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「廃墟の美学」の発見者、柿本人麻呂

2018.04.08 04:08

https://textview.jp/post/culture/13507  【「廃墟の美学」の発見者、柿本人麻呂】 より

万葉集の第二期は、壬申の乱(672年)から奈良遷都(710年)まで。天武天皇から持統天皇・文武天皇を経て元明天皇の治世前期までの、約40年間を指す。歌人としては持統天皇・大津皇子・大伯皇女(おおくにのひめみこ)・志貴(しき)皇子などがすぐに思い浮かぶが「この時期を万葉歌の最盛期と見る人が多いのは、何といっても柿本人麻呂がいるからです」と歌人で早稲田大学名誉教授の佐佐木幸綱(ささき・ゆきつな)氏は指摘する。

*  *  *

第二期のみならず、万葉集最大の歌人とも言うべき人麻呂ですが、その生涯はまったく謎につつまれています。出自、経歴、生没年すべて未詳、人麻呂の名は万葉集にのみ登場するにすぎません。いくらかわかっているところを総合すると、天武朝(672~686年)には朝廷に出仕し、下級官人としての生活を送ったのち、奈良遷都(710年)以前に没したらしい。歌の情報から作歌年代がはっきりとわかる上限は持統三年(689。「日並皇子尊(ひなみしのみこのみこと)挽歌」巻二・一六七~一六九)で、下限は文武4年(700。「明日香皇女(あすかのひめみこ)挽歌」巻二・一九六~一九八)なので、持統朝から文武朝にかけて活躍したことは確かです。なお最近では、人麻呂は古事記・日本書紀の編纂に関わっていたのではないか、とする見方もあります。

謎につつまれた人、人麻呂は、しかし質量ともに圧倒的な歌を残しました。すなわち、九十首に近い長・短歌があります(人麻呂作歌。異伝歌などの数え方で、数は異なってきます)。また、これとは別に三百七十首近い歌を収めた「柿本人麻呂歌集」もあり、その何割かは人麻呂自身の作であろうと考えられています。

人麻呂作歌は、「宮廷讃歌」「皇子への献歌」「皇子・皇女の殯宮(ひんきゅう)挽歌」などから、「羇旅(きりょ)歌」「相聞歌」「行路死人歌」にいたるまで、非常に多岐にわたります。しかも、それらの歌が創意に満ちている。そのことから、抜群の言葉と歌の才をもって宮廷に仕え、宮廷社会が必要とする歌や宮廷人が望む歌を創作したプロフェッショナルな歌人、すなわち「宮廷歌人」とも呼ぶべき人だったろうと考えられています。

では、人麻呂の豊穣な歌の世界の一端にふれてみましょう。人麻呂が万葉集に初めて登場してくる歌、「近江の荒れたる都を過ぎし時、柿本朝臣人麻呂の作れる歌」(通称「近江荒都歌(おうみこうとのうた)」)。長歌の後半と二首の反歌です。これは、壬申の乱(672年)から十数年もたった持統朝の初期のころ、都であったのはわずか5年間、壬申の乱で灰燼に帰し廃墟となった近江大津宮を訪れた際に作った歌です。

…… ささなみの 大津の宮に 天(あめ)の下 知らしめしけむ 天皇(すめろき)の 神の尊(みこと)の 大宮は ここと聞けども 大殿は ここと言(い)へども 春草の 茂く生ひたる かすみたつ 春日(はるひ)の霧(き)れる ももしきの 大宮処(どころ) 見れば悲しも(巻一・二十九)

(……楽浪地方の大津の宮で天下を治められた天皇の宮殿は、ここだというけれど、御殿はここというけれど、春草の生い茂っている、霞がたって春の日ざしもおぼろに見える、荒涼としたこの宮殿の廃墟を見るとなんとも悲しいことだ)

ささなみの志賀(しが)の辛崎(からさき)幸(さき)くあれど大宮人の船待ちかねつ (同・三〇)

(楽浪の志賀の唐崎は近江京が栄えていた時代そのままにあるが、大宮人の舟は、いくら待っても、もうやって来ることはない)

楽浪(ささなみ)の志賀の大わだ淀(よど)むとも昔の人にまたもあはめやも (同・三一)

(楽浪の志賀の入江、この入江が昔のままに水をたたえていても、かつてこの地で船遊びをした大宮人にふたたびめぐり逢えるだろうか。逢えはしない)

一読しておわかりのように、琵琶湖の自然を背景に、打ちすてられて廃墟と化したかつての都を悲しんだ歌。日本詩歌史上で最初に廃墟を、あるいは廃墟を通しての懐古の美学を、作品化した歌です。人麻呂は、芭蕉の「夏草や兵(つはもの)どもが夢の跡」や滝廉太郎の歌曲「荒城の月」(詩・土井晩翠)などに見られる無常をうたう歌、廃墟を感傷する日本人好みの美学、の発見者だったわけです。

■『NHK100分de名著』2014年4月号より


https://www.manreki.com/library/kikaku/01haru-hitomaro/hazimeni/hazimeni.htm 【はじめに 柿本人麻呂とは - 高岡市万葉歴史館】より

はじめに

 柿本人麻呂は、『万葉集』を代表するのみならず、日本文学史をも代表する歌人である。

 天武朝に歌人としての活動をはじめ、続く持統朝には行幸に従駕して天皇を讃える歌を詠んだり、皇子たちに歌を捧げるなど、公の場で歌を詠むようになる。

 その持統朝とは、日本最初の都城である藤原京が営まれた時代でもある。人麻呂は藤原京の建設を目にし、そこで生活したことは間違いない。そして、平城京遷都を見ずに亡くなったと考えられる。

 このような人麻呂は、平安時代以降「歌の聖」として崇められ、やがて「歌の神」となる。

人麻呂が実際に生きた時代と、人々の中に人麻呂が生きていた時代を比較していただきたい。

柿本人麻呂

 生没年経歴等一切不明。

 『日本書紀』『続日本紀(しょくにほんぎ)』などの史書にその名は見えないが,『万葉集』に残された歌によって、持統朝から文武朝に活躍したと考えられている。『万葉集』の編さん資料のひとつとなった「柿本朝臣人麻呂歌集(かきのもとのあそみひとまろかしゅう)」には「庚辰(こうしん)年作」の七夕歌があり,天武9年(680)頃には歌を詠んでいたことはわかっている。

 歌の内容からその生涯はさまざまに語られているが,想像の域を出ていない。『続日本紀』和銅(わどう)元年(708)の記事に見える、従四位下(じゅしいげ)で没した柿本朝臣佐留は,人麻呂の近親者と想像されるが,その関係はまったくわかっていない。

 人麻呂は、神話の時代から脈々と続く歌謡の伝統と漢詩文の影響を統合したと言われる。そうした表現は、行幸に従った時の歌や皇子たちの死を悼んだ挽歌など,宮廷にかかわる長歌形式の儀礼歌に多くみられる。

 妻との関係を詠んだ石見相聞歌(いわみそうもんか・巻二・131~139)や泣血哀慟歌(きゅうけつあいどうか・巻二・207~216),さらに自らの死をめぐって詠まれた自傷歌群(じしょうかぐん・巻二・223~227)なども,宮廷サロン的な場の要請に応えてよまれた「物語」的な歌ともいわれている。

 経歴は不明ながらこうした歌が残っていたために,人麻呂の人生は平安時代初期から伝説化していったのである。

人丸神像

 現在「富山県民会館分館内山邸」として広く知られている旧内山家の敷地内には,昭和36年(1961)に台風で倒壊するまで,人丸像をまつった祠(歌神社)がありました。展示した「人丸神像」は,その人丸像の複製です。

 神社の創建は江戸時代の明和6年(1769)で,明和二年に内山逸峰(うちやまはやみね)が石見国高津の人丸明神まで参拝に行った折り,現地でもらいうけた柿の枝を京都で人麻呂像に彫らせてまつったのです。

 明和6年は,賀茂真淵(かものまぶち)が亡くなった年で,その名著『万葉考』は前年に印刷刊行されたばかりでした。

 すでに『寛永版本』や北村季吟『万葉拾穂抄』,契沖『万葉代匠記』などは世に出ており,明和8年の江戸滞在の折りのメモには,書店で見た値段が記されています。

 しかし,おそらく逸峰は,当時の「歌書」や「名寄(なよせ)」で『万葉集』の歌を読んでいただけであろうと考えられています。

 鴨山の 岩根の小松 

    我をかも 知らでや千代の 緑栄ん

 逸峰が記し残した人麻呂歌ですが,他のどの文献にも見られません。どこかでひとり歩きした人麻呂の歌なのでしょう。

内山邸人丸神像(複製)

内山逸峰著「草稿 西国道記」より

 逸峰が石見国の柿本神社に詣でた時の長歌および反歌には、逸峰の苦労する様子や喜ぶ様がこまやかに叙述され、人丸神像の由来が語られている。

  明和二つの年長月四日、石見国美濃郡戸田村、柿本御社にまうで奉りける時の短歌。御誕生所也。

はるばると 思ひ越路の 旅人の 海山多く 過渡り さはりもなきは 

千早振 神の助けに あらざらばいかでかはとぞ おもほゆる 

いでや名高き 石見のや 高角山の 神がきに 五日よるひる 宮籠り 

比しも秋の 半過 磯うつ波と 松風と 声うち添て よそならば 

秋の淋しみ 有べきを 所がらとて 我身には 只糸竹の 調べとも 聞なしぬれば 

うば玉の よるもすがらに たのしみの 心は更に よの人の 思ひはしらじ 

御姿を 拝まばやとて 思ひたち 己が宿りし 高角や ふもとの御寺 

朝霧と ともに立出 小松原 分行程に 朝彦も ほのぼの見えて 

秋ながら 影うららかに さしのぼる □□とかに はてしなき 浜の真砂路 

是や此 よむともつきぬ ことのはの 道のしるべや 

あし引の 山を南に 北はうみ もろこし迄も つづくなる 

うらもはるかに 思ひやる 心の内の ながめこそ 詞に出て 

よしあしを 何とか人に 石見潟 高角山に つづきたる 持石木阿弥 

ふた村を 越ゆればこれぞ 戸田の里 顕はれ出し 

御姿の 宮居いづこと 尋れば そことしられて かたらひが

家に立より 此神の をさなすがたを 拝まんと いへど中中 ゆるさねば 

かさねていたく たのみしに 秋田かる身の いとまなみ 

鶉衣を ぬぎかへて すがたそぞろに あらためて 鑰やうの物 取出し 

御社へゆき 御戸開き 拝めば高津に かはりなき 老の御姿 おはします 

わきにたたせ 給へるは 年の比ほひ 五か六つ 程にも見えて 

立すがた 此御神の いとけなき 御身をぞたて はごくみし 

かたらひふたりが すがたをも 作りすへつつ 

右左 わけてぞならべ 置にける 

さて夫よりも かたらひが 家に帰りて 筆柿を 一つたべよと 乞ければ

其柿の木は 昔より おのが苑にて 栄えしが 

近き頃より 枯にけり 其あとよりも ひこばへが 又生出て 若木ゆへ 

このみのことは 持あはず さらば何とぞ 筆柿の 枝のはつれも あるならば

えさせよかしと たのみしに わづか斗の 枝一つ 

あたへし事の うれしさよ 都に帰り 御すがたを 

きざみて世世に 敷島の 道の守りと 仰ぎ見んかも

    反歌

言の葉の 道栄えつつ 柿本 かたらひてゆけ 千とせ万代

かたらひが 垣の内に 御はかの 有を教へければ 拝み奉るとて

尋ねきて 何と言葉も いはみがた 名高き人の 奥の山ざと

たどりきて 袂も裾も 露草に 己がなみだや 置そはるらん