写真を撮り、それをソーシャル・メディアに投稿した。 そこではクマのプーさんとその親友であるピンクの耳のピグレット、日本のネコ型ロボットのドラえもんや小さなカメさんがそれぞれ「私たちは民主政治を望みます」と書かれた看板を掲げていた。


1週間後、モーラミャインでは気温が上昇した。 アスファルト舗装の道路からは陽炎が立ちのぼっていた。 アンダマン海からは熱風が吹いていた。 その日はミャンマーの国軍記念日で、今回のクーデターの扇動者であるミン・アウン・フライン国軍総司令官・国家行政評議会議長が首都ネピドーで軍所有の兵器を誇示する式典を開催した。


その日、国中の至るところで治安部隊が銃撃したことにより、少なくとも114名が命を落とし、その中に7名の子どもたちが含まれていた。 ミャンマー最大の都市ヤンゴンでは、幼い女の子の片眼にゴム弾が当たり、半失明となった。


今回のモーラミャインでは、クーデターに抗議する人々は、代役としての動物のぬいぐるみたちに頼らなかった。 照りつける太陽の下、土嚢のバリケードのうしろにおよそ300名の市民が集まった。 およそ100名の治安部隊と対峙するため、プラスティック製のヘルメットを装着した者もいた。 最初に発砲されたのはゴム弾だったが、昼にはもう実弾射撃に変わっていた。 デモ隊は四方に散ったのだが、2名が命を落とした。



亡くなった Aye Myat Thu さん宅の近所の、色とりどりのブーゲンビリアが飾られ、それぞれ陽気な色に塗られた上品な木造住宅の立ち並ぶ町を、なぜ軍人たちがぶらついていたのか。 全く誰にもその理由がわらかないままだ。


彼女の父、Soe Oo さんは庭にあるココヤシの木からココナッツを穫り、その甘いジュースをこぼさぬよう、慎重に叩き切った。 その爆竹がポン!と鳴るような音は、夕方の霞がかかった暑さの中で、大空に響き渡った。


Aye Myat Thu さんは、そのココナッツをひと切れ、手でつかんだ。 パン!パン!パン!と鳴った音が彼女を自宅から小道へと引き寄せた。 近所の住民たちによると、街路樹の向こう側に迷彩服を着ているのに目立ってしまっている男が大股でゆっくりと歩いていたという。 一家の中に彼を知る者は誰もいなかった。


「その実弾によって娘の左こめかみに開けられた穴はとても小さかった。」


父親の Soe Oo さんは、こう語った。


だからその実弾がどうして娘の命を奪ってしまったのか、彼には理解できなかったという。 彼の娘は、すぐに引き金を引きたがる軍隊による無差別殺戮の犠牲者のひとりなのだ。


彼はこう続けた。


「私の娘は、いとも容易く倒れた。 そして、すぐに亡くなった。」



葬儀は翌日に行なわれた。 仏教の僧侶たちがお経を読み、会葬者たちは棺の周りに集い、映画『ハンガー・ゲーム』に由来し、権力者に対し公然たる抗議を示す象徴となった3本指のハンドサインを皆が高く掲げた。 その少女の顔はジャスミンの花束で縁取られ、弾丸はまだ彼女の頭の中のどこかに留まったままであった。


「私は復讐として、彼女を殺した軍人の皮膚をまるごと剥ぎ取ってやりたいよ。」


彼女のおじの U Thein Nyunt さんは、こう語った。


「彼女は優しい心をもつまだまだ無邪気な子どもだったんだ。 彼女は私たちの天使だったんだよ。」



彼女の遺体の周りには、家族が Aye Myat Thu さんのお気に入りの宝物を置いた。 1セットのクレヨン、何体かのお人形さんと1体の紫色のうさぎさん、いくつかの Fair and Lovely のクリーム、Monopoly のボードゲーム、彼女が殺害される2日前に描いたハロー・キティのスケッチである。 その紙に描かれた漫画のネコの隣りには、Aye Myat Thu さんが丹精を込めて英字で清書した彼女の名前があった。


「私は虚しさを感じます。」


彼女の母、Toe Toe Lwin さんはこう語った。



葬儀が終わるとすぐに Aye Myat Thu さんは火葬された。 彼女とともに彼女の宝物も。 ミャンマー国内の土葬が行なわれている地域では、おそらく軍人たちが自らの残虐行為の証拠となるものを隠すために、殺害した遺体を軍人たちが盗んでいる。 ある1つのケースでは、亡くなった子どもの遺体を墓の中から掘り返したのだ。


家族は、彼らの可愛い娘が同じような酷い目に遭わないようにと望んでいた。