行く春を近江の人と惜しみける
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/sekisyun.htm 【行く春を近江の人と惜しみける】 より
(猿蓑)(ゆくはるを おおみのひとと おしみける)
志賀唐崎に舟を浮べて人々春 を惜しみけるに 行く春や近江の人と惜しみける
(真蹟懐紙)(ゆくはるや おおみのひとと おしみける)
元禄3年3月作。47歳。『去来抄』にはこの句について次ぎのようにある。
「先師曰く、「尚白」が難に、近江は丹波にも、行く春は行く歳にも振るべし、といへり。汝いかが聞き侍るや。」去来曰く、「尚白が難あたらず。湖水朦朧として、春を惜しむに便有るべし。殊に今日の上に侍る。」と申す。先師曰く、「しかり。古人も此の国に春を愛すること、をさをさ都におとらざるものを。」去来曰く、「此の一言心に徹す。行く歳近江にゐ給はば、いかでか此の感ましまさむ。行く春丹波にいまさば、本より此の情うかぶまじ。風光の人を感動せしむること、真なるかな。」と申す。先師曰く、「汝は去来、共に風雅を語るべきものなり。」と殊更に悦び給ひけり」
いささか去来の自慢話めいてくるが、句の解釈としてこれ以上の解釈は無いであろう。
行く春を近江の人と惜しみける
琵琶湖のある近江の国の春の美しさを近江の人たちと過ごし、行く春を近江の人たちと惜しんだのである。芭蕉にとっても、近江の人たちにとっても充実した春だったのである。
義仲寺にある句碑(牛久市森田武さん撮影)
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/reference/kyoraisyou/sensihyo/s03_yukuharuwo.htm 【行春を近江の人とおしみけり】
行春を近江の人とおしみけり 芭蕉
先師曰、尚白が難に、近江は丹波にも、行春ハ行歳にも有べしといへり*。汝いかゞ聞侍るや。去來曰、尚白が難あたらず。湖水朦朧として春をおしむに便有べし。殊に今日の上に侍るト申*。先師曰、しかり、古人も此國に春を愛する事、おさおさ都におとらざる物を*。去來曰、此一言心に徹す。行歳近江にゐ給はゞ、いかでか此感ましまさん。行春丹波にゐまさば本より此情うかぶまじ。風光の人を感動せしむる事、眞成る哉ト申。先師曰、汝ハ去來共に風雅をかたるべきもの也と、殊更に悦給ひけり*。
尚白が難に、近江は丹波にも、行春ハ行歳にも有べしといへり:<しょうはくがなんに、おうみはたんばにも、ゆくはるはゆくとしにもあるべしといえり>。尚白が、この句について「近江」でなくとも「丹波」でも、「行く春」が「行く 歳」でもいいではないか。過ぎて行く時を惜しむのに、「近江の人」でなくたって、「春」でなく「歳末」では何故いけないのかと非難しているよ。
湖水朦朧として春をおしむに便有べし。殊に今日の上に侍るト申 :<こすいもうろうとしてはるをおしむにたよりあるべし。ことにこんにちのうえにはべるともうす>。琵琶湖も霞の中に埋もれて、まさに過ぎてゆく春を惜しむに格好の季節。これぞ 今日のような春でなくて他のいかなる季節があるというのだろう。尚白の非難は間違いです。
しかり、古人も此國に春を愛する事、おさおさ都におとらざる物を:全くその通り。万葉や古今集の歌人たちもここ近江の春を堪能したのであって、それは京の都の春にも負けないほどのものであった。そのことが、読む人にとって理解できるのであって、丹波の春といわれても連想ができまい。
先師曰、汝ハ去來共に風雅をかたるべきもの也と、殊更に悦給ひけり :<せんしいわく、なんじはきょらいともにふうがをかたるべきものなりと、ことさらによろこびたまいけり>。去来の面目躍如の一文。
https://yeahscars.com/kuhi/yukuharu-2/ 【行く春を近江の人と惜しみける】 より
ゆくはるを おうみのひとと おしみける
行春を近江の人とをしみける松尾芭蕉、元禄3年(1690年)3月。猿蓑に、「望湖水惜春」の前書きで「行く春を近江の人と惜しみける」。懐紙に「やよひの末つかた志賀辛崎のあたりにふねをうかへて」の前書きで「行く春やあふみの人とおしみける」。
「おくのほそ道」の旅を終え、故郷・伊賀上野から京都を廻り、この句が詠まれた元禄3年晩春には、芭蕉は膳所の義仲寺無名庵に身を寄せた。辛崎(唐崎)は、そこから北西へ4キロほどのところ。柿本人麻呂の近江荒都歌の反歌「さざなみの志賀の辛崎幸あれど大宮人の船待ちかねつ」で知られるところである。
なお、立夏を過ぎた4月6日からは、門人の菅沼曲水に提供された、大津市にある幻住庵に滞在。この惜春の頃には、芭蕉のために幻住庵の改修も行われていただろう。
この句は、近江国大津の俳人・江左尚白から、動く句であるとの指摘が入った句でもあるが、去来抄に、
先師曰、尚白が難に、近江は丹波にも、行春は行歳にも有べしといへり。汝いかゞ聞侍るや。去来曰、尚白が難あたらず。湖水朦朧として春をおしむに便有べし。殊に今日の上に侍ると申。先師曰、しかり、古人も此國に春を愛する事、おさおさ都におとらざる物を。去来曰、此一言心に徹す。行歳近江にゐ給はゞ、いかでか此感ましまさん。行春丹波にゐまさば本より此情うかぶまじ。風光の人を感動せしむる事、真成る哉と申。先師曰、汝は去来共に風雅をかたるべきもの也と、殊更に悦給ひけり。
と、芭蕉の考えが記されている。行く春に散る花を見て、近江荒都歌を感じたなら、動かし得ぬ句と言えるかもしれない。
いずれにせよ、春風駘蕩たる淡海の懐の深さ。帰る場所を失っていた芭蕉に手を差し伸べる近江の人々への、ほのぼのとした感謝の気持ちもくみ取れる。
▶ 松尾芭蕉の句
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義仲寺の句碑(滋賀県大津市)
行春を近江の人とをしみける木曾義仲や巴御前の墓所であり、芭蕉が葬られた義仲寺には、20もの句碑が立ち並ぶ。山門入って右の朝日堂前の句碑が「行春をあふミの人とおしみける」。
脇には芭蕉桃靑とあり、碑陰には「昭和三十七年五月十二日建之 芭蕉本廟義仲寺同人会」。芭蕉の270回忌記念で建立されたもの。境内にはその他にも、200回忌記念の「旅に病て夢は枯野をかけ廻る」、250回忌記念の「古池や蛙飛こむ水の音」の、芭蕉句碑がある。
芭蕉は、この義仲寺無名庵に、元禄2年(1689年)年末から翌年始にかけて滞在、一旦故郷・伊賀上野に帰り、3月中旬から4月頭まで滞在した。今も、無名庵の名を残す館が境内にある。
義仲寺境内南西隅には、近江での次の住処を提供した門人の曲翠(曲水)墓もある。享保2年(1717年)7月20日、悪家老とされる曽我権大夫を刺殺し、切腹して果てたという。
http://www.basho.jp/senjin/s0605-1/index.html 【望湖水惜春 行く春を近江の人とおしみける芭蕉(猿蓑・春・元禄三)】より
行く春を近江の人とおしみける (猿蓑・春・元禄三) この句は古来〈近江の人と〉という措辞が褒貶の要である。諸注は〈古人もこの国に春を愛する事、をさをさ都におとらざる物を〉(『去来抄』)という芭蕉の言葉を引いて、「行く春」と「近江」の結びつきの必然性を説く。すなわち、この地は天智天皇の飛鳥から遷都した大津京の地で、「近江海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ」(人麻呂・万葉・巻三)と詠まれ、最澄の開いた王城鎮護の比叡山の麓で、『源氏物語』の「早蕨」に「鳰の湖」と詠まれた琵琶湖がひろがり、また後堀河帝中宮に仕えた少将で晩年仰木の里に隠棲した「をのが音の少将」の歌「おのがねにつらき別れはありとだに思ひもしらで鳥やなくらむ」(藤原信実女・新勅撰)の故事があり、さらに恵心僧都建立の浮御堂、木曽義仲墓所の義仲寺、観音信仰で長谷寺・清水寺に並ぶ石山寺等にゆかり深い。だがそうした余情を「近江」と前書「湖水ヲ望ミテ、春ヲ惜シム」から推しはかるのは至難。よって近江門弟等への挨拶句の手本とはなり得ても、それ以上におだて上げる句ではない。