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『五七五の力~ 金子兜太と語る』(編)石 寒太

2018.04.09 14:14

https://ameblo.jp/ak296910/entry-12511361805.html  【『五七五の力~ 金子兜太と語る』(編)石 寒太】 より

俳句の魅力ないしは謎について存分に探ってみようという意図で企画されたもので、俳句実作者に研究者や他ジャンルの人たちも加わった座談会が主体ですが、各論もあり行き届いた編集になっています。

構成は3部構成で、「第一章 季語を考える」、「第2章 五七五の力」、「第三章「切れ」と近代」となっています。

各論では、江戸文化研究の第一人者である田中優子氏の簡明にして要領を得た『江戸の季節感』と、歌人の道浦母都子、水原紫苑の両氏の体験談を交えた率直な対談『「かたち」からあふれるもの』を興味深く読みました。

座談会は金子兜太(俳人)、高橋睦郎(詩人)、石寒太(俳人、司会)のレギュラーにゲスト一人を加えた形式になっています。座談会形式ですが率直にして噛み合った本質的な議論がなされていて俳句愛好者の私としては大変啓発されるものがありました。

興味深かった事項を抜き書きにしてみました。

「季題と季語」    ゲスト  鈴木健一(1960年生 学習院大教授 日本文学)

<金子>  私も季題は非常に大事だと思っています。しかしそれは「季語」という言い方で、少し中身の受け取り方が違ってきた。本意・本情からかなり離れて、日常生活での実感が軸になってきたところで使われるようになったと見ているわけです。

しかしさっき言った五七五という土着の形式がしっかりしていさえすれば、季題から季語へと変わって本意・本情を乏しくした言葉でも十分使えると、これが私の基本の考えです。

無季語でもこの最短定型は消化できる。高橋さんの言うように、まだまだ不毛ですが、しかし好句もあるし、これから更に増えるでしょう。それをどんどん現代人は開拓する。これは、鈴木さんの言う体験主義世界、実感・実情を大事とする世界だ。

我々は今、表現にそれを求めていますからね。生(せい)のキーワードとして、これまでの季語以外の言葉も含めていきたい。

<金子>  芭蕉が『野ざらし紀行』で、「馬をさへながむる雪の旦哉」といって雪を書いていますね。ところが小林一茶という江戸末期の俳人の場合だと、ご承知の「是がまあ終の栖か雪五尺」と、ここに来ると、季題としての「雪」の本意・本情はかなり彼の中からは消えている。晩年、「はつ雪を煮て喰けり隠居たち」なんていう句を作っています。初雪を隠居たちが煮て食った。鍋に入れてぐずぐずに崩して食うんでしょう。        こうなると完全に生活化されているわけだから、まさに体験主義の世界で書いている。同じ雪でもそこまで変化している。芭蕉の段階は季題が十分認識されていた。一茶になると、ほとんど意識されないで季語として扱っている。一つの言葉として。

<高橋> しかし、生きることの切実さにおいては「是がまあ終の栖か雪五尺」というのは、ひょっとしたら芭蕉よりもっと季題の、いちばん、元の元にまで至っているんじゃないですか。

<金子> 一茶では本意・本情からは遠のいているんだ。江戸庶民の生活の現実が中心になっている。

<高橋>  だからそれが本当の、あるべき本意・本情かも知れない。

<金子>  いいや、これではまだ新しい本意・本情になってねえんだ。雪を季語として扱い、それまでの本意・本情は多少意識している。そして、この季語は、季題に代わるほどのエネルギーを持っていないということでしょう。

<高橋>  そうでしょうか。僕は、殿上人が勝手に本意・本情にしちゃった浮ついた定義よりも、もっと深い本意・本情に至っているんじゃないかという気がする。

<金子>  現代の我々はね、特に私は同感ですよ。でもそれはまだ客観性を持たないと思うな。そのへん、鈴木さんの意見を聞きたいんだけれども。

<鈴木>  そうですね。私は一茶も伝統に寄り添っているんじゃないかと思います。「是がまあ」の句は雪の厳しさを詠んでいるともとれますけど、一方でそういう雪深い地である故郷に戻ってきたんだという安堵感もありますね。そんな雪への親しみの気持はどこかでつながっている感じがします。

<金子>  だけど、煮て食うようになってきたら、ちょっと違ってきちゃっているんじゃないかと思いますけど。

<高橋>  やっぱり俳諧は、煮て食うところまでいかないといけないでしょう。

<金子>  確かに生活句というか、生活する者のこころが生きてくるには、煮て食うところまでいかなきゃいかんのですよ。それは本当なんだ。だから、それを新しい本意・本情と認めるか認めないかというのは、大きな宿題だと思っているんですけれどね。

 

「五七五の力~素数の不思議」 

ゲスト  藤原雅彦(1943年生 数学者、エッセイスト)

<石>  俳句は五七五音。五七五に七七を足すと短歌。定型は十七音とか三十一音でなりたっていますね。小川洋子さんの小説『博士の愛した数式』の中に登場する、江夏野の28=完全数、素数ではありませんが、限られたそれらの音数について、藤原さんはどうお考えになりますか。

<藤原>  五、七、十七、三十一とみんな素数なんですね。素数とは自分自身と1以外では割り切れない数です。それが面白い。それぞれの素数の五七五、あるいは五七五七七を足すと、それぞれ十七、三十一と出てくるのも素数です。

こういうところがすごく不思議だなと、これは高校生の頃から感じていました。日本の短詩型は、何でこんな素数ばかりで固めているのか、これは偶然なのか、なにか理由があってこういう形になったのかなとね。素数というのはすべての数学の構成単位みたいなものです。その本当のエレメントというか、本質の最小単位というか、物理でいう素粒子みたいなものです。俳句や短歌がそれでできているというのは不思議だなと思いますね。

<石>  それが定型の、みなもとになっている。そういうこと、と考えてよろしいでしょうか。

<高橋>  偶然かもしれないけど、やはり必然だったから素数が残っていったんだろうし。それをどう解釈していいか、僕は解らないけど、少なくともそうであった結果から見ると、これが日本のいろいろな文学だけに限らず、物を考えたり感じたりすることの一つの最小単位というか、基本の何かになっているということはあるように思います。

 こういうことから教えていけば、日本の定型詩は古いということにはならなくて、逆に新しい感覚で教えていくことができますね。

<藤原>  たとえば、俳句は五七五で切る。和歌・短歌は五七五七七で切る。五七五七や五七五七七七でなく五七五と五七五七七で切る。見事に素数でぴちっと切れているというのが、何か偶然じゃないような感じもするわけです。

<高橋> 全体の句の数が素数で、句を構成する音数がまた素数。

<藤原> そうなんです。素数と素数を足してみるとまた素数になっていて、本当にうまくできている。

<石>  素数は、本当に美しいものなのでしょうか。

<高橋>  それでしか割れないというのは、美しいじゃありませんか、鉱物の結晶みたいで。

<藤原>  すべての整数は、素数の積で書ける。12は3×2×2、20は2×2×5。このように、すべての数は素数の積で書けるから、数学の世界は素数から成り立っているといえる。本当のエレメントなんです。現代数学でも究明されていない神秘的な存在です。

素数といえば、これは俳句とは関係ありませんが、たとえばセミというのは周期的に地上に出てきますね。あれは七年周期。十七年周期、三十三年周期と、みんな素数らしい。何か自然が、神様がうまくつくっているような。ね。

<金子>  神秘的ですね。

「俳句と数学~岡潔先生」 

<金子>  数学だって定式化するわけでしょう、うんと煮詰めて。俳句の素養が関係するんじゃないですかね。

<藤原>  そうですね。俳句も非常に複雑な景色の中から、ぽっと本質を五七五でつかみ取りますね、非常に簡潔に。数学も同じで、非常に魑魅魍魎な複雑怪奇な諸現象の本質だけをぱっとつかんで簡潔に数式で表現する、その点では全く同じなんです。

三十年前に亡くなった岡潔先生という数学の大天才は、二十代末にフランスに留学して帰ってきた。「よほどいい論文を書いてきたろう」と言われたけれど、何も書いていないんです。三年間もいて。しかし、二つのことが向こうでわかったと、彼は言う。

一つは、これから自分がすべき分野がわかった。それは多変数解析函数論という分野。

もう一つは、その分野の研究に取りかかる前に、蕉門の俳諧をすべて調べないといけないということがわかったと。

それで帰ってきてから、「おくのほそ道」などを片っ端から一年間かけて調べるんです。それから数学の研究に取りかかって、当時その分野で世界の三大難問と言われたものを二十年ぐらいかかって全部一人で解いちゃったんです。

だから話に迫力が出て来る。わびさびかどうかはわからないんですが、彼の信念は晩年になっても変わらなくて。

私の考えでは、あらゆる学芸で日本が世界的な標準で飛び抜けていいのが、文学なんです。それから数歩遅れて数学。

三、四年前にある免疫学者と対談したら、その人はノーベル賞候補になる人で、開口一番、私に「数学にノーベル賞があったら二十以上はかたいそうですね」と言いました。       私も「はい、そうですね」と答えました。もし、ノーベル文学賞が万葉のころからあったら、百以上はかたいでしょう。数学なら二十以上はかたい。物理・化学・生物は三、四個。このように数学と文学は非常に頭抜けているんです。

先ほどの岡先生は「日本が歴史的に、江戸時代の関孝和のころから数学がすごいのは俳句のおかげだ」というんです。たとえば「荒海や佐渡によこたふ天河」、十七音で目の前の荒れた海から佐渡に野行って天の川へと至る。このイマジネーションですね、この想像力が、数学におけるオリジナルティー、創造力と同じだというんです。日本人は子供のころから五七五でイマジネーションを養っている。だから強いんだと、彼は晩年でもそう言っていましたね。

<金子>  なるほど。一年間、蕉門の勉強をしたとはすごいね。

<藤原>  本当に専門家並みです。俳句の実作もしていて、私から見るとうまいなと思う。プロの方から見るとどうか知りませんが。

岡先生のすごさというのは、フランスに行って帰って来て、フランス文化なんて大したことないと言うんです。彼に言わせると「高い峰から谷底みれば瓜や茄子の花盛り」と。要するに、芭蕉等の深さに比べたら、フランス文化なんてものは取るに足らないと。 それで晩年,「私が世界の三大問題を全部やっつけたのは,日本文化に対する自負があったからだ」と言うんです。さらに続けて、「アインシュタインが相対性原理を発見したのは、ユダヤ文化に対する自負があったからだ。これがなかったらあんな大発見はできない」とおっしゃったんです。」ぐっときましたね。蕉門の俳諧を徹底的に調べてその深さに触れ、自分の祖国の文化というものに対しての自負というものを得て、他を下に見て一気にやりとげた。