温故知新~今も昔も変わりなく~【書評・第67回】 山本七平『存亡の条件』(講談社学術文庫,1979年)
『空気の研究』で有名な山本七平。1991年に亡くなっているので、私が初めて山本七平の著作を読んだときには既にこの世にいなかったことになる。山本の名前を始めて知ったのは記憶をたどる限り15歳の頃だ。遠藤周作がエッセー集のなかで、1970年に出版され日本でベストセラーになった作品『日本人とユダヤ人』の著者イザヤ・ベンダサンに言及していたのを読んだ。この著者名が山本のペンネームであったことは今では知られているが、昔はそこをぼかしており、遠藤は好意的かつユーモラスにこの由来を語っていた。これがあまりにも馬鹿らしくクダらなかったのだが、遠藤の術策にはまるかのように山本の著書を読み始めた。
今となっては『空気の研究」』『帝王学~貞観政要の読み方~』『日本人とユダヤ人』・・・何から手をつけたのかまでは思い出せない。そうした中の一冊が「存亡の条件」(講談社学術文庫)だ。1979年に出版された本であるから、書かれた当時はまだ米ソ冷戦の真っ最中だった。(なお、私がこの本に触れたのは90年代半過ぎくらいだ)。表紙の裏には次のような本の紹介が書かれている。
「西欧・アメリカ・中ソ―我々には常に先達があり、その模倣こそが我々の生きる唯一の方法論であった。しかし模倣ですむ幸福な時代は去った。苛烈な国際社会を自らの思考と方法で生きねばならぬ今日、一等必要なのは明確な自己把握とその他国への伝達である。そのような視点から試みられた日本再認識の企てが本書である。ここでは著者の犀利な筆によって思いがけない日本文化の基本型が明らかにされ、鮮烈な自己規定が実現されている」
日本は相変わらず「コロナ」とそれに対する場当たり的な処置対策が唯一無二の天下の一大事の如き扱いだが、世界は「コロナ」を利用して何をしていくかに切り替わり始めている。その世界がどうなっていくのか見極めていかねばならないが、これまでよりも苛烈な国際社会へとコースが向くように感じている。特に、緊張が増す米中関係にあっては、日本は常に何かしらのプレイヤーとしての決断を求められていくのはいうまでもない。最新の情報や情勢認識に基づいて未来を考えることも大切だが、とき自分が若いころに読んだ、少しばかり古い本に知恵を求めてみるのも一つの学び方だ。「存亡の条件」などはそんな一冊だ。なお、アマゾンで中古本なら48円で買えるようだ。
山本はクリスチャンの両親のもとに生まれ育ち、その聖書的な教養はとても深かった人だ。太平洋戦争では下級将校として戦い、戦後は聖書学を専門とする出版社山本書店を設立し、市井の中で著作や評論活動に勤しまれたが、その独特の視座は世間を大いに揺らすことになった。さて、「存亡の条件」の第二章は「民族と滅亡」をテーマとして、山本はラフィウス・ヨセフスという紀元1世紀にエルサレムとローマに生きた人物の著作を中心に取り上げつつその独特な考察を展開する。このヨセフスは古代においてユダヤ民族がローマにより滅亡させられた歴史を、山本の言葉を借りれば「臨終に立ち会った臨床医」のようなスタンスで書いている。
「われわれの都はかつて繁栄の極みに達したのち、もっとも深い災いの淵に転落した・・・私の考えでは世界が始まって以来のいかなる悲運もユダヤ人のそれとは到底比較にならない・・・。しかもその責任をいかなる外国人にも求めるわけに行かないからこそ、悲しみを押えられないのだ・・・」(ヨセフス「ユダヤ戦記」1(3))
ヨセフス自身は数奇な運命を辿った人である。ローマ軍に対して戦士として戦い敗れた後で周囲のユダヤ人は捕虜になるのを拒否して皆集団自決していくなかで、彼は生き残ることを選んだ。このときの自決の仕方はまず集団のなかで10人をくじ引きで選び、その10人が同胞を殺害していく。その後で残った10人でくじ引きをして一人を択び、その一人がまた9人の同胞の命を奪いゆくといった方法だ。このときにヨセフスは最後の一人を説得して生き残ることに成功した。ヨセフスは有能であったことからローマの賓客におさまり、後にローマがエルサレム包囲攻撃のときに使者として降伏を勧告などもしている。山本は次のようにいう。
「一民族の滅亡において、彼のような立場に立った者はきわめて珍しい。いわば、最初は大本営の一員、一軍の司令官で、のちにアメリカ統合参謀本部にいて、太平洋戦争を、直接に戦っただけでなく、双方でこれを最高司令部にいて見つづけたという人があれば、その人の体験はヨセフスに匹敵するわけだが、私は彼以外に、このような立場にたった者を知らない」(「存亡の条件」第2章)
ヨセフスは同胞からは裏切り者として憎悪されたが、当人はただ冷静に何故滅びの道を辿ったのかを考察している。山本はヨセフスが言っていることは、この滅亡の問題は「被統治意識と統治」といったところに核心があると敷衍して論を展開していく。その中で人は何に対して統治されているかという意識の所在を問い、ヨセフスが論を展開するヘロデ大王やユダヤ教を引き合いに出しつつも、戦後の日本では会社、国、天皇、法、文化、宗教など被統治意識はどれに重心をおいているのかといったことを考えて行くのだ。この中で山本が興味深い視座を一つ紹介している。それは普段は無意識に自覚されつつも本質的には衰退しているような土着の文化や宗教に対して、外国が侵略などのパワーでもって変容することを強制すると、逆にそれらの文化や宗教を改めて自覚させて再生させてしまうというものだ。
「・・・こういうばかげたことをやらなければ、時とともにユダヤ人はヘレニズム化して、完全にギリシャ=ローマ世界の中に吸収されて消えてしまったであろうと。これは常にいえることらしい。毛沢東が批林批孔をやらなければ、逆に孔子は消えたかもしれぬ。非常に強力な伝統文化は、権力者の弾圧で逆に自覚され、再把握され、蘇生してしまう。なぜなら、人びとは今まで無自覚で抱いていたものを、「批」という形で自覚させられるからである。従って放置しておけば侵蝕され消えるものが、逆に強力な形で再生する」(同)
興味深い視座だと思う。さて、コロナ以降の世界であるが、日本はこの一連の流れのなかで社会、経済、システム、色々な部分でダメなところを認識させられたように思うのだ。それは実態よりもイメージが先行して国力のダウンを感じさせるだろう。そして自国の弱体化は相対的に他国がより強力に見えてくるものだ。たとえば、中国などは最近も意気軒昂に空母が巡洋艦と駆逐艦を引き連れて6隻のご一行様で沖縄・宮古島間を通峡して太平洋に出たことがニュースで騒がれた。2016年に初めて通峡してから通算で5回目。プロ軍人たちは運用実態を情報収集して冷静に能力を見積もるがその手の内は明かさない。他方で世間一般のイメージはそうは受け止めないだろう。自国が自信を失っているときはこれまでとは違ってより不気味にも見えてくるはずだ。そして、これを何かしらの外圧と感じはじめたときに、日本は何を徐々に自覚して再生していくかはわからないが、コロナ以降の駆け引きに着実に巻き込まれており、何をどこに軸足をおくかといった問題に向き合う流れにあるようだ。
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筆者:西田陽一
1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。