闇や弱さを隠さず認めていく
私はコンプレックスが色々とありました。自分の弱さを理解しつつ、どうしてもそれを認めたくなかったのです。でもやはり認めざるを得ないですね。
どんな人にも強さもあり、弱さもあります。良いところを周りに見せていきたいものですが、自分の弱さや闇であるとか認めてしまった方が実は楽です。
そしてそれを認めてしまった方が自分自身楽になるし、周りの評価も変わってくると。
Googleは世界で最も成功した企業の一つですが、 そこで瞑想を取り入れたり、色々な試みをしていますが、Googleはマインドフルネス瞑想を行なっていることは知られていますが、Google社において様々なキーワードがあるそうですが、近頃では「脆弱さ」ということがよく言われているそうです。
宗教やスピリチュアルの世界で、成果を出してきた人は、自分の弱さを見せたがらなくなる傾向がありますが、ビジネスの世界でもそれは同様でしょう。
「自分は仕事ができる」とか「これだけ成果を上げてきた」ということをアピールし、自分の弱さや問題点をあまり出さない、認めたがらないと。
でもGoogle社で「脆弱さ」ということを自分で認める人も出てきていると。それは素の自分を出すことになるわけですね。強さとか良い面だけということはあり得ません。それは偏った面しか出していない。強さも弱さも曝け出していいのだと、それはオープンな状態ですね。クローズしていません。
一面しか出さないのは閉じている、クローズしています。全てを認めて出していくのはオープンしています。
そしてオープンな状態とクローズな状態ではどちらが信頼できるかというと、それはオープンな方です。
「脆弱さ」を認めて出して行った方が信頼が得られる、そして仕事の成果も上がるとのことです。
Google社においてそういうことをキーワードにして、仕事の成果が出ているというのは興味深いですね。世界で最も成功している企業の一つで「脆弱さ」を認めてビジネスの成果が出るというのは説得力がある。
これが何の成果も出してない企業でそんなことを言っても「何の結果も出ていないのに、そんなことっを言われても説得力がないよ」と言われてしまいます。
Googleでそういうことがあるとのことで、自分の脆弱さ、弱さを認めそれを出していくのは大切なことなんだ、となりますね。
私の中にある弱さや闇を探っていくと、自分の幼少期から振り返っていくと、「こんなことがあったな」など色々と出てきます。
私は物心ついた頃から色々と考えていまして、自分の中に深く入っていくそういう傾向がありましたが、最初は狭い世界の中で生きているじゃないですか、それが幼稚園に行くとより色んな人と接するようになる、世界が広がっていきます。
それまでは自分だけの世界にいたのが、より開かれた世界にいくことに対して、ある種の恐れがあったなと振り返ってみて気づきました。
私が幼稚園に親に連れられて初めて行ったときのことですが、親が帰ってから、ずっとそれまで親と一緒にいるのが当たり前だったのが、親以外の見ず知らずの人達と一緒にいることが、寂しさとか恐怖や不安といったものが一気に押し寄せてきて、自分の記憶ではかなり大泣きしました。
ちょっと泣いただけかもしれませんが、記憶ではかなり大声を出して泣いていました。それが2、3回続いたんですね。
さすがにずっと何日も泣いてはいませんでしたが、自分の中にある不安や恐怖や寂しさ、こういうものは自分が幼稚園に通う頃から間違いなく内在していたなと記憶としてあります。
私は一人っ子で、父親が40代の時に生まれたので、親からかなり可愛がられたなと、今振り返ってみるとそう思います。
親から虐待を受けたという人の話を聞いていると、虐待を受けるのと、親から愛されて育つとでは大きな違いがあると思います。
ですから親から愛情を受けてきたのは本当に良かったですが、物事には二面性がありまして、愛されてきた分甘やかされてきたなとも思います。
それによって後に苦労することもありまして、これは自分では記憶していなかったことで親から言われたんですが、幼稚園に行く際に当然靴を履いて行きますが、それまでは靴を履くのも親にやってもらっていました。
それが幼稚園では靴を履くのも自分でやりますね。それが一人で靴が履けないということが判明しました。そこで親が大慌てで一人で靴が履けるようにやらせたということです。
その時は何とか事なきを得たようなのですが、それはさすがに甘やかされていたなと。そのことを親から聞いて「それはいくらなんでもひどいな」と思いました。
甘やかされたといっても、親から全然怒られたことがないとかそういうことはなくて、怒られるときはかなり厳しく怒られたりもしましたが、それはそれとして甘やかされてはきたなと思います。
そして小学校に入学して、私の性格として悪口を言われたり、他の子から叩かれたりしてもやり返せないんですね。そうなると余計からかわれたりしました。
私は深刻ないじめは経験していませんが、よくからかわれたり軽いいじめのようなものはありました。
そして中学の時が一番ひどかったですね。具体的に言うと私は少々顔が面長で、馬と言われたりしました。口で言われるだけでなく黒板に落書きをされたりしました。
そんな中でも一番嫌だったのが、鞄をしょっちゅう隠されたことです。鞄を机の横に掛けておくと、ちょっと目を離した隙に隠される。それで鞄を探す。あれはちょっと参りました。
登校拒否とかそういうことはなかったですが、結構悩んだ時期もありましたね。
私はそういうことをしてくる連中とも普通に談笑したり遊んだりもしていたので、酷いいじめはなかったですけれども、私は人をからかったりいじめたりする心理がよくわからなかったので、それなりに悩んだりしました。
そうしているうちに段々意識が屈折してくるんですね。
子供の頃は物語でもハッピーエンドや勧善懲悪が好きでしたが、思春期になるにつれて次第に世の中そういうものではないな、必ずみんながハッピーになって、正義が栄えて悪が滅びるとは限らないな、と考えるようになっていきました。
中学高校になると、バッドエンドやちょっと屈折した物語を好むようになっていきました。音楽でも暗い音楽を好むようになりました。
元々天真爛漫な性格だったのが、それだけでは世の中を生きていくのが難しいなと、何かしらそういう意識が芽生えてきた感じがします。
高校生になると、周りの連中と話が合わないんですね。それでからかわれたり、変わり者扱いされたりしました。
幸い中学高校と一緒の友人が数名いて、だから完全に孤立することはなく話し相手はいてそれはよかったんですけれども、彼ら以外とはなじめなくて高校時代も結構悩みました。
高校の英語の授業で、ある本を題材として取り上げてそれを読むように言われ、それが有名なJ・Dサリンジャー著の「ライ麦畑でつかまえて」でした。
最近は村上春樹が「キャッチャー・イン・ザ・ライ」のタイトルで新訳を出しましたが、その本を課題図書として読むことになりました。
それが家にたまたまあったので、新しく買うこともなく読みましたが、それを読んだときに衝撃を受けました。
思春期で色々と揺れ動いている自分の心情に主人公に対して、感情移入というレベルではなく、「これは自分だ」というほど同化してしまいました。
「ライ麦畑でつかまえて」の主人公、ホールデン・コールフィールドはヘタレなわけです。そして精神的にかなり追い詰められていると。
学校が合わず何度も学校を辞めて、別のところに通ってということを繰り返しています。
物語の中では学校を飛び出してニューヨークの街を彷徨います。一種の地獄巡りのようになり、そこで色々な人たちに会い、傷ついたり幻滅して、本当にボロボロの状態になっていきます。
ホールデンは世の中に対して不平不満ばかり言っていますが、近づこうということも考えてそういう行動もとるんですが、やはり自分の期待がことごとく裏切られて、身も心もズタズタになっていきます。
そして最後の最後に妹のところに行きます。妹はフィービーといいますが、彼女は純粋無垢、イノセントの象徴です。
ホールデンはそういった魂と触れ合うことで、ほんのささやかな魂の解放のようなものを体験します。
最終的にはハッキリとは書かれていませんが、どうやらホールデンは精神病院に入院しており、そこで物語を語っている。これが「ライ麦畑でつかまえて」です。
私は「ライ麦畑でつかえて」を初めて読んだ時高校1年でしたが、社会や世間や周りの人たちに対してかなり屈折した思いを抱えていました。
露骨に周りに逆らったり反抗したり、わざわざ孤立していたわけではありませんでしたが、自分の中では相当鬱々としたやりきれない思いがあり、私のそういった内面をホールデンが代弁してくれていたように感じたのです。
そこでホールデンに同化していきましたが、先ほども言いましたが、ホールデンはハッキリいってヘタレで、何かあると逃げてしまったり、口ばかり達者で肉体的にも精神的にも脆い状態です。
最終的には精神的に限界にきて、精神病院に入院してしまいますから、どこか狂気性も秘めているかと。
そういうものに惹かれてしまうのは、私の中にも狂気というものや、ヘタレという性質が間違いなくあるんですね。
他にも文学で筒井康隆が好きで、筒井康隆を読まれたことがある方はおわかりのように、非常に攻撃的で狂気や猛毒が秘められています。
そういうものにすごく惹かれる自分がいました。正常を保ちつつ狂気にも惹かれるのです。
バットマンというアメコミのヒーローがいますが、そのヴィラン、敵役にジョーカーというキャラクターが有名ですね。
ジョーカーは純粋悪、完全なる狂気です。
私はジョーカーというキャラに非常に惹かれるものがあり、ジョーカーの表情を真似たり、そんなことをしたりしました。
だから私にもジョーカー的な性質があるなと。
そしてふざけてジョーカーの真似をすると、周りからすごく気持ち悪がられるんですね。「そんなの辞めなさい」と。
そういうものに惹かれるのは、社会や世間に馴染めない、そして自分はやはり周りと違うんだと、人と違うんだと、そういうところでアイデンティティを保っていたんですね。
周りに反抗したり、外側に破壊的な衝動は向かいませんでしたが、内側にマグマのような鬱積した思いがありました。
狂気に惹かれることで自分のアイデンティティを保っていましたが、その背景にはイジイジ、ウジウジとした成長できないインナーチャイルドみたいなものがあり、それが狂気に転じていました。
私もやはり何か自分にとって不利なことであるとか、まずいこととか、そういうものを誤魔化してしまおうとしていました。
何か指摘されても反応せず黙っていたり、誤魔化して覆い隠そうとするという働きがありました。
親や教師から指摘されても、素直に謝れない、ごめんなさいと言えず、イジイジ、ウジウジとしたところがあったのです。
そして今現在もそういった傾向はあります。
それはやはり子供のころからの、イジイジ、ウジウジとしたインナーチャイルドが自分の中にあり、それが転じて狂気のジョーカーになってしまう。
そして色々とコンプレックスがあり、一般社会に必要な能力とか才能が自分にはないなあと思い込んでいました。
勉強がよくできたわけでもなく、運動もそれほど得意でもなかったです。
体もそれほど強くなく、元々虚弱でした。
そういった様々な点でコンプレックスがあった。それを克服するために修行や瞑想にのめりこんでいきました。
頭で勝負することもできなかったし、体を鍛えてスポーツでトップに立つこともできなかった。
どのようにして自分を強める、高めていくかということになると、宗教的なこと、精神世界・スピリチュアルなものに走りました。
そして取り組んでみると多少の成果が出たので、「これならいける」と思い、自分の弱さや闇、イジイジ、ウジウジとしたインナーチャイルド、狂気などを覆い隠していき、自分のアイデンティティを形成していきました。
それで途中まではよかったですが、それをやればやるほど自分の弱さ、脆弱さ、闇の部分、これらを覆い隠していくとどんどん乖離が生じてきました。
そうなると逆に闇が強くなり、闇落ちのような状態に何度か陥りました。
何とかそこから脱却することはできましたが、そこから更に自分の弱さ、混とんとしたところ、人に隠したい面、それらを今まで以上に見つめて認めていくことで、自分自身が救われていった、そのことを身に染みて感じました。
ただ気をつけねばならないのは、不幸自慢といいますか、私はこれだけ不幸であるということをアピールして、悲劇の主人公のようになり、それに酔いしれてしまうとそれはそれで違うことになります。
これだけ自分は苦しいんだ、不幸なんだ、だからかまってほしい。とならずに自分の弱さや闇を冷静にありのままに見つめ、覆い隠さず素の状態でいる、これが大事なことではないかと思います。
スピリチュアルリーダーの話を聞くと、良いことしか書かれていなかったり、話に出てこないですね。
よく暴露話が出てきますが、隠そうとすればするほど裏の話も出てきて、闇も際立ちます。
評価されている人たちでも、裏の話やぐちゃぐちゃなことや、スキャンダラスなことが出てきます。
今までは指導者の素晴らしい話し、感動的な話しばかり広まってきましたが、強さも弱さも全部ひっくるめてあるがままに出していく、それを我々も受けいれて受け止めていく、そういったことが大事ではないかと思います。