学問は尻から抜ける
https://blog.goo.ne.jp/gooksky/e/b46c4e1bd88311766f541eed77d55794 【学問は尻から抜ける】より
天声人語コラム子が季節違いを許していただければ、と書き出して、何だろうかと、冒頭の句に行き当たる。
蛍かな、あたりまえに蛍のことかと思うが、待てよと、夏の季語で云々。
むかしむかし、中国の晋の時代に、車胤しゃいん という人は、蛍の明かりで夜まで勉強した、孫康こう という人は、雪の明かりで夜まで勉強した、蛍雪の功、 と言うものだが、この蛍を季語にとったか、蕪村であるからには
・・・晉車胤字武子、南平人。恭勤不倦、博覽多通。家貧不常得油。夏月則練囊盛數十螢火、以照書、以夜繼日焉。
この出典は、蒙求、孫康映雪 車胤聚螢 である。
学問は尻から抜けるほたる哉 江戸時代の俳人、与謝蕪村の一句。
しりから抜ける、見聞してもすぐに忘れてしまう、尻抜けであること。
コラム子は成人力調査のことを思い合せ、体中の穴から抜けていく自らの思いを励ましている。
ニュースからの話題で、国際成人力調査のネーミングも首をひねってしまったのだが、天声人語の一文にも滑稽をどう受け止めるかのセンスがあろうにと思う。
格言を引いて―― 教育とは、学校で習ったすべてを忘れたあとに残ったものをいう――らしい。
ブログを渡ってみて
>まさしく、蕪村が詠んだ句のままなのである。
得たつもりの知識は私の尻から、屁とともに空気中に消え去ってしまうかのようだ…(苦笑)。
古稀が過ぎた母親は、本を読んでいても次から次から忘れてしまう…と、ぼやく。
そう言う母親に私は、「そんなもん、全部頭に入ってたらそれこそ、屁ェこいだだけで京大に入れるわな」と笑う。
> 「すぐに忘れる」ということわざは、「右の耳から聞いたものが左に抜ける」という表現があるので、現代ならば「学問は耳から抜けるほたる哉」の方が近いかもしれない。
どちらの意味になるとしても、「尻から蛍が抜ける」という表現がとてもユーモラスだ。真夜中、勉強をしながらも、その人の尻から蛍が飛んでゆく姿は、滑稽ながらも美しい。
>郷愁と切なさがにじんでいる。こちらは絵と俳句を合わせ、何とも言えないおかしみをたたえた「俳画」。
与謝蕪村は俳画を確立した人だ。
「学問は 尻から抜ける ほたるかな」
与謝蕪村は、齢60を超えてから、その才能を開花させた。
降りしきる雪。じっと寒さに耐える二羽のカラス。生きるとはいかに厳しいことか。
郷愁の詩人と言われた与謝蕪村。
>季語は「ほたる」で、夏の句。「蛍の光」といえば、貧しい中でも勉強するという古いことわざです。かたや、「聞いた事尻からぬける」という言い慣わしもあります。矛盾背反で、勤勉と間抜けの同居みたい。これでは、蛍の光は励ましどころか、あてつけにしかなりません。「書窓懶眠」、勉強部屋でこんな居眠りしていては話にならない。覚えた尻から抜けるというのも、うべなるかな、です。もしこれが自画像だとすると、蕪村てかわいい!? 藤田 真一さん(関西大学教授)
ついに、滑稽に至って、辞典では奥義抄あたりの解釈でいかが。
日本国語大辞典
こっ‐けい 【滑稽】
〔名〕
(1)ことばが滑らかで、知恵がよくまわること。機知に富んだ言動をすること。巧みに言いなすこと。転じて、ばかばかしくおかしいことばや言いかた。諧謔。おどけ。ざれごと。
*懐風藻〔751〕釈弁正伝「弁正法師者俗姓秦氏。性滑稽、善談論」
*奥義抄〔1135~44頃〕下「漢書云、誹諧者滑稽也。滑妙義也。稽詞不尽也」
*色葉字類抄〔1177~81〕「滑稽 コッケイ 圜転」
*元和本下学集〔1617〕「滑稽 コッケイ 利口之義也」
*浮世草子・新竹斎〔1687〕五・三「筍斎三国無双医者は下手なれども、とりなりの異相と口の滑稽(コッケイ)なるより」
*俳諧・三冊子〔1702〕白双紙「滑稽は管仲楚国に往て楚人に答る也」
*談義本・風流志道軒伝〔1763〕五「我汝に教ゆるも、世界の人情をしりたる上にて、世を滑稽(コッケイ)の間にさけよと教へしに」
*史記‐樗里子伝「樗里子滑稽多智〈注〉滑乱也、稽同也、謂弁捷之人、言非若是、言是若非、謂能乱同異也。一云、滑稽酒器、可転注吐酒不已、以言俳優之人、出口成章、詞不窮竭、如滑稽之吐酒不已也
(2)(1)より転じて、俳諧のこと。また、風来山人に始まる滑稽を主とする戯作。
*俳諧・猿蓑〔1691〕六・跋「猿蓑者芭蕉翁滑稽之首也」
そこでこの滑稽は学問をし続けよということになるのだけれど、しり抜けまでの解釈で終わってしまって、蛍を袋に入れてまで明かりをとった夜に日を継いで学問をし続けろ、蛍が飛んでいるではないか、というようなことを言ったんだと、わたしに思う。
中国に日語専家で出かけて、明かりがないところ、電気事情で煌々と蛍光灯を照らすわけでなく、日没にだんだんと暗くなっても光りを書籍に照らすその明かりは小さい豆電球の光りで、ぼうと文字だけを一字一字浮かび上がらせていく、すると読めるのである、そういう思いで勉強をしていて、目が悪くなるか、頭が悪いか、これほどまで本を読もうとするのは、もう少し続けて読んでみようと、辺りが真っ暗なのにそこだけが光って、あれこれ去就する思いに本を読み続けた毎日があったが、蛍の光で本が読めるわけであると合点しながらも、人間の目はなれていくので、頭はなかなか追いつかなくて暗いままでも、勉強をし続ける蛍の光だなと、実感していて、この滑稽に接すれば、ホタルノヒカリで本をよむという妙な気持は、それを体験しないことにはわかるまいと、しり抜けの頭で、学問が役立たないのではない、己の頭がそうなのであって、忘れてしまうのでもなくて、ホタルノヒカリを求め続けるほどに、しりから抜けるのであって、その頭の悪さはしょうがないんだけれども、実は、物忘れではない、記憶とはそういうものだと悟っていくと、つまりは頭の中で絡み合って覚えているなどとは、コンピュータでも出来まいに、蛍の明かりはしり抜けの明かりであるという蕪村の平然とした滑稽は妙であるなぁ・・・