子規の「写生」と兜太の「造型」の相同性についてツァラとレーニンに訊く
https://weekly-haiku.blogspot.com/2010/09/7.html 【子規の「写生」と兜太の「造型」の相同性についてツァラとレーニンに訊く】関 悦史 より
既に周知のとおり、週刊俳句の編集に当たってくれている山口優夢氏が望月周氏とともに第56回角川俳句賞をめでたく受賞した。「俳句」11月号での作品と選考会の発表が待たれる。
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「俳句研究2010年[秋の号]」が出たので、前回少し触れた仁平勝の連載「おとなの文学」のマクガフィン(無意味であるがゆえに機能するもの)論の続きを見る。
いわゆる二物衝撃について、仁平勝は藤田湘子『実作俳句入門』から二物(A=季語、B=それ以外のフレーズ)は意味で響きあうのではないという部分を引き以下のような句を例示する。
廻されて電球ともる一葉忌 鷹羽狩行
夏桔梗老女の帯のたしかさよ 草間時彦
これらの句では「一葉忌」「夏桔梗」が季語だが、この季語部分はそれ以外の部分と意味で結びついているわけではない、つまりこれらは暗喩ではなくマクガフィンだというのだが、この言葉は内田樹の『映画の構造分析』から来ているらしく、今回は以下の部分が引用されている(なお物語を起動させるものとしてのマクガフィンについてはウィキペディアの「マクガフィン」の項目に『映画術』からヒッチコック自身の言葉が引かれているのでそちらを参照 ≫Wikipedia)。
《ヒッチコックが看破したとおり、物語を起動させる力はマクガフィンから由来します。マクガフィンが発信するメッセージは「それが意味することの取り消しを求める」ということただ一つであり、それこそすべての人々を終わりなき欲望の運動のうちに巻き込むものなのです。》
意味上二物は離れていなければならず、にもかかわらず、というより、それゆえに二物が「終わりなき欲望の運動」を組織するというのはその限りではいいとして、それが俳句が「座の文学」であることの論拠に据えられてしまうと違和感を禁じえない。
《座とはすなわち、たとえば句会で主宰が「Bに対してAでなければならぬ」といえば、参加者たちがごく自然に納得する場のことだ、つまり「Bに対してAでなければならぬ」という意見が共有される座(句会あるいは結社、広くてもせいぜい俳壇)の内部でしか「二物衝撃」は成立しない。
あらためて強調しておくが、「二物衝撃」とはあくまでも俳句に固有のレトリックである。それは取合せという俳諧の手法が、題材を「曲輪の外」に求めてきたという、座の文学の歴史を抜きにして語ることはできない。ようは新鮮な取合せを求める俳人たちの「終わりなき欲望の運動」がもたらした、俳句だけのお家事情なのです。》
仁平勝「おとなの文学(26) マクガフィン(下の三)」(「俳句研究2010年[秋の号]」 65頁)
私個人は俳句を作り始める以前から、つまりいわゆる「座」の共有とは無縁の地点にいた頃から、詩の一形式として俳句を普通に読んできた。無論そこには二物衝撃の句も含まれる。私はそうした作りの佳句が放射する謎を、詩が開くべき広大な領域への通路の一種と受け取っていたし、また例えば、生前少なくとも座の文学としての俳句を経験したことはおそらくなかったであろうダダの創始者の一人、トリスタン・ツァラがピエール・ルヴェルディの詩作品を論じて、次のような卓抜な二物衝撃論と取れる短文を草したりしてもいるのだ。
《詩的イマージュが、ルヴェルディの詩観を曲解したある批評家たちが主張するように、たがいにかけ離れた各要素の必然性も感動も伴わない冷たい偶然の出会いにすぎないのだとすれば、詩は単なる言葉の操作演習に堕してしまうであろう。(中略)イマージュの精製を主宰する出会いが実効あるものとなるためには、生きられたもの、すなわち感じられ、見られ、詩人の生にとって不可欠な意味を持つモメントに置換され表現されたもの、還元すれば、無動機、無根拠なものではなく、未来の発展に役立つ短絡表現(ラクールシ)であり、詩人の世界像全体に結びついた感動の一単位であり、絶えざる生成発展に必須の一環でなければならない。(中略)詩は行動する。詩は思考の働きに連携するものであり、そのことによって、生命初原の基礎に一致するのであり、認識の方法となりうるのである。》
《ルヴェルディは体験した現実をそれぞれ唯一独特な要素に分解した後、新しい詩的現実を創造するため、かれのみが知る構成法に則ってこれらの要素を配置する、そして、詩はひとつの完全な均衡ある霊感の息吹きを保った閉鎖宇宙となるといえよう。》
トリスタン・ツァラ「ピエール・ルヴェルディの作品におけるイマージュの孤独について」(『詩の堰』宮原庸太郎訳 書肆山田 1989年 270~271頁)
「均衡ある閉鎖宇宙」云々は俳句といささかずれを生じる地点かもしれないが、ルヴェルディの詩における「かけ離れた各要素」が「詩人の世界像全体に結びついた感動の一単位」「絶えざる生成発展に必須の一環」と捉えられ、さらにそこから「生命初原の基礎に一致する」という開けを望見するに至る点は、二物衝撃句の読解にあたって大きな示唆をもたらし得る。さらに先走って言ってしまえば「体験した現実をそれぞれ唯一独特な要素に分解した後、新しい詩的現実を創造するため、かれのみが知る構成法に則ってこれらの要素を配置する」という一節からは金子兜太の造型俳句論への親近性も感じないわけにはいかないが、これについては後で触れる。
この仁平勝の二物衝撃論は前号を見返すと、子規の「写生」を論じる中から派生しているらしい。
《たぶん、俳人たちはあまり気づいていないが、近代俳句における写生とは、じつは取合せに新鮮さを求める方法意識から出てきたものだ。芭蕉が「題の中より出づる事は、よき事はたまたまにて皆ふるし」といったために、許六はひたすら取合せの題材を「曲輪の外」に求めたが、やがて時代とともにそれもマンネリになってきた。そこで俳句を近代化しようとした子規は、さらに新たな「曲輪の外」を求めて、写生という方法に行き着いたのである。》
仁平勝「おとなの文学(25) マクガフィン(下の二)」(「俳句研究2010年[夏の号]」 68頁)
取合せ(配合)の陳腐さを脱するために写生という方法が要請され、それが有効であったという一面は確かにあるのかもしれないのだが、こうした手法的な次元で話が終わってしまうのだとすれば子規の「写生」が抱え持っていた潜勢力の大きさを取り逃がすおそれがある。
《子規の「写生」が、手法面に大きく傾いて受けとられてきたことに不満がある》と述べているのが他でもない金子兜太である。先頃出版された『正岡子規の世界』において、子規の「俳諧反故籠」を閲しつつ兜太が言うところは次のようなものだ
《ここでは想像力や思念を排しているのではない。(中略)いたずらに頭を使ってつくり上げた俳句の空疎化を言っているわけで、実際の生きた景をとことん大切にせよ、それによって胸中の想念を伝えよ、それが「写生」なり、と言っているのである。》
《 混沌ガ二ツニ分レ天トナリ土トナルその土ガタワレハ
われは「土ガタ」なりと明言する子規はだから徒らに虚を凝らした写生には賛成しない。しかし〈維新の子〉の内奥のダイナミズムは虚を実景に込めて、つまり実景によって伝える道を求めていた。〈実に執し実を活かす〉詩法、虚を呑みこんだ実を捕える詩法を「写生」に求めていたのである。したがって、子規が究極で求めていたものは〈実景による暗喩〉ではなかったのか、と私は思っているのだが、その実現を次のような句に見ている。これも死の前々年の作。
鶏頭の十四五本もありぬべし》
金子兜太「子規の「写生」」(『俳句』編集部編『正岡子規の世界』角川学芸出版 2010年 20~21頁)
「実景による暗喩」の「暗喩」の語に字義通りに捕われる必要はおそらくあまりない。さしあたりここでは兜太が子規の写生論を言表不能な「虚」を「実景実事実情」から掴み取るものとして捉えていることが確認できればよい。
詩、引いてはあらゆる芸術は持続(日常の時間)と永遠という二種類の異質な時間のはざまにあり、それらを重ね合わせようとする。《〈持続〉は〈永遠〉と対立する。永遠には始まりなどないし、この永遠ということばは一定不変の、まったき活動能力を有するものについて言われるからである。永遠は無際限の持続でもなければ、この持続の後に〔死後、来世において〕始まる何かでもない。永遠は、持続と共存しているのである》と言うのは『スピノザ―実践の哲学』(鈴木雅大訳 平凡社 1994年)のジル・ドゥルーズである。この「永遠」と「持続」は、芭蕉の言い方で言えば「不易流行」となり、虚子の言い方では「花鳥諷詠」と「客観写生」へとやや位相をずらしつつ別れる。E・M・シオラン流に『歴史とユートピア』という言い方にも変形できるかもしれない。「不易」「花鳥諷詠」「ユートピア」はそれぞれ皆永遠の側を表し、「流行」「客観写生」「歴史」はそれぞれ皆持続の側を表すとしよう。
ではその際、子規の「写生」とは何なのか。それは〈持続〉と〈永遠〉という全く次元の異なる領域を、外部の事物に活き活きと就くことで一挙に一元化してしまおうとする極めて直接的でダイナミックな方法だったのであり、そして兜太の「造型」こそはそのヴァリエーションともいうべき、子規の「写生」の潜勢力を極めて完全に近い形で引き継いだ正統な後継者だったのではないかというのが、現在の私の見通しである。
ここでいささか唐突ながら参照しておきたい示唆的な書物が中沢新一『はじまりのレーニン』である。
子規の3歳下にあたる、つまりほとんど子規と同世代で同時代を体験したレーニンについて、行動を供にしてきたトロツキーがその若き日の姿を活き活きと書き残している。漁師の指導のもとに初めて魚を釣ってみるレーニン、紛糾する合議の最中に紛れ込んできた犬の腹を突然撫で、同時に重大な決断を下すレーニンの姿を引き、中沢新一はレーニンの「客観」についてこう語り直す。
《一九一七年一〇月の決断もふくめて、レーニンの決断はすべて、この意識と無意識の接触面でおこなわれたのだ。ドリン・ドリン! 魚の生命と人間の技術が接触をおこす、釣り針の先。やわらかい犬の腹に触れる、デリケートな手のひらの上。子供の頭をなでる手のひらが毛髪に接触をおこすところ。ある音が別の音に移行していく、音楽が実現する一瞬一瞬の「間」。そこで、人間の意識は、自然と生命と無意識のしめす、思考の外のしなやかな「客観」の運動に触れる。そのとき、「客観」がレーニンに何かを告げる。彼は決断する。》
中沢新一『はじまりのレーニン』(岩波現代文庫 2005年 12~13頁)
《……レーニン的唯物論は、その「物自体」、その「知りえぬもの」の内部にわけいって、思考がその外にあるものに接触していく「実践」の運動の重要性を主張したのだ。実践としての唯物論は、トロツキーの書いているように、「思考の外にあるもの、科学的探究の外にあるもののごく近くにあって」、まるで子供の頭をなでるようにして、あるいはまるで犬のおなかをさするようにして、その「思考の外」や「科学的探究の外」としてあるものの内部を感知しようとする、知性の働きにほかならない。だから、唯物論者であるレーニンは、自分のからだを笑いに波打たせているものの本質を、「知りえぬもの」とは言わない。》
(同書 24頁)
《客観は人間の意識の絶対的な外部にあるのだ。(中略)レーニンの「客観」は記号論も、社会学も、現象学も、心理学も破壊したところに出現する、おそるべき概念なのだ。彼はそれを、「物質」とか「絶対的自然」という言葉をつかって、表現しようとしている。それは、無限の深さと、無限の力能と、無限の階層性と、無限の運動をはらんで、人間の意識の外に、実在している。意識はその物質の運動の中から形成され、自分の中に、物質を反映ないし模写する。(中略)意識と物質は、同一でありながら、たがいに異和的であり、この同一=異和の関係をとおして、意識は客観を「反映」するのだ。》
(同書 53~54頁)
子規の食物や写生画(見るだけではなく病床で自分で筆をとっていた)への関心、無限の作業と自覚した上での俳句分類といった営為、若い頃の哲学志向、病床における異様な活動力などは子規がこうした「物質」の「無限の力能」に極めて近いところにいた、少なくともその近辺を目指していたのではないかと思わせる。その結果できた句群が、陳腐ではないとしても含みに乏しい、無条件に名句と言うにはためらわれる作ばかりと見えるとしても、その見た目の平板さは「無限の力能」を例えば「不易」と「流行」に分けて重層化させることなく一元化してしまおうとする力と意志に貫かれたものであるかもしれないのだ。
「俳句研究」には「読み直す評論」という連載もあり、今回第3回は、筑紫磐井が金子兜太の造型俳句論を《前衛俳句にとどまらない卓抜な思想が展開されている。その意味では、兜太の造型俳句論を現代の目で読み直してみる必要が生じている》として取り上げている。
《兜太は、近代俳句を常に発展段階的に図示した。諷詠的傾向[花鳥諷詠(虚子)と人生諷詠(波郷)]→表現的傾向[象徴的傾向(楸邨・草田男)と主体的傾向(誓子、赤黄男、三鬼)]に歴史的事実を置く表現史論なのだ。(中略)これらを俳句表現の進化の段階に位置づけ、科学的な進化理論を提供したのは兜太一人であったように思う。造型俳句論という背骨があったからこそできた史観なのだ。》
筑紫磐井「造型俳句論の再吟味」(「俳句研究2010年[秋の号]」 268頁)
つまり俳句表現の歴史に、風俗・ゴシップ史的なそれとは全く次元の異なる筋の通った史観を提供する背骨を成したというのが再評価の力点になっているが、ここでは子規の「写生」との関連から造型論を見直してみたい。
いわゆる造型俳句論というのは「俳句の造型について」(「俳句」1957年2~3月)と「造型俳句六章」(「俳句」1961年1~6月)という二つの論文だが、前者の構成を筑紫磐井が整理要約した中に次の部分がある。
《(3)造型俳句の7箇条をあげる。①俳句を作るとき感覚が先行する。②感覚の内容を意識で吟味する(それは「創る自分」が表現のために行なうもの。③「創る自分」の作業過程を「造型」と呼ぶ。④)作業の後「創る自分」がイメージを獲得する。⑤イメージは暗喩を求める。⑥超現実は作業の一部に過ぎない。⑦従って「造型」とは現実の表現のための方法である。》
虚子の「客観写生」がどこかスタティックで、子規の「写生」から重要な何かが失われていると直観している兜太が、虚子の時代を経た後に再び対抗的に組織し直した、これは子規の写生論そのものなのではないか。子規の「俳諧反故籠」を見直してみよう。
《無秩序に排列せられたる美を秩序的に排列し、不規則に配合せられたる玉を規則的に配合するは俳人の手柄なり。故に実景を詠ずる場合にも醜なる処を捨てゝ美なる処のみを取らざるべからず。又時によりては少しづゝ実景実物の位置を変じ、或は主観的に外物を取り来りて実景を修飾することさへあり》
正岡子規「俳諧反故籠」 仁平勝「おとなの文学(25) マクガフィン(下の二)」(「俳句研究2010年[夏の号]」 68頁から孫引き)
子規の言う「無秩序に排列せられたる美」とは師匠の手本絵などではないなまの外界に対して「感覚が先行」させられている状態に他ならないし、「不規則に配合せられたる玉を規則的に配合する」とは「感覚の内容を意識で吟味」した上での「造型」に他ならない。
「造型」「創る自分」という語は誤解を呼びやすい。外界・客観・自然の成り立ちを無視した恣意的な構成物といったものを連想させるからだが、筑紫磐井文によると後に書かれた「造型俳句六章」では、これらの語は後退しているらしい。
「造型俳句六章」の末尾の一章が今号の「俳句研究」に再掲されているのだが、そこではまず、「諷詠的傾向」に対立するものとして、「象徴的傾向」(草田男等)、「主体的傾向」の二つが上げられる。後者は明示されてはいないが兜太自身の拠って立つところと取れる。そして「象徴的傾向」は「個我の直接的な結像」を、「主体的傾向」は「主体の構成的な表出」を目指すとする。《西東三鬼が前者を「吐く」もの、後者を「作る」ものといっていますが、直感的にはこれでよいと思います。》
極めて説明しにくいところなので、「構成的な表出」とか「作る」といった語が出てきてしまい、その結果、どうしても恣意性や強引さのイメージが付きまとうことになるのだが、しかし注意すべきなのは、兜太がここで、個我に執着する「象徴的傾向」の安定性に対し、「主体的傾向」における「主体」の不安定さを述べていることなのだ。
《一方、主体的傾向にとっては、人間の存在はそれほど楽天的ではありません。相対的関心が拡大するにつれ、主体は対他的意味にとらわれ、一義的な自己偏執をさまたげられます。自然的・人間的な純性に拘泥することは、一見はなばなしいが、その実、人間の内面を簡単に割り切って、何事も説明していない場合が多いという結果になります。楽天的といわれる所以でしょう。
そのため、主体にとっては、むしろ主体自身の存在感の全容が問題として意識されるわけです。このことは、主体の現実性を、いつも表現において問いただしていることだ、ともいえます》
金子兜太「造型俳句六章」(「俳句研究2010年[秋の号]」に抜粋再掲載 271頁)
つまり兜太のいう「主体」とは境界に位置するものなのである。確固たる主体が先にあってそれが外界をねじ伏せるように表出することが造型論の本義なのではない。この主体を圧迫する「対他的意味」は論が書かれた当時には専ら社会的関係の中での生活・意識といったものに比重が傾いていたのかもしれないが、現在の兜太がアニミストを自称し、生命に関心が移っていることは周知のとおりである。これを単なる肉体的な加齢のゆえなどと思ってはならない。それだけのことであれば現在の兜太の存在感はあり得まい。兜太のいう「主体」とは、そもそもが「意識と無意識の接触面」なのであり、「物質」や「絶対的自然」の「無限の深さ」「無限の力能」へと開け得ることこそを最大の可能性として予め持っているものだったのだ。
ところで今回たまたま同時に触れることになった仁平勝と金子兜太という並びから思い出される一節がある。勝原士郎が昨年刊行した、筋目を通していて教えられるところの多い評論集『拾う木の実は―同時代俳句不審紙』に「『俳句の射程』(仁平勝)を読む」と題する書評が収録されているのだが、その末尾である。
勝原士郎は仁平勝の言う「俳句の本質論の確立」には、詩型、音律の独自性や独特のメカニズムの追尋だけに留まらず、文学としてのありかたもおろそかにはできないと苦言を呈した上でこう述べているのだ。
《桑原武夫の「第二芸術論」にショックを受けた人たちは、「俳句が第一芸術(?)であることを証明しようとして、社会性俳句、前衛俳句、根源俳句といった新商品」を開発したと著者は言う。「○○俳句」といった時代の新商品云々と。○○俳句は戦後のあだ花であったとみなす著者の持論の繰り返しは、これを「戦後レジームからの脱却」の俳句版と言わずしてなんであろう。
著者が切って捨ててかえりみぬ○○俳句に深くかかわったひとりである金子兜太は、それらの運動の時期を、自らの年輪にきわやかに刻み込んで、著者の安手の評語とは対照的にその存在感を示して重い。》
勝原士郎『拾う木の実は―同時代俳句不審紙』(北宋社・2009年 329頁)
ここから直接敷衍され得る話ではないのだが、ここを読んで私は、兜太の俳句大衆化への熱意、ときに「一千万人」[1]などと口走ってしまったりもする俳句人口の多寡へのこだわりは、「第二芸術論」のトラウマに発しているのではないかとの思いが湧いた。
《俳句は一流性と大衆性の双方を包括する国民文芸なりと、確信する私は、虚子の大衆化のその底に、子規の「写生」を確実に掌握しておきたいと願っているのである》(前出「子規の「写生」」)と、今でも兜太の「国民文芸」への思いは衰えていない。もしその根底に桑原武夫の暴論への抵抗が潜んでいるのだとすれば傷ましいこととも思うが、同じ大衆化とはいっても、写生を上達マニュアルのようなものに変質させてしまった「虚子の大衆化」と「一流性と大衆性の双方を包括する国民文芸」とをきっぱり区別し、その上でユートピアの如き後者を目指すというのは、兜太のうちにあって兜太を突き動かし、「無限の力能」を志向する力の現われの一つであり、その旺盛な作句力と表裏一体を成すものであるのかもしれない。