東京 (07/04/21) 江戸城 (20) 内曲輪16門 / 内濠 (3) 靖国神社
- 靖国神社
- 富士見坂
- 御厩谷 (おんまやだに) 坂
- 佐野善左衛門宅跡
- 東郷元帥記念公園、東郷坂
- 御本丸大奥石碑
- 帯坂
- 三年坂
- 文人通り、与謝野鉄幹晶子旧宅跡
- 行人坂
- 方眼坂
- 南方眼坂
- 袖摺坂
- 滝廉太郎住居跡
- 五味坂
- 永井坂
- 正和坂、正和新坂
靖国神社
昨日後半に訪れた靖国神社の残りを見学する。靖国神社に来るのは初めてだ。東京に30年以上も住んでいたが、ここを訪れたことはなかったが、沖縄に住んで、沖縄の人たちの第二次世界大戦のとらえ方には衝撃を受けた。それがきっかけで、本土の人たちや、特に日本政府がどのようにこの戦争を考えているのかのヒントが得られるのではと興味を持った次第。
戊辰戦争終戦後の1868年 (慶応4年) に、東征大総督有栖川宮熾仁親王が戦没した官軍将校の招魂祭を江戸城西丸広間において斎行、太政官布告で京都東山 (霊山護国神社) に戦死者を祀ることが命じられ、京都の河東操錬場において神祇官による戦没者、殉死者を慰霊する祭典が行われる等、幕末維新期の戦没者を慰霊顕彰する動きが活発であった。そのために招魂社創立の動きも各地で起きていた。これを背景に大村益次郎が招魂社を創建することを献策し、明治天皇の勅許をもって1869年 (明治2年) にこの場所に仮神殿にて東京招魂社が創建された。当時の軍務官知事仁和寺宮嘉彰親王を祭主に戊辰の戦没者3,588柱を合祀鎮祭をおこなった。本殿はその後1872年 (明治5年) に竣工した。当時の東京招魂社は軍が管轄しており、一般の神社とは異なる存在であったことを憂い、1879年 (明治12年) に別格官幣社列格として靖國神社となり、神社行政を総括していた内務省が職員の人事権を有し、内務省と陸軍省・海軍省によって共同管理されていおり、相変わらず神社としては特殊な存在ではあった。戦後、GHQは靖国神社の存続については相当悩んでいたが、ソ連を中心とした共産主義国家に脅威を感じ、靖国神社の存続容認に傾いた。政教分離政策により靖国神社は国家管理を離れて宗教法人となり日本政府との直接的な関係は無くなったが、様々な批判がある。今回の訪問では一つ一つの施設を見学しながら、この靖国神社と政府および遺族、その他の国民の関係を考えていく。個別の施設に対しての感想はその訪問記で述べる。
全体的な感想は以下の通り (あくまで私見)
- [靖国神社の創建の趣旨と目的は何であったのか?] 招魂とあるがこの意味は「死者の霊をまねいて祭ったり鎮めたりすること」鎮魂と慰霊と近いが、祀る点が異なる。祀るとは神としてあがめる事になる。鎮魂や慰霊とせず招魂としたのは政治的な意味があったのではないだろうか?戦死者を尊いものとする必要があったのだろう。国民が国のために戦い戦死することは国として神とあがめられ神聖なものと考える政治的背景があったと思われる。そのために逆賊とされた戊辰戦争や西南戦争といった内戦での戦死者は祀られていない。これはこの靖国神社が国民の立場ではなく国家の方針に沿って創建されていることを現わしていると思う。鎮魂や慰霊は靖国神社総研以前にも敵の戦死者に対して行っている事例がいくつもある。
- [何故神社がこの招魂に使われたのか?] 明治以降、神道が国の宗教とされ。神仏分離で国家神道として格上げされている。天皇は神武天皇の子孫という政治的な思惑で中央集権国家を造っていた。仏教寺院や無宗教施設ではなく神社を選んだのはこの背景があるだろう。戦死者を神として崇高な存在に祭り上げるには多神教で神格の曖昧な神道が最も適していた。
- [戦没者遺族はどう思っているのだろう?] これについてはそれぞれの遺族で異なっているだろう。ここに祀られることは国が戦死を国家への貢献と認めたことに対してありがたく思う人。反対に祀られなかった遺族は憤慨していることもあるだろう?政治的なことは別として戦没者の慰霊の場として考えている人。中にはキリスト教徒もいるだろうと思うが、その戦没者が神として祀られていることは信仰上受け入れられないこともあるのではないだろうか?実際に仏教徒やキリスト教徒が信仰の自由の憲法違反や人権侵害として訴訟も起こっているが、最高裁は原告の主張は認めなった。逆賊としてここに祀られなかった遺族は国の対応に不満があるかもしれない。
- [なぜ民間人の戦没者は招魂の対象からはずされているのか?] これは国として祀る対象ではないと考えていたことを現わしている。本来、鎮魂や慰霊であればすべての戦争による犠牲者に対して行うのが自然だが、軍人のみ対象でその軍人戦没者の中でも国家の為に戦ったという審査がある。海外に派遣されたり、災害支援などで殉死した自衛隊は対象外だ。理由は日本国のために戦争で戦い戦死ではないからだ。警察官も対象ではない。戦前はこの審査は政府機関が行っていたが、戦後は靖国神社が行っている。1960年代には、中国韓国から靖国神社の存在が批判され、民間人や逆賊とされている戦死者も合祀しようとの動きもあったが、実現しなかった。この状態は現在でも続いている。第二次世界大戦での日本人の死者は約310万人でこのうち民間人戦没者は約80万人で、国として決して無視できない数字だが民間人も含めた慰霊場は国としては存在しない。各地方が個別にその地区の戦没者の慰霊祭を行っている。
- [A級戦犯が合祀されている事] A級戦犯の合祀は当時の靖国神社の宮司が強引に進めたとされている。昭和天皇はこれには反対の立場を以前から示していたにも関わらずその意向はむしされ、不快感を表し、それ以降天皇は靖国神社に来ることはない。それは平成天皇、令和天皇も同じだ。本当に靖国神社の宮司の一存で行ったのだろうか?裏には政界、経済界、右翼団体のはたらきがあったと思う。これは明らかに政治的な背景がある。このことが中国と韓国からの批判を更に強める原因にもなっている。日本の神道という風土にはなじみがない外国にとっては、戦死者、更に戦犯をも国として神として祀っていることは、戦争を肯定していると考えられても仕方がない。勿論、中国と韓国も神道の性格を知ってはいるが、中国国民、韓国国民にはそのような背景を説明する必要もなく、この両国政府も政治的に外交の材料として使い、両国民の感情を操作しているとおもう。
- [なぜ政治家は批判されても参拝を続けるのか?] これは個人の自由で参拝しようがしまいがどうでもよいことなのだが、慰霊であればここに行かずともできるはずだ。高校野球の甲子園では終戦日には黙祷を行う。これも立派な慰霊だ。わざわざ行くのは、政治家としてのPRもあるだろう。これも政治利用と考えられる。
- [そのほかの靖国神社参拝] 慰霊の大祭の日には色々な団体が参拝に来る。元兵士たちが同窓会の大切な行事として来ている。この人たちは戦時中、戦地に赴く際には仲間たちと「次は靖国で会おう」と死を覚悟していた。生き残った者が戦死した戦友の慰霊に来る。純粋な思い出の事だ。また別の団体は戦闘服を着、手には軍旗として使われていた旭日旗を振り回し訪れる右翼団体。国のために戦死した人を参拝するのは国民としての義務と考えている。とは言いながらそのいでたちやパーフォーマンスはさながらお祭りの仮装行列に似ている。これも個人の自由と言えないこともないのだが....
- [靖国神社は戦争のない世界を求める場になっているか?] これについては個人的意見では残念ながら「なっていない」と感じた。広島や長崎の原爆博物館や沖縄糸満のひめゆり平和祈念資料館を訪れた際に受けた衝撃はこの靖国神社では感じられない。三つの施設ではこれでもかというほど戦争の悲惨さを訴えている。施設の周りには多くにボランティアによる語り部がいる。とにかく訪れた人たちに訴えるものがある。反対にこの靖国神社にはそれがない。これは残念なことだ。
- [その他感じたこと] これも個人的な感想だが、靖国神社は歴史的に政府が上から目線で戦没軍人を神として祀ってやるという動機から始まっているように思える。勿論このような言い方ではなかっただろうが、政府として戦没者に対して何らかの肯定的な姿勢を現わす必要があり、政治的に作られている印象がある。それが修正できないまま今日まで続き、それぞれの国民がそれぞれの想いや解釈で靖国神社という存在を見ている。個人の想いや解釈はどんなものであれ尊重すべきだ。しかし、日本政府や靖国神社の対応は国民目線で考えられていないように思えた。ただ、この靖国神社の存在が戦争に対しての考えの議論をもたらす要因になっていることもよくも悪くも確かだ。
靖国神社の案内書に沿って見学していく。
第一鳥居 (大鳥居) が靖国神社の入り口。創建50周年を記念し、1921年 (大正10年) に造られた。建造時には、日本一の大鳥居だった。老朽化で1943年 (昭和18年) に撤去され、1974年 (昭和49年) に再建されたものが現在の鳥居。鳥居をくぐると右手に「慰霊の庭」と「憩いの庭」がある。慰霊の庭には神社でよく見かけるさざれ石 (右下) が置かれている。
慰霊の庭には戦後75年に造られた「家族の像 (左上)」、撤去された初代大鳥居の門柱 (右上)、日露戦争で降伏を拒否し撃沈された常陸丸殉難記念碑 (右中)、戦没者に水を捧げる母親のイメージで造られた「慰霊の泉 (右下)」、旧日本軍の激戦だった硫黄島、沖縄、コレヒドール島、レイテ島、グアム島などから収集された石が「戦跡の石 (左下)」として展示されている。憩いの庭には戦争で夫を亡くした日本遺族婦人会が昭和38年に制定された戦没者の妻への給付金を記念して寄贈した時計塔 (左中) がある。給付金の支給が終戦から18年も経てからで、この間の戦没者の妻たちの苦労は並大抵のものではなかっただろう。
慰霊の庭には47都道府県それぞれで桜の花びらをデザインしたさくら陶板が展示されている。靖国神社総研150年を記念して作られている。これを設置した趣旨はよくわからない。47個あり、デザインが違うので見て回るには楽しいのだが、慰霊場として何を伝えたいのだろうか?
第一鳥居から第二鳥居に向かう参道の中心に大村益次郎の銅像がある。近代日本陸軍の創設者の大村益次郎は靖國神社の創建に尽力したことで、1893年 (明治26年)、日本最初の西洋式銅像として建てられている。
第二鳥居が見える。創建 (1869年 明治2年) から18年後の1887年 (明治20年) に建てられ、青鋼大鳥居とも呼ばれ、靖国神社境内に4基ある烏居の中で最も古いもの。青銅製の鳥居としては日本一の大きさだそうだ。第ニ居は、笠木に反増と呼ばれる湾曲が付いていな「神明鳥居」の一種で、部材の断面はすべて円形または楕円の「陵墓鳥居」に分類される。陵墓鳥居は天皇陵や古墳の鳥居として比較的よく見られる形で神社では珍しい形。
靖国神社への入り口は第一鳥居、第二鳥居の他に二つあり、その一つが駐車場に入るところにある石鳥居で、1933年 (昭和8年)、明治時代に製糸業から発展した片倉財閥の二代目片倉兼太郞によって寄進されている。片倉財閥は世界遺産になっている富岡製糸所の筆頭株主でもあった。写真を撮り忘れたので、インタネットから拝借した。
第二鳥居を入ったところにある神門は1934年 (昭和9年) に第一徴兵保険株式会社が献納した門。門扉には天皇家の御紋の十六菊花紋章が付いている。靖国神社の前身が明治天皇の意向で建てられた「招魂社」で「別格官幤社」だったので、その後もこの紋章が使われているのだろう。別格官幤社は国家に貢献があった人物を祀っている神社を明治政府が選び28社をこの格付けをしたもの。楠木正成の湊川神社、徳川家康の東照宮などがあるが、いずれも歴史上の偉人で、戦死者246万余柱を祀った靖国神社は少し異質な別格官幤社だ。もう一つ靖国神社の特殊性が創建以来、神社庁 (現在の神社本庁) に属していない事。神社庁ができたときには全国の神社がこの神社庁に属したが、この靖国神社は除外されている。政府がこの靖国神社を他の神社とは異なり国家護持を目指す特殊なものと考えていたからだろう。
神門の手前には大手水舎、門をくぐると広場になっており、そこには斎館、能楽堂がある。
斎館は天皇皇后が行幸啓の際に休憩所として使われる場所で、この館の扉が開くのは、春と秋の例大祭で勅使が使用する時を含め、年5回の祭典だけ。1988年にA級戦犯が靖国神社に合祀された後には天皇は靖国神社への参拝は途絶えている。ということは長い間この斎館の本来の役割はなくなったということか? 昭和天皇はA級戦犯の合祀には反対であったが、当時の靖国神社宮司が政府の後押しもあり強行している。A級戦犯の合祀については賛否ある。それぞれの思想や立場で意見が異なるのだが、靖国神社がここに祀る軍人の決定権を持っている。一つの民間宗教法人であるから、それはそれで一理あるのだが、この靖国神社の前身の招魂社の設立以来の歴史的背景を見ると、天皇家や日本政府の機関として国家としての戦没者の慰霊の目的であった。始まりは戊辰戦争、そののちには西南戦争、日清戦争、日露戦争、そして第二次世界大戦の戦没者になっている。靖国神社が一民間宗教法人になってから、靖国神社の性格が変わっていっているのだろう。
大手水舎と能楽堂もあるのだが、これには違和感がある。普通の神社であればこの二つは自然なのだが、神を拝むために身を清めるのが手水舎で、1940年 (昭和15年) にアメリカに在住する日本人の方々から奉納されたもの。靖国神社では戦没者246万6千余柱が神とされ拝む対象となっている。能楽堂も神に能を奉納する場所だ。この能楽堂は1881年 (明治14年) に芝公園に建てられたものを、1903年 (明治36年) に靖國神社に移築したもの。戦没者246万6千余柱に能を奉納しているのだろうか?ここで感じたのは、戦没者の慰霊場が当時の国家神道のもとで神社に置かれ、国を守る為に戦死した軍人を神格化されている。これは慰霊の為になされたのか、それとも戦争での戦死を崇高なものと位置づける目的だったのだろうか?おそらく二つの目的の議論の結果なのだと思う。遺族にとっては、慰霊のためにここを訪れているはずだ。政府や一部の右翼団体はまた異なる意味合いでここを訪れているのだろう。戦後、靖国神社を廃して、宗教色を取り除いた慰霊碑の建設が議論されたことがあるが、既に100年近くの歴史もあり、世論の意見がまとまることはなく、靖国神社が戦没者の慰霊場所として継続している。
神門の広場の先に4つ目の中門鳥居があり、そこを入るとは1901年 (明治34年) に建てられた入母屋造の拝殿がある。中門鳥居は元々は1975年 (昭和50年) に奉納された檜の鳥居だったが、現在の鳥居は2006年 (平成18年)、日蓮系、法華系の新興宗教団体である佛所護念会教団によって献納されたもの。これにも少し違和感がある。一般の参拝はこの拝殿で行われる。
拝殿の横には参集殿があり、個人や団体で正式参拝の受付や控え室、朱印所となっている。
拝殿の奥には神明造の本殿があるのだが、奥にあり参集殿で昇殿参拝や諸祈願参拝などを申し込まないと見ることはできない。靖国神社のホームページから創建当時と現在の写真を借用した。1869年 (明治2年) に創建された靖国神社の前身である招魂社の本殿として1872年 (明治5年) に造られたもの。当時は拝殿や大鳥居などはなく、古写真にあるような簡素なものだった。
本殿の奥には1972年 (昭和47年) に建てられた霊璽簿奉安殿があり、合祀された御霊の霊璽簿を納めている。ここも立ち入りはできず裏の庭園からも木々で見ることはできなかったのでインタ^ネットから写真を借用した。
靖国神社には、神門、南門、北門と3つの門がありのだが、北門はケートだけで現存せず、建造物としての門は神門と南門のみ。ここは靖国通りに面した南門。南門を入ると中門鳥居への道がある。
南門を入ってすぐの所に練兵館跡がある。幕末期江戸三大道場の一つで、神道無念流の斎藤弥九郎の剣術道場がここにあった。(江戸三大道場の残りは千葉周作の北辰一刀流玄武館と桃井春蔵の鏡新明智流士学館)練兵館は1826年 (文政9年) に九段坂下の俎板橋付近に始まり、桂小五郎は、この練兵館の塾頭、師範代を務めていた。1838年 (天保9年) に類焼し、この地に移っている。1871年 (明治4年) に招魂社の敷地になった事から、牛込見付に移転している。
南門を入ると拝殿、本殿を囲んで庭園になっている。練兵館跡の隣に木の鳥居がある。この中は招魂齋庭なのだが、以前、放火事件が起こり警備上の理由で入れなくなっている。奥に祠がある。この祠は幕末明治維新で斃れた46人の志士の霊を祀るため同士により京都に建てられたものを1931年 (昭和6年) に靖国神社に奉納、この場所に移された。国を守るため生命を捧げた志士を祀っているという靖国神社の精神の前身となったことから、元宮と呼ばれている。元宮の向かって左にもう一つ祠が見えるのだが、遠く、木々の陰ではっきりしない。この祠は鎮霊社で、神社の案内では戦争や事変で亡くなり、靖國神社に合祀されない国内、及び諸外国の人々の慰霊のために、1965年 (昭和40年) に建てられたとある。この鎮霊社は靖国神社をどう位置付けるかの議論が激しかった1960年代に当時の平和運動に従事していた宮司が敵味方なく戦争で斃れたが靖国神社本殿では祀られていない戦没者の慰霊顕彰の為に祠を強引に造った。ここには戊申戦争で賊軍になった会津藩士や西南戦争の賊軍であった西郷隆盛、湾岸戦争で亡くなった諸外国の犠牲者などが祀られている。ここには当時の混乱ぶりがあらわれている。西郷隆盛など賊軍兵士は国の敵として靖国神社には祀られておらず、これも当時の議論の焦点であった。多くの反対で靖国神社で正式に祀ることはできず、このような別の祠で妥協となった。また靖国神社が太平洋戦争を正当化しているとの批判から世界中の戦没者を祀ることで、靖国神社の平和志向を印象付ける狙いもあった。中途半端な形で造られた鎮霊社ではあるが、靖国神社や政府関係者の意識と規定変革のきっかけになることを期待した人もいたが、一般参拝はなく、年に一回宮司のみで祭礼が行われている。現在では靖国神社ではあまり触れられたくない場所の様だ。時代によって歴代の宮司の考え方も大きく異なっている。靖国神社は外部だけでなく内部での色々と論議があるようだ。元宮と鎮霊社のはっきりした写真 (写真下) はインターネットから借用。
本殿の裏手のある庭園には幾つかの史跡があった。説明板のないものもあったが、この二つには解説がついていた。一つは海軍経理学校正門敷石が置かれている。海軍経理学校と言えば築地にその跡地の石碑があったが、この靖国神社にも海軍経理学校があったのだろうか? 浴恩会 (海軍経理学校同窓会) の解説を読んでも、調べてもここにあったとは書かれていない。であればなぜここに築地の海軍経理学校正門の敷石をここに展示しているのだろうか? もう一つは守護憲兵之碑がある。1945年 (昭和20年) の東京大空襲の戦火が靖国神社に迫った際に神殿を挺身護持した憲兵だったことから、ここで災害から救った憲兵のみならず、異国の戦線に散華した幾百万の英霊と、冤罪で斃れた同僚憲友を顕彰し、1969年 (昭和44年) に、全国憲友会連合会より奉納されたもの。この二つのモニュメントは生き残った戦友たちのものだ。戦争色が強いと批判するのは簡単だが、この戦友たちは戦地に赴く際に「次は靖国で会おう」と言い各地に赴き散っていった。当時兵士にとって自分たちの人生に納得させるためにこの靖国神社は大きな意味があった。確かに、靖国神社がそのように兵士達の洗脳に政治利用されていたことは確かだが、兵士たちにとっては靖国神社の存在は大きい。
靖国神社の北西部分は明治の初めに造られた回遊式の神池庭園になっている。庭園には裏千家茶室の行雲亭 (写真右下)、その後、それぞれ958 (昭和33年)、1961年 (昭和36年) 建造の靖泉亭 (写真左中) と洗心亭 (写真右中) の茶室がある。
神池庭園の隣には靖國教場 啓照館なるものがある。もともとは1938年 (昭和13年) に相撲場脇に力士控室である支度部屋だったが、老朽化で建て替えられ、従来の支度部屋だけでなく、研修、講演等多目的施設となっている。この奥には相撲場があり、1869年 (明治2年)、靖國神社の鎮座祭で大相撲が奉納され、それ以来、春の例大祭の際に大相撲力士による奉納相撲が行われている。
啓照館の前にある到着殿は、軍人勅諭下賜五十年記念として1933年 (昭和8年) に建てられ、皇族や華族など要人や、地方から訪れた戦没者遺族、海外からの要人などの参拝控室として利用されてきた建物で一般には公開されていない。
靖國会館は、陸軍省により、国民の軍事知識普及の目的で、遊就館の付属施設として1934年 (昭和9年) に建てられ、戦前は國防館と呼ばれ、近代戦のジオラマや兵器などが公開され、室内射撃場や爆撃機のシミュレーターや二ュース映画を上映する講堂などがあったそうだ。戦後は靖國会館となり、1階は偕行文庫 (1999年 平成11年) 2階は貸室となっている。偕行文庫は旧日本陸軍の将校たちの社交、互助、学術研究の場として、1877年 (明治10年) に設立された偕行社からきている。終戦により一時解散したが、戦後1952年 (昭和27年) には旧軍人の親睦会として再発足している。靖國会館には三基の大砲が展示されている。
靖國会館と遊就館の前の広場
靖國会館と遊就館の前の広場には、特攻勇士の像、戦没馬慰霊像、軍犬慰霊像、鳩魂塔、戦争未亡人の姿を描いた母の像、海防艦とその乗組員を顕彰する海防艦顕彰の碑などが置かれている。
遊就館は戦争博物館で一階のフロア―には靖国神社が購入し再現した三菱零式艦上戦闘機五ニ型 (ゼロ戦 写真右上) や長射程、戦後、洞窟内から発掘された大威力の八九式十五糎加農砲 (写真右下)、 これも沖縄戦で使われた九六式十五糎榴弾砲 (写真下中)、太平洋戦争中タイで泰緬鉄道を建設使用され、戦後はタイ国有鉄道で使用され、引退後譲り受けた泰緬鉄道C56型31号蒸気機関車 (写真左下) が展示されている。
一階ホールより中は有料の戦争博物館になっている。今日は昼食から夕食まで予定があり、博物館を見る時間がないので、次回東京に来た時に見学しようと思う。インターネットにはかなり詳しく展示内容が出ている。入館料が1000円と少し割高だが、どのような展示内容なのか? 何を伝えたいのかには興味があるのでぜひとも見てみたい。インターネットの案内では、通常の戦争博物館の様に思える。どうも、広島や長崎の原爆博物館や沖縄糸満のひめゆり平和祈念資料館のように戦争の悲惨さを伝え、平和を訴えるようなものではなさそうだが、これは見た後で判断すべきと思う。
- 展示室 1 武人 (もののふ) のこころ 武士の姿と精神を和歌、武具、武器などを展示
- 展示室 2 日本の武の歴史 日本刀や甲冑などの武具、武器を展示
- 展示室 3 明治維新 黒船来航、安政の大獄、桜田門外の変、戊辰戦争などの資料/史料
- 展示室 4 西南戦争 西南戦争、の士族の乱、五箇条の御誓文や文明開化の資料/史料
- 展示室 5 靖國神社の創祀 靖国神社が創立するまでの経緯や靖国神社草創期の様子
- 展示室 6 日清戦争 日清戦争、下関条約、三国干渉、義和団の乱の遺品や資料/史料
- 展示室 7 日露戦争バノラマ館 日清戦争終結から日露戦争/日本海海戦迄の映像
- 展示室 8 日露戦争から満州事変 第一世界大戦、満州事変、上海事変の資料/史料
- 展示室 9 招魂斎庭 御羽車の神輿の展示、招魂祭が再現
- 展示室 10 支那事変 盧溝橋事件、支那事変、ノモン八ン事件の経緯の解説
- 展示室 11-15 大東亜戦争 太平洋戦争に関する資料/史料
- 展示室 16-19 靖国の神々 祀られている太平洋戦争の戦没者の遺品や遺書の展示
- 1階 大展示室 艦上爆撃機、戦車など兵器や砲弾、遺品や遺書などの戦跡収集品の展示
旗本屋敷
内濠に架かる田安門から桜田門の間の外郭に広がる武家屋敷はそれ以外の大名屋敷と比べて敷地は狭く多くの武家屋敷が密集している。ここには主に譜代の旗本の屋敷にあたる。この場所は有事の際に江戸城の将軍が半蔵門から八王子に避難するルートを警護する為、外様大名ではなく、徳川家の浜松城、駿府城時代からの元々の家来筋を住まわせていた。これから、この地域を巡る。
富士見坂
靖国神社の北側の塀に沿って西に下る坂で、富士山がよく見通せることから、町名とともに坂の名になっていた。
御厩谷 (おんまやだに) 坂
靖国神社から千鳥ヶ淵方面に伸びる大妻通りには南に下りそして上る御厩谷 (おんまやだに) 坂がある。昔、徳川将軍家の厩舎があったことから、この名がついている。
佐野善左衛門宅跡
御厩谷 (おんまやだに) 坂を北から下った途中、大妻女子大学の前に史跡案内板がある。今日は入学式なのか多くの学生が集団で出入りしている。学生たちが通り過ぎるのを待って案内板を見ると、佐野善左衛門宅跡とある。佐野善左衛門は老中 田沼意次の息子で大(若?) 年寄だった田沼意知を1784年に江戸城中之間において斬りつけ、田沼意知は傷がもとで一週間後に死去した。佐野政言も翌日切腹を命じられた。この旗本の佐野善左衛門政言の邸宅跡だそうだ。当時の田沼意次の政治は不人気で殺害した佐野善左衛門を称賛する声が多かったという。27歳で切腹し、お家断絶となったが、世間の人々からは「世直し大明神」とあがめられたと伝わっている。
東郷元帥記念公園、東郷坂
御厩谷 (おんまやだに) 坂にあった佐野善左衛門宅跡から西に移動し九段小学校の隣に東郷元帥記念公園がある。現在工事中で公園の半分は閉鎖されていた。この公園はかつて東郷平八郎元帥の邸宅があった場所。公園に沿って北から下る坂は東郷坂と呼ばれている。
御本丸大奥石碑
東郷坂を登り切った所を更に西に進むと石碑がある。以前ここにあった民家の庭園に置かれていたものだそうだ。石碑の銘文では、江戸城大奥の繁栄を願い、1847年 (弘化4年) に造られたと書かれている。当時この場所を武家屋敷として拝領していた人物がこの石碑に係わっていたのかや、石碑がなぜここにあるのかは不明。後世に庭園を造る際に庭石として持ち込まれたと推測される。
帯坂
御本丸大奥石碑から少し西に行くと北の外濠へ下る坂がある。帯坂と呼ばれている。お菊が髪をふり乱し、帯をひきずりながらここを通ったという伝説に基づき名がつけられたそうだ。
三年坂
外濠沿いを進み五番町に入ると南に上る緩やかな坂がある。三年坂という。三年坂で転ぶと三年以内に死ぬとか、転んだら三回念仏 (三念) を唱えないといけないとか言われていた。
文人通り、与謝野鉄幹晶子旧宅跡
麹町大通りと大妻通りをつなぐ通りは番町文人通りと呼ばれている。この通りには明治から昭和にかけて島崎藤村、泉鏡花、有島武郎、与謝野晶子・鉄幹、藤田嗣治など多くの作家、文学者が住んでいました。今も静かな住宅街で、緑も多く都内でも人気のある住宅街なのだろう。この通りの一画に歌集「みだれ髪」でデビューした歌人与謝野晶子 (1878-1942) と夫nの雑誌「明星」を主宰した与謝野鉄幹 (1873-1935) が明治44年から4年間ここで暮らした住居跡の案内板があった。
行人坂
文人通りを進んで、先ほど訪れた東郷坂がある通りの南に出る。東郷坂方向に下る坂が行人坂と呼ばれている。この通りは江戸古地図では方眼坂と書かれているが、別の資料では北側の坂を行人坂、南の坂を南方眼坂と書かれていた。昔、某法印と称する行人がこの辺りに住んでいたことから名付けられたとあり、法印坂とも、法眼坂とも呼ばれていた。南法眼坂、行人坂、東郷坂は、南北に続く上がり下がりの坂道で、古くはこの坂道全体を法眼坂と呼んでいた。これで古地図の方眼坂と書かれていた理由が分かった。
南方眼坂
方眼坂の南の坂だ。斎藤法眼という人の屋敷がこの坂のきわにあったので方眼坂と呼ばれ、ここはその南側の坂なので南方眼坂といわれている。
袖摺坂
南方眼坂から一番町交差点にでて、そこから北への道が袖摺坂。今は広い道路なのだが、昔は幅が狭く、行き交う人々の袖が触れ合ったことから名付けられたといわれている。
滝廉太郎住居跡
袖摺坂を登った一番目の交差点の場所は滝廉太郎が、明治27年~34年まで住んでいた場所があり、記念碑と案内板が置かれている。
五味 (ごみ) 坂
滝廉太郎住居跡がある交差点から東に下る坂がある。五味 (ごみ) 坂と呼ばれている。「ごみ」は五と二の転訛だそうだ。元は光感寺坂といっていたものが転訛して甲賀坂になったとも書かれている。五味坂は読みは同じだが芥坂、埃坂などとも表記されている。江戸古地図では芥坂とあった。
永井坂
一番町交差点に戻り、先ほどの袖摺坂とは反対側の南への坂がある。昔この坂道を挟んで二つの永井姓の武家屋敷があったことから永井坂と呼ばれている。
正和坂、正和新坂
麹町小学校の北側を一番町の境まで下る坂がある。太平洋戦争中にこの地域に正和会という隣組があったことなどが坂の名の正和坂 (写真左) の由来ではないかといわれている。麹町小学校の東側の坂は正和新坂 (写真右) と呼ばれている。二つの坂との江戸時代の通りと一致しているので、昔からあったのだろうが、坂の名称は昭和時代につけられている。
今日は昼食を前職の部下二人とすることになっており、ここで史跡巡りは時間切れとなった。昼食の後も話が続き4時になっていた。夕食は一年前に知り合った慶応大学の通信講座で教員資格取得を目指している大森さんと蒲田ですることになっている。ここから蒲田までは約20キロあるので、自転車では1時間半の距離。史跡を見る余裕はないので、そのまま蒲田に向かう。蒲田は東京都庁の影響が小さいのか、多くの飲食店は深夜まで営業している。我々も夜10時半まであっという間に過ぎてしまった。大森さんはもう一軒行きたいと言っていたが、帰りも一時間半の行程なので、次回にしましょうということで帰路に着いた。ホテルに着いた時には既に日付が変わっていた。今回の史跡巡りも明日一日を残すだけになった。