「金子兜太 養生訓」--長寿への意志
https://k-hisatune.hatenablog.com/entry/20150525 【「金子兜太 養生訓」--長寿への意志】より
金子兜太が米寿を目前にした86歳のときのインタビュー本。
「養生訓」と銘打っているだけあって、腹こすり、青竹踏み、睡眠前の深呼吸、立禅、体操、、、など具体的な記述が多い。
成り行きにまかせていたのでは長生きは難しいということで、金子兜太は「長寿への意志」をはっきりと持って生きていると言っている。
現在は、その後10年たってまだ活躍しており、96歳を迎えている怪老人だ。
意外なのは、俳句の世界にほんとうに踏み込んだのは60代からだという。
また、日記をほぼ毎日書くようになったのは50代半ばからで、数十年たって「私にとって日記が唯一の財産」となる。
日記はやめないというより、やめられない。もう40年、癖になっている。
座右の銘は、一茶の「荒凡夫」--自由で平凡な男。
一茶の「天地大戯場」という言葉が好き。
「定住漂泊」の系譜に自分はいる。定住して漂泊心を温めながら屹立していく。
兜太が師事しているのは、芭蕉翁ではなく小林一茶であり、近代では斎藤茂吉。
(以下略)
https://www.yakult.co.jp/healthist/250/index.html 【「長寿への意志をもつ」】より -
この2月に98歳で亡くなった金子兜太(1919~2018)は、社会的な題材を詠んだ現代俳句の第一人者として知られています。骨太で自由な作風とともに、選評や座談で発せられる温かな言葉と大らかな人柄は俳句の裾野を広げ、多くの人々を魅了しました。
理屈ではなく体でものを感じること、「アニミズム」が基本にある句作を唱えた金子は、晩年、「自分を長生きさせよう」と思ったと『金子兜太 養生訓』(黒田杏子著)の中で明かしています。そして、「長生き」は成り行きに任せていたのでは難しいと、作戦をたて実行するのです。
それによれば、──朝起きると乾布摩擦でおなかをこすり、竹踏み、屈伸と一連の体操をする。次に立ったまま集中するという立禅をして、遅い朝食を摂る。それから仕事は夕方まで。決まった時間がきたら必ずトイレに行って排泄。出なくてもとりあえず屈む。
夜は一切何もしないで、夕飯とテレビをのんびり楽しむ。体重を落すように言われ8キロ減量した後は、食欲を我慢しながら家庭料理をしっかり噛み、ゆっくり食べる。そして体重を維持する。
薬は指示通りに服用。寝る前と、不安になったときは深呼吸。定時に布団に入る。褌と腹巻を愛用。夜中は溲瓶(しびん)を使う。何事も急がず、無理せず、怒らず、そして何か言うべきときはユーモラスに伝える。
亡くなる3週間前まで句作は続けられました。まさに兜太先生の作戦勝ちです。
https://kanekotota.blogspot.com/2017/02/blog-post_18.html 【『金子兜太の養生訓』 黒田杏子】 より
『金子兜太の養生訓』 黒田杏子2005年11月 白水社 1800E
黒田杏子の聞き書き・金子兜太対談
1.長寿への意思を持つ、長期作戦を立て、戦略を練る
・禿げ頭、近視、総入れ歯で楽しく
・父の剛毅・母の気力を受け継ぐ
・何事もゆっくり
・立禅とと深呼吸の威力
・無理はしない・怒らない・すべて自然体
2.俳句を生きる、ほんとうの自分を生きる道を歩く
3.新羅万象あらゆるものから「気」をいただく。自らも「気」 を発する
4、日記をつけ続ける人生
金子 私は現在、長寿への意志というものをはっきりもって生きております。
どうもね、ただ成り行きに任せていたのでは長生きはむずかしいのではないかと思います。
『二度生きる』(平成六年)を出しだのは十年以上前です。あのなかにもいろいろ出ておりますが、現在の考え方はまた異なってきています。そこで、今回はあらたなる私の長寿作戦についてお話しすることで、「人生、三度生きる」、私自身の百歳への道が開けてくるのではないか、そう考えました。ともかく具体的に考えをお話ししてゆきたい。頭のてっぺんから順に話をしていくことで、その全体像が描けるのではないかと思います。
「禿げ頭、近視、総入れ歯で楽しく」から
頭
まず、頭から。頭というと、つまり禿げ頭についてですが、私は四十半ばにはもうほとんど髪の毛は抜けていたのかなあ。戦争中に赤道直下のトラック島にいたでしょう。
いつも帽子をかぶっていたんです、軍帽を。そして、ほとんど理髪屋に行かない状態でいたので蒸れちゃったんだな。また、手入れをするという意識がまったくなかったから、ほったらかしだった。したがって見るも無残に禿げた。おやじ(金子伊昔紅)も禿げけていた。
おやじは五十の半ばで禿げたと言っていたな。私は四十ちょっとのときに禿げた。どんどん禿げた。兵隊から帰ってきて、前の勤め先(日本銀行)に戻ったとき、私は国庫局総務課に入ったんだが、総務課長に「金子君、いまバケツ一杯ポマードを持ってきたから、頭の毛を少しきれいにしてくれ」と言われたのを覚えていますよ。銀行に行っても私はポーポーの頭だったんですね。それを全然気にしていないということは、逆に抜けても気にならないということ。だから、他人様のように禿げ頭を全然気にしないんです。そして、そのまま禿げっぱなしできちゃった。べつに油をつける必要もないし、面倒臭くないし。理髪屋に行くにも三か月に一ぺんか四か月に一ぺんで済んでしまいますからね。だいいち、毛が伸びない。
それも近所の理髪屋と馴染みなものだから、義理で行ってるようなものです。壁に貼ってある理髪料一覧を見ると安いんですけれど、「ご無沙汰してますから」つて、いつもいちばん高い整髪料の倍くらい払っているんです。
それと、家内が気にしているんだが、頭が禿げると直射日光がいけないと言うんだ。だから、帽子はかぶるようにしているんです。とくに夏の間はかぶったほうがいいようですね。
直射日光を禿げに受けるとそうとうきついですよ。頭のために、ひいては体のためにも帽子をかぶるのはいいみたいだ。だけど、冬はそれほど影響ないように思いますなあ。
健康法のひとつで、帽子を愛用しろということをよく言う人がいるけれど、夏の間は賛成だけれど冬はそんなに必要とは思いません。頭寒足熱、頭は冷えているほうがいいという感じがありますね。ただ、冬は帽子をかぶっていると暖かいね。だから、私の場合はフイフテイーフイフテイで、うんと寒い日はかぶります。
ところで、私は「髪の毛は全身に回っている」という考えです。これはべっに髪の毛を数えたわけじゃないから保証はできないんですけれど、人間、三本毛が少なくなると猿になると言われているでしょう。人間の髪の毛は落ちても体のどこかにその毛が残っている。
だから、体全体の毛の数は変わらないと確信しているわけだ。頭の毛が抜けはじめたころ、最初のうちは何かしら、ヘソの下あたりの毛が濃くなってきたんです。もっとも、そういう目で見ているせいもあるでしょうが。
理髪屋にたまに行くでしょう。するとそこのおやじが「金子さん、耳の穴の毛がふえてきたね」と言うんです。それを聞いて、「頭の毛が耳の穴に回ったり、おヘソの下のあたりに回ってくるのかな。そういうならプラスマイゼロだ。」と笑ったことがかあるんです。
そこからヒントを得て、そう言われてみればそうかもしれないと思っているうちに、だんだんお尻の穴の回りの毛がふえて、前のほうも濃くなった。毛は腋の下へはあまり回りようがないらしいな。ほかに回る場所がないから、頭の毛が股のほうへ回っているんでしょう。直射日光でダババ。とやられると、変な話だけれど股のほうの毛がビッビッビッビッビッと反応する感じがある。だから、頭から回っているのは明瞭だ。そんな具合で、私は全身敏感です。
目
さて、頭から少し下がると目だ。私は中学生のときから近視です。おやじから、「若いくせに近視のやつは大嫌いだ」なんて怒鳴られたことがあるが、こっちはメガネをかけなけりや勉強にならないんだから、これはしようがない。おやじは明治生まれの頑固者で、女性には申し訳ないが男尊女卑の固まり、子どもというのはぶん殴って育てるものだと思っている男だ。
おやじはメガネを一生かけなかった。かけた時期もあると思うんだが、われわれは気づかなかった。私のすぐ下の弟もメガネをかけないな。三番目がかけている。そのときはあ きらめて、おやじも文句を言わなかったらしい。そういうことで、私は近眼ですが、目そのものは丈夫です。近眼鏡で細かいところまで見えるし、読書用のメガネも使いますが、モノはしっかり見えるんです。ただ、白内障の手術はしていないので、ちょっと白濁の状態が出ています。駅のプラットホームに立ったとき、時刻表なんかが白っぽく見えるな。でも現在、きちんと度を合わせたメガネを使っている限りにおいて、選句のときにも支障はまったくないということです。
女房のいちばん上の姉の家が眼科医なんです。若い、といっても六十代ですが、そこの医師に診てもらってます。それがまた親切に診てくれています。その眼科医から白内障の予防目薬を二種類、赤と黄色をもらって、毎日、必ず二回ずつさしています。
歯
私の場合は髪の毛もそうだけれど、歯も全然、磨いたことはなかったんです。子どものころは磨いていたような気がするんですけど、兵隊へ行ってから磨いた記憶がない。ましてや、トラック島へ行ってからは絶対磨かない。歯を磨くということに気が回らない。
すっかり忘れちゃっている。トラック島には歯ブラシがないんですから。帰ってきてからもほとんど歯を磨いたことはないんじゃないかな。女房がよく黙っていたと思います。
そんな暮らしをしていたからか、六十歳になってにわかに歯槽膿漏になったんです。それまでは実に丈夫な、馬みたいな歯でした。母親も八十歳まで馬みたいな歯でいたんです。
だけど、やはり歯槽膿漏になった。私は妻の従兄弟に全部抜いてもらいました。抜くのが上手だというので通ったんだが、その間、さんざっぱら、彼に色紙を書かせられた。ここへまた通って歯を入れてもらうのはたいへんだと心配していたところ、たまたま近所にいい歯医者がいて、その人に義歯を入れてもらったら実に具合がいい。だから、総入れ歯でも不便はまったく感じないんです。よほど固いものでも普通に噛めます。
いまはわずか一本残っていて、これを削りまして、根だけになっているんですが、そこと入れ歯の両方に磁石を入れてビシャー。と留めているんです。最新式の方法らしい。ときどき、餅などをカッカツと食べると磁石がずれるんだ。だから、歯もずれてしまって、えらい変なことになっちゃう。だけど、申し上げたように近所の歯医者にかかっていますから、そこに駆けつけて、すぐ直してもらうんです。
こういうかたちにして、もう十数年になります。最初は一本そのままだったんです。それを使った期聞か十年近くでしょうか。それを削って、根だけになってからでも五、六年経ちます。えらいもんですねえ。その先生はテレビに出ている私の歯の様子を見てくれているらしくて、「今度はここをこうしましょう」とかって調整してくれるんです。ただ、使っているのが磁石だからMRI(磁気共鳴映像法)という検査はダメらしいんだ。
それでも私は証明書を持っていますから、それを見せればいい。MRIを扱う人がそういうことがわかっていれば問題ありません。
耳、喉、鼻、舌
耳は補聴器の必要は感じません。テレビもちょっと音量を上げればいい程度ですからね。だから、首から上はいまのところまったく問題ないねえ。
そうですね、強いて言えば、ときどき声がしわがれたり、このところの三、四年ですが、夏から秋にかけて、食べたものが喉にちょっと滞る感じがあるんです。嚥下作用がうまくいかない。主治医に言わせると「神経作用か、あるいは狭心症か何かの前駆症状で出てくる場合もある。その期間は行動を少し静かにしていなさい」ということだ。そう言われてみると、秋が終わるころから、その症状が消えてしまい、普通になってしまう。いま気がかりなのはそれくらいだな。
そうだ。実はこのことでは一度、大騒ぎしたことがあるんです。NHK放送文化賞をもらったとき(平成九年)のことだから、七十八歳のときです。その授賞式のあとの祝賀会でのこと。おなかが空いていたし、喉も渇いていた。
パーティー会場に飛び込んだら、赤飯がうまそうだ。それをそのままパッと食べた。そうしたら喉に引っかかっちゃってね。
水を飲めば下りると思って飲んだが、水が逆に出てしまった。あのときはさすがに困った。
幸い、NHKの救護室に運ばれるときに詰まっていたものがとれました。
やれやれと思ったんだが、救護室の医者は、「狭心症の既往症かおる。喉に詰まったのも狭心症によるものだ」という診断なんだ。それで救急車を呼んでくれたんです。
私はべつに病院まで行く必要はないような気がしていたんだが、慶応病院に担ぎ込まれた。心臓の専門の医者が診てくれたが、診れども診れども心臓はどこも悪くない。「狭心症の既往症があると言われたそうだが、大丈夫」と言うんだ。それで、すっかりケロっとして、その日に帰ってきました。
その後も、朝日俳壇の選のとき、昼飯を急いで食べて、固いものが詰まって医務室に連れていかれたことがあります。やはり年をとると喉の潤いが少なくなって詰まりやすくなるんでしょうなあ。嚥下作用は老化するんですね。気をつけないといけない。
でも、ここのところ二年ほど、そういうことはないですね。ともかく固いものをガツガツ食べないようにはしています。よく噛み、ゆっくり食べることは大事ですな。その基本方針を貫いているということです。
鼻も大丈夫です・嗅覚はまったく衰えないですね。味覚も変わらない、ゆっくりよく噛んで食べるから味覚を落とさないんじゃないでしょうか。そんな感じがしています。
味覚は若いころとまったく変わりません。むしろ、味には敏感になってきた。というのも、若いころはただガツガツ食っていたからわからなかったような味が、いまはよくわかるようになってきたからだろう。味覚、これは非常に大事なことだと思うな。
病弱だった小学生のころ
いまは毎月、主治医に血圧を測ってもらい、薬ももらっています。二か月か三か月に一度、血液検査をしてもらっています。ただ、精密な検査も要ると思うんです。とくにおやじは脳出血でやられているから、私もやられる可能性があるんじゃないかと思う。これは目に見えないでしょう。長嶋茂雄さんみたいに、頭は何でもなくても心臓がよくなくて濁った血が頭に入っていくということもありますしね。だから、心臓と頭は精密検査を受けようと思ってます。頭にはいちおう自信はもっていますが、科学的な裏付けをとっておく必要があるという気持ちはもっています。
こんな私ですが、小学校の時代、厳密に言えば三、四、五年生ですが、体が弱かった。休か悪くて、一か月くらい学校を休むなんてこともありました。
そんな私の様了を見て、父親が海好きのせいもあったんだが、夏休みになると房総半島に泳ぎに連れていくんです。父親は上海同文書院の校医をしていたものだから、そのころを知っている学生が日本に帰ってきていて、房総半島の御宿にいたんです。三年生のとき、そこへ私を一か月、預けてくれた。家族と離れて一人でそこに下宿していました。それでも泳げるから楽しかったな。その次の年は富津、さらに翌年は小湊の横の千倉と、三年間、夏休みはずっと房総半島で過ごしました。それがよかったですね。体質が変わったんです。六年生から丈夫になって、それ以後ずっと、いわゆる病気らしい病気はしてないんです。
母親の話や当時の写真の感じからすると、そんなに病弱じゃないと思うんだけれど、まあ、ほかにもいろいろ事情があったんでしょうねえ。たとえば回虫ですが、勉強中に口から回虫が出たことがありました。いっぱいいたんだろうなあ。
あのころ、マクニンという薬があったが、おやじが医者のくせに、自分の子どもだからいい加減にしていてのませなかった。
慌ててマクニンをのんで、全部出したんです。そんなこともあったり、いろいろあったんじゃないかな。とにかく三年間の夏の海暮らしですっかり元気な子になっちゃったんです。
https://www.news-postseven.com/archives/20150227_305403.html?DETAIL 【【書評】「死」はこの世からもうひとつの世界へ引っ越すこと】 より
【書評】『他界』金子兜太著/講談社/1300円+税
【評者】嵐山光三郎(作家)
金子兜太氏は九十二歳でがんの手術をして、ますます野生化し、生涯現役、決して枯れず、疾風怒濤の狼となって他界を観察する。かくして死とは、いのちがこの世からもうひとつの世界へ引っ越すことだという確信を持った。
東大経済学部を卒業し、日銀に入行するが海軍主計中尉としてトラック島勤務を命じられ、幾多の殺戮死を見てきた。米軍の機銃掃射を受けて虫けらのように殺され、食料がなく餓死する同胞の兵士を目のあたりにしてきた。
奇跡的に生き残り、帰国後日銀に戻るが、日銀の冷え冷えとした体質になじめず従業員組合運動に首をつっこみ、出世せず、福島、神戸、長崎へ転勤し、ヒラと同じ状態で定年を迎えた。御立派。これぞ反骨の俳人である。
二〇〇六年、妻の皆子さんが八十一歳で亡くなり、先輩や友人がつぎつぎと逝き、亡くなった人を悼む「立禅」をはじめた。他界した人は元気であの世でやっている。肉体は滅びても、人間のいのちは死なない。魂は残る。
無神論者だから特定の神仏は信仰していないが、郷里の椋神社を祭った神棚の前で、死んだ人の名前を小声で称えるようになった。立ったままで、記憶に深く残る人の名前を称える。いまのところ全部で百二十人ぐらい。
目をつぶって名前を称えていくと、不思議なことに、体や頭がすーっとしてくる。先生あり、大先輩あり、呼びすてあり、苗字やあだ名だけのような人もいる。両親や女房の名は一番最後になり、ちょっと別仕立。毎朝やって、順調にいくと三十分。名前が出てこないときは四十分かかる。
記憶力が活性化され、つづけていくうちに、他界がリアルに感じられる。毎朝、亡くなった人たちと交流会をやって会話をする。がんの手術で入院したときは、ベッドの横に立ってやった。
金子兜太氏にあっては、俳句即生命である。他界はすぐ近くの故郷のなかにある。野生の自由人が定住漂泊しつつ実施する「立禅」という秘儀の極意を見よ。
※週刊ポスト2015年3月6日号