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俳人兜太にとって秩父とは何か① 岡崎万寿

2018.04.10 03:07

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『海原』No.21(2020/9/1発行)誌面より

新シリーズ●第1回

俳人兜太にとって秩父とは何か 岡崎万寿

 つなぎに

 金子兜太が九十八歳で他界してから、間もなく二年になる二〇二〇年一月十九日の日本経済新聞は、文化時評「いま輝く俳人兜太の『現役大往生』」の大見出しで、こう書き出している。

 この世を去ったあと、これだけ惜しまれる俳人はちょっといない。

 その通りと思いながら、金子兜太インタビューの著『わたしの骨格「自由人」』(聞き手・蛭田有一・二〇一二年刊)をめくってみた。

 後世がどう評価するかというのは後世に任せればいい。……偉そうに見えるけど、わたしの自由人たるゆえんじゃないかな。

 自由の俳人だったと言われればうれしいですよ。俳句そのものみたいなやつだったと言われてもうれしいですし。それから、俳句以外にとりえのないやつだったと言われてもうれしいです。

 わたしが秩父のああいうところで育ったから俳句になったんですけど、違う環境におかれたらわかりませんね。そういう点で本当に親の恩を感じますね。それから、風土の恩、秩父の恩、産土神の恩というのは感じるな。

 また『いま、兜太は』(青木健編・二〇一六年刊)では、こうもふるさと秩父を強調している。

 まったくそのとおり。俺から秩父っていうふるさとを除いたら、ほとんどゼロに近いね。間違いなく、秩父というのが根底です。

 小論はここから、そうした俳人兜太と産土・秩父との、希有とも言える濃密な一体関係の考察に入る。それは刊行された『金子兜太戦後俳句日記』第一、二巻を流れる、兜太ならではの興味深い第三の特徴といえる(第一、二の特徴については「海原」10・11・12、17・18・19号に)。

 まず、その好個な一文を『俳句日記』から。

 一九七七年(四月十七日)

 全集の自句自解に着手。〈からだ〉ということ、秩父(風土)との同体感ということ。〈からだ〉その存在を考え、〈自在〉にいたる。〈自在〉〈自在〉。

 テーマは、秩父ありて俳人兜太とその「土の思想」あり。そのため、あえて独立した論考としている。

 ㈠ 秩父と同体感の青年兜太

 俳人兜太の原点が、①産土・秩父と、②出陣したトラック島戦場体験にあることは、広く知られるようになった。しかしその「原点」なるものの捉え方が、今なお常識論の域にとどまってはいないか。

 兜太がそのトラック島戦場について、想像を絶する人間の極限体験の真実を、リアルに語り伝えたいと、小説「トラック島戦記」の執筆に二十二年もの歳月を投じていた、という隠れた事実は、『俳句日記』を中心に既に述べた。では秩父と兜太については、原点というに相応しい内容で、理解が深まっているだろうか。小論の問題意識は、そこにある。

 たとえばその判りやすい事例として、一九四三年秋、青年兜太が戦地へ出征するに当たって秩父強石こわいしの旅館で開かれた、壮行会の模様をどう見るかについて、少し立ち入って分析してみよう。そこでよく引用されるのが、兜太の俳句の師である加藤楸邨の「金子兜太といふ男」と題した、次の文章である。

 川にさし出た古い座敷は渦巻くやうな熱気で誰も彼も熱のかたまりのやうな集まりであった。そのうちに一人黙り、二人黙って、一同しいんとひとつの踊りに見とれてしまった。伊昔紅・兜太父子が踊り出したからである。しかもその踊りはすっかり着物をぬいで生れたままの姿なのである。父も子も声を合はせ、足どり手ぶりを合はせて、二本の白熱した線のやうに踊りつづけるのだった。

 私はずい分多くの若者を戦場に送ったが、こんなにふくらみのある明るい、それでいてかなしさの滲透した壮行は前にも後にもまったく経験したことがない。(「俳句」一九六八年九月号)

 今もって感動的なシーンだと思う。死地ともなる戦場へ赴くわが子への体ごとの餞として、秩父人らしく原初の姿で秩父音頭を踊りつづける父・伊昔紅(本名・元春)。その父の切なる想いを受けとめ、ともに丸裸で踊りまくる兜太。この純粋素朴な親子の心情は、私も同様、いたく胸を打たれる。

 だがしかし、俳人兜太の全人間的な評価が改めて問われる今日、そうした戦場へ向かう美談的な父子のエピソードだけに終わらせてよいものだろうか。そうした一面的な評価が今なお残っているが、それは戦後の兜太の生き方とも違うと思う。

 青年兜太は先にも紹介したが、トラック島からの引揚船上で、「自分に戦争参加の口実をつくって、むしろ積極的に戦争に参加していたという、そういう曖昧あいまいな生きざま」を「船酔い」だった、「二度と船酔いはすまい」(『わが戦後俳句史』)と、真剣に自省し自己痛打して、戦後の反戦平和の生きざまを確かと定めている。文字通り、そんな生涯を貫いた。

 師・楸邨がいたく感動し、戦後までしばしばその強烈な印象をエッセイにしている(最初は「寒雷」一九四三年十一月号「秩父の夜」)、その壮行会での伊昔紅・兜太父子の一糸纏わない秩父音頭踊りも、敗戦後に兜太が深刻に自己省察している、その「船酔い」の一つではなかったのか。いや、その象徴的な行為であったと思う。

 現に兜太自身、作家・半藤一利との対談集『今、日本人に知ってもらいたいこと』(二〇一一年刊)の中で、率直にこう語っている。

 戦争というのは、やはりすごい高揚感があるんですよ。俺なども勇ましく出征するという気持ちだったから、裸踊りをしたこともあったな。(中略)踊りながら死んでもいいと思いました。民族のためにいのちを捧げる。もしも勝利すれば、秩父の連中は豊かになる。そういう馬鹿みたいなことを思ってたんだよ。

 見るとおり、「踊りながら死んでもいい」と思うほど、戦争への高揚感があったようだ。兜太は自ら語っているように、少年の頃からリベラル志向が強く、旧制水戸高校の頃は先輩や教師たちの「自由人」ぶりに憧れ、それが誘引となって俳句に熱中している。東大生の頃は「感性の化物」みたいに、俳句だけに頭を突っこみながら、「オレは最後の自由人だ」と豪語さえしていた。

 それがどうして、大学の半年繰り上げ卒業が近づくにつれて「戦争に反駁しつつ戦闘を好み、血みどろな刺戟に身を置くことを望んだ。トラック島は好むところであった」(『少年』後記)と書くほど、心境が大きく動いたのか。「民族の防衛」といった大義名分だけで、そんなに高揚する兜太ではない。もっと内発的心情的に青年兜太を突き動かす、何物かがあったはずだ。――それがふるさと秩父だ、と私は思う。

 最晩年のインタビューで、兜太自身こう語っている。

 郷里の秩父は、養蚕で生活する町でした。それが昭和恐慌で繭の値段が暴落し、皆貧乏になった。郷里に帰ると集落の人が言うわけです。「兜太さん、戦争に行って勝ってくれ、そうすりゃわしらは楽になるだろう」と。学校にいるときには、戦争はくだらんと思っているのに、郷里の人に言われると妙に雄々しい気持ちになって、この郷里の人をなんとか救いたいと思う。敵地に行く以上は第一線で戦いたいと希望して、トラック島になったのです。(『金子兜太私が俳句だ』二〇一八年八月刊)

 これが兜太の本音だと考える。つまり好戦への内面の変化の中心は、なにより秩父にあった。その人間臭い村落共同体の貧しい秩父である。

 先の兜太壮行会の模様を感動的に書いた加藤楸邨エッセイは、戦後二十三年たって俳句総合誌「俳句」の〈特集・現代の作家〉の中で、兜太の作家論として書かれたもので、なぜ兜太が進んで戦争に参加したのか、父子で壮行の裸踊りをしたのか、その内面や背景にまで言及する文章ではなかった。

 むしろ戦時中、その感動の直後に主宰誌「寒雷」に書いた「秩父の夜」(前記)のほうが、秩父人ならではの雰囲気が立ち上っている感がある。

 伊昔紅氏はひよいと腰を低くして両手をひろげ、鷺の翔つやうな形で踊りはじめた。それはまことに素朴な繰り返しであった。然し、伊昔紅氏の老いた顔は何か宙を追ふやうに緊張し手の一拍足の一投はきりりきりりとすさまじい気魄が籠ってゐた。私は息を飲んだ。兜太はこれもぢっと父の横顔を凝視してゐる。……

 「よし、俺も踊る」。さういって兜太が立った。

 その壮行会の折に、こんな句が詠まれている。

  鵙の舌焔のごとし征かんとす 楸邨

  秋の灯に溢れし友よ今ぞ征かむ 兜太

 壮行の秩父の宿で、伊昔紅が家元である秩父音頭を、秩父人そのものの伊昔紅・兜太父子が生まれたままの姿でうたい、踊る――加藤楸邨が、「それは実にすさまじい瞬間であった」、私は「あふれくる泪をぢっとかみしめてゐた」と感激したのは、その秩父人の生身の心情のこもる、肉体もろともの表現ではなかったのか。

 ちなみに「オール読物」の二〇〇六年二月号に載った小沢昭一と金子兜太との対談「愉快、愉快!尿瓶健康のすすめ」(『悩むことはない』文庫版所収)では、こんなやり取りがはずんでいる。

 小沢 お別れの宴席で、お父様と二人で素っ裸で踊り狂ったという。……皆、感動したそうですが……裸が基調の父子なんですね(笑)。

 金子 その通り、その通り。秩父っていう山国自体が、そもそも裸暮らしが中心なんです。

 ここで肝要なことは、兜太の戦争参加とその壮行会での裸踊りの背景にあるものが、育ったふるさと秩父全体のひどい貧しさにあったことである。

 少青年期を通じての記憶といえば、山国の暮らしの「貧しさ」ばかりといってよい。昭和初期の農村不況は、わずようさんかな畑作と養蚕、山仕事で暮らすこの山里にも深刻だった。開業医(引用者注・兜太の父は村医者)の生活にもそれは端的にひびいていて、とにかく現金収入がなかった。(『酒止めようかどの本能と遊ぼうか』二〇〇七年刊)

 それほど秩父は貧しかった。秩父人の大方が、戦争で貧乏から抜け出せると思っていた。兜太には理屈でなく、そんな秩父人たちの心情への肌のふれ合う同体感があったのだ。つまり出征する兜太は、肉体ごと秩父人であったのである。

 ㈡ 俳句にみる兜太と秩父と戦争

 金子兜太と産土・秩父との同体感は、俳句作品を分析すればさらに鮮明となる。

 白梅や老子無心の旅に住む(昭12)

 この句は兜太にとって、文字通りの第一作であり、「兜太の俳句開眼」(安西篤)の句でもあった。そして「この一句が一生、私を俳句と別れられなくしてしまった」(『語る兜太』)と、兜太は言う。まさに俳人兜太にとって、人生的な作品である。

 それは旧制水戸高校一年(十八歳)の時である。兜太は、自由人として尊敬していた一年先輩の出沢珊太郎に強く勧誘され、水高句会に顔を出した。そこで「お前も句を作れ」と言われて困ったが、「よしやってみるか」ということで、即興的にひねったのが、この一句であった。

 意外に好評で、珊太郎から絶賛されたそうである。それですっかり自信を得て、以後、俳句のとりこになったのが正直な経緯のようだ。

 兜太はその処女作の偶然の出来栄えに、含羞もあって、今だに、それはちょっと前に読んでいた北原白秋の詩(筆者注・「老子は幽かに坐ってゐた。/はてしもない旅ではある、/無心にして無為。」)の本歌取りなんですよ、と謙虚である。『金子兜太自選自解99句』(二〇一二年刊)でも、こう書いている。

 時は二月、偕楽園の梅の季節。そこで、白梅と老子を結びつけた。確かに北原白秋の詩で、老子の旅に触れた作品を読んだばかりだった。

 この句について、安西篤が名著『金子兜太』(二〇〇一年刊)で「兜太の俳句開眼であった」と捉えているのは、鋭い洞察だと思う。その後に展開する兜太俳句の特徴である独自のリズム感と、スケールの大きい内面の映像化が、処女作にしてみごとに表現されているからである。

 では、この句の背後にある、青年兜太の内面とは何か。なぜここで、古代中国の思想家・老子なのか。――そこからふるさと秩父と兜太との同体化した繋がりが見えてくるのである。

 まず兜太は、俳人・池田澄子との対談集『兜太百句を読む』(二〇一一年刊)で、その当時の自分の気持ちをこう語っている。

 それから高校に入る頃特にですね。私は漂泊者とか放浪者とかいう者の句が好きだった。だもんだから山頭火と放哉、読んでたんですよ。作らないけど読んでた。それからそれに釣られて老子、荘子、老荘の思想っていうのにおぼろげな興味を持っていた。そんなことが土台にあったんでしょうな。(中略)

 その時自分の気持がね、そういう放哉とか山頭火に憧れる、あるいは老子、老荘の考えに憧れるというところがあったわけです。当時、田舎の連中はみんな戦争やりたくてしようがなかったんだ。戦争で生活が楽になると思ってるわけだ、貧乏だったからね。それで、学校で勉強していると、一部の学生ですけど、戦争はよくないと思っていた。私もそっちの方にかぶれてたからね、矛盾を感じていた。……つまりそういう心というか精神というか、精神状態が放浪状態にあったということかな。時勢に対する割り切りができなくて、……

 少し長い引用になったが、水戸で詠んだ兜太の処女句の背景、その内面に、十五年戦争下の秩父の人びととの、こんな複雑な情感の揺れがあったのである。兜太が老子、荘子の思想に興味をもち憧れを抱いたのも、そうした「精神の放浪状態」のもとで、青年らしく人間の真実のあり方を模索してのことだった。

 ここで言う老子、荘子の〈道タオ〉という思想は、時間・空間を超え、自然と一体となった、したがって「無心にして無為」という真の自由、ありのままの自己のあり方を探究するものである。老子は自由な漂泊者といわれている。まさしく「老子無心の旅に住む」の世界である。いつか線画で見たことがある、牛に乗った老子の映像が浮ぶ。

 先の対談集で、池田澄子が「これは定住漂泊ということですよね」と、その第一作から今日まで続く「はてしない旅」の表現に、感心していた。その通り、それから四十五年余たった『兜太俳句日記』でも、老荘思想にかかわるこんな記述が見られる。

 一九八三年(五月三十一日・63歳)

  一茶。読書を、『詩経国風』と『荘子』に集中することを決める。一茶のおかげを消化しないといけない。

 一九八九年(七月十九日・69歳)

  小生のなかに、〈天然と一体化〉の思想がますます熟している。

 述べてきたように、兜太の第一作の背景には、ふるさと秩父が原郷意識としてどんと坐っているのである。

 続いて兜太の初期の作品(第一句集『少年』・補遺『生長』所収)で、トラック島戦場へ出征する以前の、秩父と戦争にかかわる作品の中から、戦争への意識の変化を感じさせる俳句を、三態に分類して、簡潔に鳥瞰してみよう。

 ①蛾のまなこ赤光なれば海を恋う(昭15)

  曼珠沙華どれも腹出し秩父の子(昭17)

  山脈のひと隅あかし蚕このねむり(昭17)

 いずれも学生時代、秩父に帰った際に詠んだ兜太の佳吟・代表句である。そこには青年特有の清潔な抒情感とロマンチズムが、秩父の風土にふれ、いきいきと表出されている。秩父の自然児・兜太ならではの視点やモチーフが、きらり光っている。これらの第一態の句では、戦争へのただならぬ空気はまだ言葉には出ていない。

 一句目。秩父で寝起きしている土蔵の窓に、灯火をもとめて蛾が飛び込んできた。大きな真っ赤な眼、それを「赤光」と見たてた。斎藤茂吉の歌集『赤光』に因んだ閃きだろう。それに喚起されて山国育ちの青年の夢、「海を恋う」の淡い心情が広がる。

 二句目。曼珠沙華のいっぱい咲く畑径を、腹丸出しで走る秩父の子どもたち。「どれも」である。オレもそうだった。その「親しみから思わず、それこそ湧くように出来た句」(『いま兜太は』)だという。この肉体的同体感。

 三句目。夕陽を受けて一角だけ赤くなった秩父盆地。桑を食べ蚕がねむる刻だ。養蚕農家の疲れた情景が浮ぶ。懐かしいふるさとよ。

 いずれも山国秩父の素朴な日常を詠む、澄んだ感性の句である。そこへ、国を挙げての戦争の現実が迫っていた。

 ②日日いらだたし炎天の一角に喇叭鳴る(昭15)

  富士を去る日焼けし腕の時計澄み(昭16)

  霧の夜のわが身に近く馬歩む(昭17)

 これらを作句した昭和十五(一九四〇)年には、戦争への国民総動員の体制がしかれ、翌十六(一九四一)年十二月には太平洋戦争が勃発する。そんな時代相が、これらの作品に滲んでいる。この時期、大学生で俳句に熱中していた兜太は、「自由人」でありたし、されど国民と秩父あげての好戦的雰囲気に、内面の苦悩と鬱屈感が続いていた。そうした青春の体感を詠んだのが、第二態といえる句群である。

 一句目。東京の本郷あたりでの作だろうか。そんな世相への青年の鬱々した多感な心情を、「日日いらだたし」とずばり表現する。「喇叭」はその頃よく耳にした、陸軍の行進ラッパか。しかも炎天下である。

 二句目。大学一年のとき、東富士の裾野で正科として軍事教練が行われた。ゲートルを巻き歩兵銃を持って十日間、軍隊さながらの演習で顔も腕も真っ黒に日焼けした。それが終了し、なじんできた富士よさらばの感懐を、「日焼けし腕の時計澄み」と具象している。しかし長く厳しかった教練に関しては一語もなく、ただ青年の健康で清潔な腕と時計をぐいと示すだけ。批評性を感じさせる。

 三句目。山国秩父での作。当時、秩父にも炭馬、耕馬がたくさん飼われ、道でよく出会った。ある霧ふかい夜、身近かに馬の体温を感じながら並ぶように歩いた。生きもの同士である。それに馬たちも、軍馬として戦場へ次々と動員されている時世、「わが身」と重ね、何とも言えぬ親しみをしみじみと感じるのだ。

 ③過去はなし秋の砂中に蹠埋め(昭18)

  秋幮の父子に日の出の栄満ち来(昭18)

  冬山を父母がそびらに置きて征く(昭19)

 これら三態目の句になると、過去は過去として、参戦への気持ちの上での割り切りが感じられる。山本五十六元帥の国葬(昭和十八年六月五日)の頃までは、「国の喪や身にまつわりて蠅ひとつ」という句でみるように、個人的には「先見の明」があった山本五十六に尊敬の念を持ちつつも、「身にまつわりて蠅ひとつ」と、戦争への不快感を隠していない。

 それが同年九月頃になると、「入隊を前に父と千葉県白浜にゆく・八句」(『少年』)「(同じく)南総に遊ぶ・十七句」(『生長』)でみるように、よほどの感の高揚があってか、二句目「父子に日の出の栄満ち来」を始め、計二十五句もの俳句を詠んでいる。幼少の頃、父と毎夏きていた南総への久方ぶりの、そしてそれが最後となるかも知れない二人旅であった。

 兜太が秩父のおおかたの好戦的気分を、すべて我がものとしたのは、一九四三(昭和十八)年六月から九月頃までの時期か。秩父人同士の父子の同体感は、いちだんと深まり合っていたようだ。

 その直後に、先に述べた奥秩父での父子もろともの秩父音頭裸踊りの壮行の宴となるわけである。

(つづく)

新シリーズ◆これからの掲載内容

 ㈢父・伊昔紅と俳人兜太の原質形成

  『俳句日記』にみる父子の肉体感/「風土は肉体なり」の実相

 ㈣山影情念と兜太の中の秩父事件

  秩父人兜太の人生課題/秩父事件研究史上の俳人兜太の存在

 ㈤産土から――「土の思想」の深化

  妻・皆子と秩父の「土」/土の自由人――俳人兜太の哲学考

 ㈥秩父に発した俳句と哲学

  兜太の思想体系とその俳句/「おおかみ俳句」の新考察