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「道半ばの退陣」保守再興をめざした広瀬政権の軌跡

2021.04.10 09:43

16日に退陣する広瀬内閣。在任期間は330日と歴代でも短命の内閣となった。広瀬政権は、2009年の政権交代後から10年余り続いた「保守乱立」の時代を終焉へと導き、保守再興を目指した。しかし、2月の脳梗塞以降健康不安が囁かれる広瀬総理大臣は、3月初旬に退陣を表明。次期総裁を裁定した広瀬裁定を下し、次期首相である建倍義和氏へとバトンを引き継ぐ。今回はそんな広瀬内閣が歩んだ1年の奇跡を振り返る。


保守党を「歴史的大勝」へ導いたリベラル

20年5月に行われた第48回衆議院選挙では、与党立民党の支持率低迷を受け、野党への10年ぶり本格的政権交代の可能性が囁かれた。17年9月に総裁に就任した広瀬氏は、元々はリベラル系派閥として知られる慶知会出身。かつては祇園政郎元首相の弟子として祇園派に在籍していたこともあるが、2009年の祇園の乱をきっかけに疎遠となった。祇園氏からは「リベラル広尋」と言われたこともある。

そんなリベラル広尋は、保守党実績と党人事の刷新で保守党を300議席という大勝へ導いた。

「首相になる気はあまりなかった」

広瀬氏は5月の衆院選は「青天の霹靂」だったと語り、「もし衆院選がなかったら自身は総裁を退いていて、首相になる気はあまりなかった」と発言したことがある。このことは就任直前だったことで波紋を呼んだことから広瀬内閣は「青天の霹靂内閣」と呼称された。

広瀬氏は外交経験が豊富な水城弘子氏を外相に起用。またベテランの弓下氏を財務相に据えるなど基盤の強い内閣を組閣。広瀬内閣は最初の発言から一転し支持率は73%と言う好スタートを切った。


「弱腰外交」の批判も 尖閣諸島有事

安定した政権運営を行っていた広瀬政権だったが、安定した外交は「非常時」には弱かった。内閣改造時に起用した彼杵国防相の対応の曖昧さ、大渕外務相の行動、そして広瀬氏自身の陣頭指揮の悪さが相まって尖閣諸島が清華に占領、初の本格的な戦争危機を迎えた日本。内閣支持率は急落し、弱腰外交という痛烈な批判を受けた。

与野党内外からのさまざまな声に、広瀬氏は米国に解決の手段を委ねた。米国仲介とG7等の対応により、なんとか結んだバンクーバー協定。最後まで迷走を行った対応だった。

石垣島など、占領した諸諸島への対応は現在でも不透明な点が大きく、日本の国防体制が大きく見直されるきっかけともなった。広瀬氏はリベラル派や有事に対する対応不足と言う壁にぶつかり、その後の政権運営の不安定化につながっていった。


突然の脳梗塞 道半ばでの退陣へ

広瀬首相は年明けから、会見時に記者などからの受け答えが不安定になることが多くなり、健康不安が囁かれてきた。広瀬氏は年頭所管において「強い外交」を謳ったが、年明け早々に当たった課題は自身の健康問題であったようだ。

2月16日、官邸には救急車のサイレン音が響いた。閣議後に体調が急変し、弓下副総理が救急車を手配した。同日、広瀬氏は入院。軽い脳梗塞と診断された。弓下氏が臨時総理を兼務。26日、自身が退陣することを記者会見で表明し、その後同じ派閥の後輩である建倍義和官房長官を後継に指定した。

保守再興という使命のもと、道半ばでの退陣となった。

「リベラル宰相」今後の展望は

首相としての職を離れる広瀬氏は、衆院議員として活動しながら脳梗塞のリハビリと治療に専念することを明かしている。後の本命総理とも言われる日高氏とは面会を重ね、緊密に距離を縮めていることから、将来の「日高内閣」で入閣する可能性もあるだろう。

いずれにせよ、今後もリベラル宰相は存在感を残し、日本保守党の重鎮として活躍していくことは間違いない。