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天智天皇と大津京 史跡と伝承

2018.04.08 04:15

http://oumijingu.org/publics/index/112/  【天智天皇と大津京 史跡と伝承】 より

近江大津宮概説

大津宮中枢部復元模型

大津宮中枢部復元推定模型(右上は近江神宮前駅と錦織車庫)(大津市歴史博物館所蔵 『大津の歴史』より)

 天智天皇は、その6年(667)、斉明天皇の御時から都を置かれていた飛鳥岡本宮より、近江大津宮に都を移されました。それまでの多くの都が置かれた飛鳥近辺から離れたこの地ですが、ひとつには、大化の改新の理想に基づいた政治改革を行うために人心の一新を図ることを目的とされました。それとともに、同盟国であった百済への援軍を出して唐・新羅連合軍と戦った、4年前の白村江での敗戦後、本土侵攻への危機が深刻になったことから、国土防衛の根幹として、天然の要害であり交通の要衝でもある大津に遷都したものと考えられています。

 5年後に起った壬申の乱の敗戦によりわずか5年半の都に終ったわけですが、この短い期間に大津宮において画期的な新政治を推進されることになり、ひいては近江国・滋賀県の発展の基ともなりました。更にその後を受けた天武天皇は、壬申の乱で対峙したにもかかわらず、多く天智天皇の施策を受け継いでさらに発展させられました。それによって天智朝の意義もより大きなものとなったといえます。

 宮跡の所在については江戸時代より諸説があり、論争が続きましたが、昭和49年からの発掘調査により錦織がその中枢地区であることが確定的となりました。『近江名所図絵』(文化11年・1814)『近江名跡案内記』(明治24年)などに記された、大津京は錦織字御所之内にあったという伝えに基づいて、明治28年、この地に『志賀宮址碑』が建立されていましたが、あたかも碑の建立地は復元推定地の中心地であり、内裏南門の跡にあたります。碑のある場所から近江神宮に至る県道は、まさにそのまま大津宮のメインストリートの跡でもあるわけです。

 なお、一般に大津京といわれていますが、大津京の語は古い文献に表われていないこと、藤原京・平城京などのように大規模な条坊制をともなったものを京というのであり、大津宮は京といえる程の規模には達していないということなどから、大津宮というべきだとする学者が多いようです。一方、中心部の宮域内を大津宮といい、外延部まで含めた全体像を大津京とする考え方もあります。

近江大津宮錦織遺跡

大津宮錦織遺跡

 昭和49年、錦織2丁目の住宅地の一角で行われた発掘調査により、大規模な掘立柱建物跡の一部が発見されました。続いて昭和53年2月にこの建物跡に連続する柱穴が発掘され、錦織を中心とする地域が大津宮の所在地であったことが確実視されるようになりました。その後十数地点で調査が行われ、大津宮の建物の位置もほぼ確定して、その中枢部の構造も復原されるまでに研究は進展しています。昭和54年7月に国史跡に指定されました。

 昭和49年に発見された建物跡は、天皇の居所の内裏と政務を行なう朝堂院とを分ける内裏南門と想定され、復原すると東西7間と、南北2間で、その東西に掘立柱の複廊が付属しています。この門の北側が内裏、南側が朝堂院と考えられています。門の真北には三方を塀に囲まれた庇付きの建物の内裏正殿があります。この建物は、復原すると東西7間、南北4間の建物になると推定されています。

南滋賀町廃寺跡

南滋賀町廃寺跡碑

 大津京跡の探索の過程で発掘された、天智朝当時の寺院跡。国指定史跡。かつては梵釈寺とも考えられ、大津宮そのものに比定されたこともあります。文献には現われませんが、崇福寺・園城寺前身寺院・穴太廃寺とともに大津京をめぐる四大寺院のひとつと考えられています。昭和3年・13年の発掘調査により、金堂を中心に塔・小金堂・講堂を配し、廻廊と僧房で囲む、川原寺式の伽藍配置となっていることが明らかとなってきました。白鳳期に創建され平安時代まで存続したことが明らかとなっています。

崇福寺跡

崇福寺跡碑

 大津京の乾(いぬい 北西)の鎮めとして天智天皇の勅願により創建されたと伝えられています。『扶桑略記』『今昔物語』などに創建説話が掲載されています。「志賀の山寺」として、平安・鎌倉時代を通じて多くの都人が往来した志賀越え山中の名所でした。

  波にたぐふ鐘の音こそあはれなれ夕べさびしき志賀の山寺

                        藤原良経

 『扶桑略記』によると、天智天皇7年(668)の創建とされています。平安初期には、東大寺・興福寺・薬師寺などと並ぶ十大寺の一つとして朝野の信仰が厚く、弥勒信仰の聖地として繁栄しました。その後火災・地震等で焼失・倒壊と再建を繰り返しながらも国家的な保護・崇敬が続けられていましたが、鎌倉初期には園城寺の支院とされ、室町時代には廃絶に至りました。

 大津京探索の一環として昭和3年・13年に発掘調査が行われ、三か所にわたる尾根上に主要伽藍が築かれていたことが明らかとなりました。北尾根に弥勒堂、中央尾根に塔・小金堂、南尾根に金堂・講堂が推定され、周辺にも別の建物跡が発見されています。昭和13年からの発掘調査の際、塔跡の心礎孔中に仏舎利に見立てた水晶三粒が納められた舎利容器をはじめとする納置品が発見され、一括して国宝に指定され、近江神宮の所蔵となっています。(京都国立博物館に寄託してあります)

 なお近年、写真の碑のある南尾根の建物群は、桓武天皇が天智天皇追慕のために建立した梵釈寺跡とする説が有力となっています。

崇福寺創建の縁起と金仙の滝

金仙の滝

 滋賀里の西方山中にある崇福寺跡の谷筋に金仙滝と呼ばれる小さな滝と霊窟があります。この地は崇福寺建立にまつわる有名な伝説が残る地でもあります。『今昔物語』『三宝絵詞』などに以下のように伝えられています。

  天智天皇はかねて寺を建立したいと考えておられたが、そのことで願をかけたその夜、夢に一人の僧が現われ「乾の方角(北西)にすぐれた良い所があります」 と告げた。目を覚まして外をご覧になると乾の方角に光が輝き、あたり一帯を明るく照らし出していた。翌朝使いを遣わして光を放っていた山を訪ね、奥に分け 入っていくと深い洞窟があり、怪異な老人がいる。天皇は自らそこに行き老人を訪ねると、翁は「ここは昔仙人の住んでいた霊窟です。さざなみや長等の山 に・・・」といって消え失せた。そこで天皇はこここそ捜していた尊い霊地だと考え、ここに寺を建てることに決められた。

  翌年正月に崇福寺が建立され、丈六の弥勒の像を安置したが、その開眼供養の日、天皇は自ら右の薬指を切って石の箱に入れ灯籠の土の下に埋められた。寺を建 てるための整地の際、地中から三尺程の宝塔が発見されたが、昔アショカ王が多くの塔を建てた、そのうちの一つだと知らされ、いよいよ誓願を深め、そのしる しに指を切って弥勒に奉ったものである。

 後の時代になり、その寺の霊験まことにあら たかであったが、一般の人にはなかなか近寄り難かった。寺の別当が「この寺に人が参詣しないのはこの指のせいだ。掘り出して捨ててしまえ」といって掘らせ ると、たちまちに雷が鳴り風雨が激しくなった。掘り出したその指は、今切ったばかりのように鮮やかに白く光っていたが、まもなく水のように溶けて消え失せ てしまった。その後、その別当はほどなく狂って死んでしまった。その後は霊験もなくなっていったという。

榿木原(はんのきはら)瓦窯

榿木原瓦窯

 昭和49年から53年にわたる西大津バイパス建設にともなう発掘調査で、白鳳時代から平安時代にかけての瓦生産遺跡であることが判明しました。この遺跡は、笵(型)によって粘土から瓦を形づくる作業をする工房と、それから乾燥させた後で焼成する瓦窯とで構成されています。焼成した瓦は、すぐ東方の南滋賀町廃寺で使用され、一部は崇福寺へも供給されたものとみられます。

 瓦窯は、白鳳時代の登り窯5基、奈良時代末から平安時代中ごろの平窯5基が入り混じって3群をなしています。登り窯では、「サソリ瓦」と通称されている蓮華文方形軒瓦や複弁蓮華文軒丸瓦・重弧文軒平瓦・丸瓦・平瓦などが焼かれています。平窯では、流雲文で飾る軒瓦や鬼瓦、丸瓦・平瓦などが焼かれました。この瓦窯群のうち最も遺存状態の良好な登り窯1基は、バイパス建設で現地保存が困難なため、そっくり切り取り、原位置から北方約25メートルのバイパスと主要地方道下鴨大津線の間の斜面に移して保存され、近くで見ることができます。

 工房跡では、長大な掘立柱建物跡が重複して6棟検出されています。7世紀後半から8世紀初めころのもの2棟、8世紀前半ころの1棟、9世紀前半以降の3棟の3期に区分されます。

金殿の井

 天智天皇が病床にあられたとき、重臣であった中臣金の夢に、都の西方の大木の根から湧き出る清水を汲んで天皇に奉れとのお告げがありました。そこで中臣金が宇佐山(近江神宮裏手の山)山中に分け入ると、お告げどおりの泉があり、さっそく天皇に飲んでいただいたところ、病気はたちどころに快方に向ったということです。そこで、この泉を「金殿井」と名付けて賞賛しました。

 後に源頼義が宇佐山山中に宇佐八幡宮を建立したとき、この泉の水を人々に拝受させ、霊験があったと伝えられています。この神水は諸病に功験があり、特に8月初旬の土用の日にいただくと特に効き目があるといわれています。現在も霊泉祭が行われています。

 近江神宮境内の井戸や手水の水も、かつてはこの神水につながる山の水でしたが、西大津バイパスの宇佐山トンネルの開通後、水脈が断たれたためか、あまり水が出なくなりました。