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観察眼

2018.04.09 12:41

https://heiseibasho.com/basho-eye-protection/ 【俳諧の道を究めた芭蕉さんの観察眼】

芭蕉さんに最も影響を与えた人物は、まだ芭蕉さんが松尾宗房(通称、甚神七郎)と名乗っていた頃に仕えた藤堂新七郎嫡子良忠(俳号は蝉吟)でしょう。

藤堂良忠は芭蕉さんより2歳年上で、芭蕉さんに俳諧の世界を紹介した藤堂家の若殿でしたが、若くして亡くなりました。

その際、芭蕉さんには「世の中利口すぎると物が見えぬ、アホウに生きるも一生」と言い残したと言われています。

そこで、芭蕉さんは良忠を偲びながら、俳諧のアホウとして己の道を歩まんと江戸へ旅立ったと考えられます。

俳諧はもともと戯れ詩(うた)でしたが、その俳諧の新天地を江戸に求めたのです。

そして、芭蕉さんは旅を通じて俳諧の道を究めたのですが、私はその成功は芭蕉さんの観察眼にあったのではないかと思います。

なぜなら、私が「旅行+知恵=人生のときめき」であることに気がついて、旅から多くのことを学べるようになったのは、シャーロックホームズの観察眼があったからと思えるからです。

高齢化による眼病対策

しかし、私も還暦を過ぎてからは視力の低下と老眼の進行を感じるので、私が観察眼を維持するために取り組んでいる眼病対策を「芭蕉さんの旅行術」としてご紹介したいと思います。

老眼鏡をかけて遠くをぼんやり眺める

外出時はなるべくサングラスをかける

ホットタオルで目を温める

パソコンやスマホの輝度を下げる

パソコンは50㎝以上、スマホは40㎝以上離して見る

ほうれん草などの緑黄色野菜、青魚を積極的に摂る

年に一度は眼下専門医に診てもらう

特に、1の安い老眼鏡をかけて遠くの景色をぼんやりと眺める予防法はお薦めです。

老眼鏡は本来、手元を見やすくするための眼鏡であり、これをかけて遠くを見ると、眼科医の先生の話では、目の水晶体の厚さを調節する「毛様体筋」という筋肉を弛緩させ、結果的に老眼症状が緩和するのです。

また、やはり紫外線は目に良くないので、年をとれば2のサングラスも必要です。

私の「60歳からの旅行術」では、この老眼や白内障、緑内障などの加齢による眼病対策も大切なのです。

眼病が悪化すると[「頭痛」や「肩こり」のような2次的症状もでてきますので、注意しましょう。

★関連記事:平成芭蕉の旅のアドバイス「旅して幸せになる~令和の旅」

私は平成芭蕉、自分の足で自分の五感を使って旅をしています。

平成芭蕉のテーマ旅行

平成芭蕉の旅行術

平成芭蕉は元禄時代に生きた俳聖松尾芭蕉の旅から学んだことをお伝えします。旅とは日常から離れ、いつもと違う風、光、臭いなど五感を通じて自分を見つめ直す機会です。そしていつもと違う人に会い、いつもと違う食事をとることで、考え方や感じ方が変わります。すなわち、いい旅をすると人も変わり、生き方も変わり、人生も変わるのです。


https://blog.ebipop.com/2017/03/spring-issa.html 【一茶の観察眼「やれ打つな蠅が手をすり足をする」】より

小林一茶と言えば、松尾芭蕉や与謝蕪村と並んで江戸時代を代表する俳諧師とされている。

しかしこれは、江戸時代当時の評価ではなく、明治時代に正岡子規が一茶を広く世に知らしめたことによるという。

明治時代から遠く離れた現在、一茶の世に知られている印象は、芭蕉や蕪村のとはちょっと異なる。

世間に広まっている一茶の印象は、小さなものや弱いものに対して思いやりをもって接する心を俳句にしたというもの。

そういう人物像の方が、俳諧よりも前面に出ている。

俳諧そのものよりも、一茶の句から感じられる作者の「性格」の方が、世間の好評を得ているのだ。

そういう優しい心の持ち主の一茶だから、こういう優しい句を作れるのだという評判が、先行してしまっているように感じられる。

そこが、芭蕉や蕪村に対して抱かれる世間の印象とは、ちょっと異なるところ。

これは、自然描写を基調とした芭蕉や蕪村の作風と比較して、一茶の作風が、強い慈愛の感情を表に出している一面が目立つことによるのかもしれない。

「やせ蛙(がへる)まけるな一茶これにあり」とか「我ときて遊べや親のない雀」とかの人口に膾炙している句が、一茶の孤独だが心優しい人物像を象徴しているように評されている。

やれ打つな蠅(はえ)が手をすり足をする

小林一茶

掲句も同様。

蝿だって一生懸命に生きているのだからむやみに殺してはいけない。

そういう弱者に対する思いやりの気持ちが込められている句であるという感想が一般的だ。

手足を擦り合わせて、必死に命乞いをしている姿を強調して、「やれ打つな」と殺生をする者を戒めている。

私も以前は、そういう見方をしていた。

もちろん蠅が命乞いをしているわけではないし、一茶が蠅を擬人化して描いているわけでもない。

一茶の句を読んだ後世の人々が、そういう注釈を加えているに過ぎない。

私は、芭蕉の句を読み進める作業を続けるなかで、「独自の観点」で句を読むようになった。

その「独自の観点」で照らすと、一茶の掲句には、別な影が現れる。

私は以前、芭蕉の「よく見れば薺花咲く垣根かな」という句について書いた。

その記事で、私はこの句にふたつのイメージを感じたと書いている。

「周囲に有るモノをよく見て句を詠みなさい」という芭蕉の教え。

ただ漫然と生い茂っているようなナズナの群生が、実は垣根を形成していたという意外な驚き。

(1)のイメージも(2)のイメージも、「よく見れば」という視点で貫かれている。

その視点は、一茶の「やれ打つな」にも貫かれているように思う。

見ることにおいては、ロングショットもクローズアップも思いのままの芭蕉だった。

それに比べて「やれ打つな」で使った一茶のカメラレンズはマクロっぽい。

一茶は、そのマクロレンズ的な観察力で様々な小動物・昆虫を見つめ句にしている。

芭蕉を「眺める詩人」と仮定すれば、一茶は「仔細に見つめる詩人」と言えるかもしれない。

蠅はたしかに不潔で汚らしい虫だが、叩いてしまえばもっと汚くなってそれでお終いである。

俳諧を志さない者ならそれでいいかもしれないが、俳諧師はそれではいけない。

目の前のものを観察する目を持たなければいけない。

こんな蠅だってよく見れば、手足を擦って興味深い動作をしている。

よく見れば、顔だってちょっと可愛い。

対象を「打つ」という一言で片づけてしまわないで、もっと好奇心を持って、いろんな角度から見てみろよ。

打たないと何が見えてくるのか、そこをもっとよく見ることが大切だ。

そういう一茶の声が聞こえそうな句であると感じている。

一般の人が気づかないところを注視する。

そういう冷徹な観察を行うのが俳諧師なのだという強いメッセージが感じられる。

「やせ蛙まけるな一茶これにあり」や「我ときて遊べや親のない雀」、そして「やれ打つな蠅が手をすり足をする」などに共通しているのは、憐みの情だけではないだろう。

この戯画的な光景を描いているのは、ほのぼのとした好人物の憐憫の情ではなく、冷徹な観察力なのではあるまいか。

ほのぼのとした表情で、今にも死にそうな「やせ蛙」をじっと見つめる一茶。

親からはぐれて弱った「雀」をじっと見つめる一茶。

叩き潰されることも知らずに、手足を擦り合せることに夢中になっている「蠅」を見つめる一茶。

こういう一茶の視線に、私は哀憐の情をあまり感じない。

むしろ、どういう風に描いてやろうかという一茶の貪欲な「創作熱」みたいなものを感じている。

例によって、これも私の空想に過ぎないのかもしれないのだが。