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今を生きて老い思わず・俳人金子兜太 91歳の人生訓

2018.04.10 13:42

https://72463743.at.webry.info/201011/article_6.html 【原郷をまっとうに生きる/金子兜太・皆子夫妻 生きるということ 俳句の可能性 俳句の風景】より

曼珠沙華ふりむく度に咲いてけり 玉宗

「今を生きて老い思わずと去年今年 兜太」

三日夜7時半、NHKで「今を生きて老い思わず・俳人金子兜太 91歳の人生訓」という三十分番組が放映された。私見を交えてご紹介したい。

そこには愛妻の死を乗り越えどっしりと生きる兜太先生の姿があった。そして四年前に亡くなった皆子先生の、私の知らない深い人生の味わい。熊谷の自宅には私も何度かおじゃましたことがあるが、書斎の前に広がる庭が印象的であった。今では森のようになった庭は、四十年以上も前に夫人が二人の故郷である秩父から苗木を取り寄せて育てたものだった。木々には皆子夫人の魂が宿っている。ここにいるあらゆる生き物が兜太の創造力を高めて来た。「土に生きなければ、あなたは駄目になる」という夫人の言葉は「生の俳人・金子兜太」の生きる姿勢を決定付ける後押しとなったのであろう。

兜太・皆子両氏には一方ならぬ世話になっている。得度式に参列して戴いたことは勿論、短かったが熊谷でのお付き合いなどが思い出される。皆子夫人は秩父の山にキューイフルーツを植えていらして、私に見せてくれたことがある。皆子夫人の、あの穏やか物腰ともの言い、そして大概の事には動じない様な雰囲気が懐かしく思い出されて思わず泣けて来た。

若き兜太は昭和十九年、二十五才で出征し、トラック島での過酷な戦争体験を生き抜き戦後秩父に戻り、町の目医者の娘落合皆子と出合う。無邪気とも言える明るい感性が、戦争を潜り抜け鬱々と生きていた兜太にはキラキラと輝く存在であったという。昭和二十三年に結婚。一人息子に「真土」と名付けるふたりであった。その頃から皆子も俳句を始める。戦後の「風」に所属し、結社賞も受賞している。二人は最初から最後まで互いの感性を大切にし合う創作上のパートナーでもあった。

五十代の頃、寝床での二人の会話が紹介された。

皆子 「あなたは、何を目的に生きていますか?ごく、素朴なところで・・」

兜太 「ここに二人の人間がいて、まっとうに生きていた。ということだけでよかろう。長く、まっとうに生きたい」

兜太は野性味に溢れた自然児のように思われているが、情の濃やかな人間でもある。そこにはおっとりとしているようで芯の強い妻である夫人の他者が覗い知れない夫への心の通い合いと葛藤があったに違いない。平成九年皆子は腎臓癌を告知される。

兜太は述懐するのである。

「皆子が私に言うんですよ。腎臓癌というものは心労によるものが原因であることが多いそうですね。あなたは私に苦労を掛けました。率直に言って、あなたの責任だと思っていいですか?ってね。まあ、笑いながら言うんだけれどね。私は、ああ、それでいいよ。俺もそう思っている。俺の責任だということにすれば、さっぱりするだろう。なにくそと思って、闘病してほしいという思いがあったな。強く生きて貰いたいという・・・」

二人の九年に及ぶ生きるための闘いが始まっていた。そんな日々の中で曼珠沙華は二人にとって特別な花としてあった。因みに、兜太には若き日の「秩父の子どれも腹出し曼珠沙華 兜太」という無防備に明るい自然児然たる有名な先行句がある。

闘病の真っ只中であった皆子は、ある日、庭の曼珠沙華を見て、思いのたけを絞り出すように、「曼荼羅曼珠沙華」として四十句余の曼珠沙華の群作を作る。表現することにより、前向き生きようとしていたのだった。花に、俳句に救われる奇跡を歩んでいたのである。

雨の香のたちこめてくる曼珠沙華

移りゆき見えてくるもの曼珠沙華

涙溢れる天蓋の曼珠沙華

骨のあらわに癒えてゆく日々曼珠沙華

なつかしきもの土の花曼珠沙華

胸に置き乳房かと思う曼珠沙華

鳥はさえずる光りなり曼珠沙華

兜太も又、そんな夫人へ

「闘病の気韻の花びらを積みて 兜太」

という一句をものにする。ここには、俳句を作ることによって病にうちかってほしいという思いが流れていよう。

「夫は遠くにいつも遠くに鱗雲 皆子」

闘病中の様々な心模様も、生きる気力を振り絞っている夫人の姿として喜ぶ兜太。ある日、皆子が入院している近くで講演することがあった。皆子は兜太に知られぬように病院を抜け出し、会場の隅で誰にも気付かれぬ様に聞いていた。兜太もまた皆子がいるとは知らなかった。彼はそこで自分の皆子への想い、情を人前で熱く語ったという。「自分は家内を愛している」と。

皆子は二人の縁の強さ、深さを改めて感じたらしい。次の一句を認めた。

「木の実たち金剛の紐で繋がり 皆子」

平成十八年三月二日、金子皆子永眠。告知から九年、皆子は兜太と共に俳句を作り続け生き抜いた。

兜太が夫人への想いを詠んだ句がある。

「妻と見ていた原郷の月曼珠沙華 兜太」

曼珠沙華は皆子に生きる気力を取り戻させた花でもあった。そしてそれは、二人が共に生きた故郷・秩父の花でもあり、人生を生きぬく度に咲いていた原郷の花でもあっただろう。そのような余人の覗い知れない二人の心に息づく、懐かしい風景がある。その原郷の月を仰ぐ人は夫人より他にいなのだという。ここには若き日のような手放しの無邪気さはないが、人としてまっとうに生きて来た兜太の、ひとりごころとふたりごころに通じる情の味わいがある。

今年九十一歳になる兜太先生。昨年、興禅寺に来て頂いた折には、往年と変わらぬ、颯爽とした姿に恐れ入ったものだったが、皆子夫人との永別から三年の月日であったことを思えば、未だ胸奥に夫人への想いが燠のように灯り続けていたのには違いない。私がお悔みを申しあげると兜太先生は言ったものだった。

「ありがとう。皆子も君がお寺を再建し、立派なお坊さんになってくれたことを喜んでいるだろう。体を大事に、無理なく生きていきなさい。無理なく、自然にな」

番組の最期、毎週六千句にも及ぶ投句がある朝日俳壇の選句をされている映像が映し出された。年齢的にみればもう若いものに譲ってもいいのだが、そう思うと愈々譲りたくない、死ぬまでやると仰る。

書斎の前に広がる森のような庭からも、家族からも、亡くなって行った者からも、勿論、俳句からも、すべてのものから力を貰い、今日をどっしりと生きている金子兜太。

番組の最後、「91歳の目標は何ですか?」という記者の問いかけに先生は次のように応えていた。

「そんなものはねえっちゃ。んなものはねえんだよ。ただ、こうなったんだってことなんだよ。要するに、その辺にたって立ち小便しているのと同じこっちゃ。」

原郷をまっとうに生きる自然児・金子兜太は死ぬまで健在であろう。


http://yongoiti.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/91-dc90.html 【俳人金子兜太さん 91歳「今生きて老い思わずと・・・」】 より 

3日放送の「今は生きて老い思わずと去年今年~俳人金子兜太 91歳の人生訓~」(NHK)を観ました。

金子兜太さんが、俳句界の第一人者であることは知っていました。

ただ、自由律の俳句を作っていることを初めて知りましたね。

種田山頭火についての著書などを読んでいても、その山頭火とは違う従来の季語を大切にし、字数を守る俳句を作る人と、勝手に思い込んでいました。

タイトルもそのひとつですが、本当に、決まりごとにこだわらない、自由奔放な句を作る人だったんですね。

タイトルの句も、「今年91歳と思っていたんですけども、老いは思わない」という気持ちだそうです。

裸で朝の体操をして見せ、メタボ気味のお腹を叩いて見せたり、とユーモアたっぷりですが、朝の儀式として懐かしい人々の顔を思い出して、自己を正し初心に帰るとも語っています。

この日に思い出したのは100人・・・。

真っ先に思い出すのは、81歳で亡くなった奥さんの皆子さんとのこと。

書斎には微笑む皆子さんの大きな写真が飾ってあり、木々が生い茂る庭はその皆子さんが残していったものでした。 

兜太さんの一目ぼれだったという皆子さんとの結婚。

皆子さんも影響を受けて俳句を作るようになり、創作上のパートナーになりました。

その皆子さんは、平成9年に腎臓ガンを宣告されて闘病生活に入ります。

「ガンになったのは、苦労をかけたあなたのせい」「そのとおりだ。苦労をかけた」と半分笑顔で語り合ったことを打ち明けています。

自分の責任にすれば、さっぱりして闘病に専念できるから、なにくそと思ってやってほしい、と・・・。 

ガンを宣告されて、しばらくは俳句を作る気力を失っていた皆子さん。

庭の曼珠沙華を見て、たくさんの句を作るようになったようです。

今年、体調を崩して入院した兜太さんの病室には曼珠沙華が飾られていました。 

その後の二人には、まるで小説や映画のようなドラマがあったんですね。

その皆子さん、主治医に絶対的な信頼をみせ、転勤した彼を追って、兜太さんと離れ離れとなって千葉での闘病生活を送るようになります。

“先生先生と呼んでいる曼珠沙華”

“寒の薔薇人恋うは生きる証なり”

信頼が愛情に変わっていったんですね。

それを感じた兜太さん、「彼女の支えになる。人を愛する異性がいることは幸せ」と、当時の気持ちを語っています。

兜太さんは、距離をおき、遠くから見守るようになります。

“夫は遠くにいつも遠くに鱗雲” 皆子さんの句です。

そして、奇跡のような展開が起こります。

兜太さん、千葉のお寺で講演をすることになります。

そこで、「自分は家内を愛している」と聴衆の前で語りました。

それを、病院を抜け出して、内緒で会場の隅にいた皆子さんが聴いていたんですね。

“木の実たち金剛の紐で繋がり” この日、皆子さんが読んだ句です。

金剛とは硬いダイヤモンドのこと。

告知から9年後に皆子さんは永眠。

兜太さんは今も、毎週寄せられる6000句の俳句の選者をしています。

譲る時期と思えば思うほどに譲りたくない、死ぬまでやる、と語っています。