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蕪村の蛍の句

2018.04.09 04:57

http://nekomati.blog50.fc2.com/blog-entry-2196.html 【蕪村の蛍の句】より

そろそろ蛍の季節でしょうか。去年見た、静かな静かな場所での蛍の乱舞が忘れられない……あれは素晴らしかった。

蛍だけじゃなく、河鹿の声も素敵だった。

『蕪村俳句集』(岩波文庫)から蛍の句を拾ってみた。 

表記はこの本によりました。

    納屋の内にほたる放してァヽ楽や

    狩衣の袖のうら這ふほたる哉

    学問は尻からぬけるほたる哉

    さし汐に雨のほそ江のほたるかな

意外と少ない。見落としたかな。

ちなみに「尻からぬける」は「物忘れの早いこと」だそうで。

確かに!確かに勉強したことなんて、次から次へ尻からぬけてゆく!


https://cfaon000.blog.fc2.com/blog-entry-85.html 【「傘も化けて 目のある 月夜哉」(与謝蕪村)】より

ようこそのお運びで。

今回は、与謝蕪村の新発見俳句の解釈についてです。

「和歌山城・紅葉渓庭園の鳶魚閣(えんぎょかく)のアップ」

・・・「傘(からかさ)も化けて 目のある 月夜哉」(与謝蕪村)・・・

昨年の10月14日産経WESTに、与謝蕪村の未確認の俳句212句を発見というニュースが載っていました。

http://www.sankei.com/west/news/151014/wst1510140109-n1.html

記事の引用

 江戸時代中期の俳人、与謝蕪村(1716~83年)の俳句集「夜半亭蕪村句集(やはんていぶそんくしゅう)」に未確認の俳句212句が掲載されているのが分かり、所蔵する奈良県天理市の天理大付属天理図書館が14日発表した。

 図書館は「一度にこれだけ多くの句が見つかるのは驚き。今後の蕪村研究を進める上で貴重な資料だ」としている。

 句集は長く所在不明になっていたが、図書館が4年前に古書店から購入。研究の結果、蕪村が生涯に詠んだとされる約2900句にはない、未確認の句が多数掲載されていた。

 新発見の句は、ぼろぼろの傘をお化けに見立て、破れ目から月が見えることを詠んだ「傘(かさ)も化(ばけ)て目のある月夜哉」など、ユーモアと風情が織り交ぜられているのが特徴という。

「学問は尻から抜けるほたるかな 蕪村」

さて、この時、解釈を求められた藤田真一氏は、「傘も 化て目のある 月夜哉」を、こう解釈されたそうです。

・・・唐傘にあいた穴から、夜空に浮かんだ月に明りが差し込んでくる。・・・

これに対し、『リポート笠間・2016・11月号」で、田中道雄氏が反論しています。

私は、最近これを読んで、田中氏の解釈に全面的に同意したくなりました。

そこで、田中氏の解釈をご紹介致します。(一部省略)

「傘」の詠み方は「からかさ」。この句には、写真によると「化物題」という詞書きが付いている。蕪村が読者に、見事な化け方を見破る琴を求めたわけでる。蕪村は俳画で妖怪絵巻や百鬼夜光図を手がけ、化け物に大いに心惹かれていた。

 この句では、人(傘)の主は読まれていない。まず物としての「傘」が詠み出される。次に「傘もばけて」だから、その傘に何らかの変化が起きたことを「化けて」とおどけて言ったと推察できる。次に助詞「も」が他に変化のあったことを示唆し、「月夜哉」で、雨が止んでにわかに月が出たのだと、分かる。

すなわち、傘の変化は天候の変化に応じた故と知れ、読者は、その変化とは、雨にぬれぬよう誰かが差していた傘、つまり開いていた傘が畳まれてすぼんだ状態になったことだった、と解するに至る。ではなぜ、「すぼまる」という単純な変化が「化け」るという語で表現されたのか。ここで読者は、蕪村の言葉の魔術にかかり(「目のある」の、前を受け、後にもかかる効果に注意)、畳まれた破れ傘にただ一つの目が付いている化け物、すなわち一つ目小僧が現れると思いきや、何と一つ目だけは瞬時に遙か遠くに飛び去って天空に浮かんでいた。「おっと一つ目、傘を離れ、今や雲間に現れて」とユーモラスに戯れたのが、蕪村の仕掛けた趣向である。スケールの大きい化け方の楽しさ、爽やかさ。飛躍する発想は、あたかも談林俳諧のように、読む物の心に解放と高揚をもたらす。雨上がりの清々しく澄んだ大気の彼方、広い夜空にこうっこうと冴えわたる満月の美しさ、雲間に突如現れた満月は人を驚かせ、「一つ目」とは言い得て妙、それが破れ傘の一つ目に見立てられて、読者は軽やかな滑稽味を味わう。意外性がもたらす笑い。これが「俳諧性」である。言葉の力を本領とした。

私たちは、ここで鑑賞を終えるのは惜しい。このような場合、蕪村の心には同じ情景の古歌が浮かんでいたと、考えるべきだからである。例えば次である。

   秋風にたなびく雲の絶え間よりもれいづる月の影のさやけさ

蕪村の読者は、趣向の面白さに重ねてこの古歌を思い帰し、自然の美しさをも味わうことになる。さらに蕪村の、

  月天心貧しき町を通りけり

を思い出し、蕪村と嘆美の心を共にするのである。

ネット画像より

田中氏の解釈に沿って、まとめると大体、このような解釈になるでしょうか。

・・・雨が止み、傘がすぼまれて、一つ目小僧が現れたかと思ったら、何と一つ目は遙か遠くに飛んで、天空に満月として浮かんでいた。その月の冴えわたる美しさよ。・・・

さて、皆様は、藤田氏と田中氏の解釈について、どう思われますか?

新しい解釈はありますか?