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おおかみに蛍が一つ付いていた

2018.04.09 12:59

https://www.minano.gr.jp/haiku/%E3%81%8A%E3%81%8A%E3%81%8B%E3%81%BF%E3%81%AB%E8%9B%8D%E3%81%8C%E4%B8%80%E3%81%A4%E4%BB%98%E3%81%84%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%9F/ 【おおかみに蛍が一つ付いていた】 より

七十歳代後半あたりから、生きものの存在の基本は「土」なり、と身にしみて承知するようになって、幼少年期をそこで育った山国秩父を「産土」と思い定めてきた。

そこにはニホンオオカミがたくさんいた。明治の半ば頃に絶滅したと伝えられてはいるが、今も生きていると確信している人もいて、私も産土を思うとき、かならず狼が現れてくる。群のこともあり、個のこともある。

個のとき、よく見ると螢が一つ付いていて瞬いていた。山気澄み、大地静まるなか、狼と螢、「いのち」の原始さながらにじつに静かに土に立つ。

嵐山光三郎さんがこの句を読んで、「あんたの遺句だ」と言ったのを覚えている。


http://spica819.main.jp/100syosyo/8537.html  【おおかみに螢が一つ付いていた   金子兜太】 より

日本の狼は、明治38年(1905)に奈良県東吉野村で捕獲されたのを最後に目撃例がなく、絶滅したといわれている。そもそも狼は、日本では「大神」として、古くから超自然的な力を持つ獣と信じられ、山神の化身、使者として敬われていたという。掲句では、その「おおかみ」に「螢」が、唯「一つ付いていた」と表現されている。超俗性を感じさせる「おおかみ」の存在と、幽玄な光を発している「螢」の組み合わせからは、それこそこの世ならぬ凄みとでもいったものが感じられるところがある。また、時制が、只今現在のものではなく、「付いていた」という過去形で表現されている点もややフォークロアめいており、そういった只ならぬ印象をさらに強める結果となっているといえよう。

雄々しさ。この作者の作品から強く感じられるのは、この要素であろう。掲句にしてもそうであるが〈粉屋が哭(な)く山を駈けおりてきた俺に〉〈果樹園がシャツ一枚の俺の孤島〉〈海鳥が激突おれの磨崖仏〉〈魂きわまる螢火おれに眠りあり〉〈毛物たち俺の朝寝を知つている〉などに象徴される、まさに「俺の俳句」としかいいようのないヴァイタリティに溢れた作品世界が展開されている。

豪放磊落な印象が強いが、それのみならずこの作者には、割合ナイーブな要素が内包されているところもあるようである。例えば〈蛾のまなこ赤光なれば海を恋う〉〈あお向きしとき月ありぬ一つの月〉〈蝌蚪つまむ指頭の力愛に似て〉〈空罐に半円の水傾く死者〉〈雪の海底紅花積り蟹となるや〉〈朝寝して白波の夢ひとり旅〉などの作品からは、いくらか内省的な雰囲気が感じられる部分があるといえよう。掲句にしても、たった「一つ」の「螢」が明滅している様子が描かれているわけであるから、割合繊細な要素が含まれているといえそうである。しかしながら、そのようなナイーブさをも覆い得る程の膂力が、金子兜太の内には在しているということになるのであろう。

そういった生命力の強さを誇る作品として〈曼珠沙華どれも腹出し秩父の子〉〈きよお!と喚いてこの汽車はゆく新緑の夜中〉〈暗闇の下山くちびるをぶ厚くし〉〈強し青年干潟に玉葱腐る日も〉〈攣曲し火傷し爆心地のマラソン〉〈濁る渓流四肢放埓に生まれきて〉〈谷に鯉もみ合う夜の歓喜かな〉〈二十のテレビにスタートダッシュの黒人ばかり〉〈梅咲いて庭中に青鮫が来ている〉などが挙げられる。掲句にしてもそうであるが、これらの作品は、いくらかのフィクション性を伴う内容でありながら、単にそれだけにはとどまらないリアリティが感じられるところがある。それは、やはり句の中に肉体性や身体意識が確と内在していることが、ある手応えを以て感取されるゆえということになるのであろう。

掲句は、作者の育った秩父を舞台として詠まれた作品であるという。先にも挙げた初期の「どれも腹出し秩父の子」という句があるが、この作者の基底部にはやはりこの秩父の風土性が大きく関与していると見ていいであろう。そして、その句業全体を俯瞰してみた場合、常に一貫して感じられるのは、野生的なダイナミズムということになる。わかりやすい例としては、掲句における狼をはじめ、他に猪、犀、青鮫、熊、狐、象、牛、狸、猫、蛙、鯉、蝮など、挙げれば切りがない程様々な動物が作品の上において頻出するが、これらのおおよそは基本的に作者自身がそれらの動物になり変わっているものと見て間違いないであろう。

結局のところ、金子兜太は、若き日より現在に至るまで、生来よりの「内なる野生」に突き動かされるかたちで延々と驀進を続けてきた類稀なる作者ということができるはずである。

金子兜太(かねこ とうた)は、大正8年(1919)、埼玉県生まれ。父は「伊昔紅」という俳人。全国学生俳誌「成層圏」に参加。昭和16年(1941)、加藤楸邨の「寒雷」に投句。昭和21年(1946)、「風」に参加。昭和30年(1955)、『少年』。昭和36年(1961)、『造型俳句六章』において、「造形」の理念を提唱。昭和36年(1961)、『金子兜太句集』。昭和37年(1962)、「海程」創刊。昭和43年(1968)、『蜿蜿』。昭和47年(1972)『暗線地誌』。昭和49年(1974)、『早春展墓』。昭和50年(1975)、『金子兜大全句集』。昭和52年(1977)、『旅次抄録』。昭和56年(1981)、『遊牧集』。昭和57年(1982)、『猪羊集』。昭和60年(1985)、『詩経国風』。昭和61年(1986)、『皆之』。平成7年(1995)、『両神』。平成13年(2001)、『東国抄』。平成14年(2002)、『金子兜太集』1巻~4巻。平成21年(2009)、『日常』。


https://ameblo.jp/manteca/entry-12267774188.html 【狼と蛍】 より

私は中学の時にはじめて金子兜太氏の俳句と出会ったのを今でも覚えている。

「果樹園がシャツ一枚の俺の孤島」

俳句の中に「俺」という一人称が飛び出して来た時の鮮烈さ。それと同時に俳句の世界がかくまで自由な世界なんだという事を学んだような気がした。

金子兜太氏は医師である父親の影響を受けて小さい頃から俳句を嗜んでいたという。

そうした自然体の兜太氏の俳句は豪放磊落で、とても味わい深いものがある。

その一方で東大卒のインテリであり、日銀のエリート行員が本業という別の顔も併せ持っていた。

そんな金子兜太の句碑が故郷皆野町に幾つか置かれているのだが、中でも兜太氏にとって馴染み深い場所にある句碑は有名である。

そこにあるのは「おおかみに蛍が一つ付いていた」というとても不思議な句である。

この句には独特の風味があるが、その一方でこの句を理解することはなかなか難しいような気がする。

これはわたしの解釈であるが、ここに出てくる「おおかみ」とは兜太氏自身であるような気がする。

狼といえば獰猛で野性味に溢れた存在感である。

兜太氏は大東亜戦争のとき、海軍主計中尉として西太平洋にあるトラック島で200人の部下を率いて文字通りの生死をかけた闘いを繰り広げた。

仲間や部下たちが次々と戦死もしくは餓死していく中、兜太氏は奇跡的に命拾いし、晴れて母国に生還することが出来たのである。

兜太氏の代表句に「海に青雲生き死に言わず生きんとのみ」というものがある。

トラック島での死闘。絶海の孤島の中、南国の抜けるような青空と青い海だけがそこはかとなく続いている。

そしていつ死ぬかもわからない絶望の中にあって生きるとか死ぬとかを超越した、とにかく生き抜くしかないという強烈な意思、それが「生きんとのみ」という言葉の中に滲んでいるように思える。

全身が泥にまみれ血にまみれながら、ギラギラと光る眼光。まさに生きたいと必死になっている兵士の姿がまさに「狼」のようであったに違いない。

そんな自分に一つの蛍が付いているのに気がつく。

蛍とは何か。

生きることを許された証のようなものであったのではないだろうか。

もちろん、選ばれたというよりも偶然にくっついて来たという方が的確なのかもしれない。

「付いてきた」という過去形の中に結果論的な幸運が存在していたこと、そしてその幸福の意外性とその後の人生における葛藤を表現しているような気がする。

ただし、往往にして人生というものはそういうものかもしれない。

生きたいという意思と度重なる偶然の織りなす世界がそこに広がる。

我々は誰しも未踏の原野を目の前にしている。この瞬間から先の人生を誰が完全に見通せるというのか。

しかし、今日もまた「生きんとのみ」の精神で勇気の一歩を踏みしめていきたい。