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アルガママに生きたい、とは思えども 金子兜太「荒凡夫 一茶」

2018.04.11 05:44

https://pinhukuro.exblog.jp/20596056/  【アルガママに生きたい、とは思えども 金子兜太「荒凡夫 一茶」】 より

まん六の春と成りにけり門の雪  還暦の一茶の句。

その時一茶は添え書きに、”荒凡夫”のおのれは、ますますまよひにまよひを重ねぬ。げにげに諺にいふ通り、愚につける薬もあらざれば、なを行末も愚にして、愚のかはらぬ世をへることをねがふのみ。と書いた。

アルガママに生きたい、とは思えども 金子兜太「荒凡夫 一茶」

日銀を辞めた50歳の筆者は熊谷に引っ越す。

物足りて心うろつく雑煮かな こんな句を作った筆者は人間というものを「社会の中の存在」といった観点で眺めていた私が、そうではなく、社会という枠組みを外して人間そのものをとくと見ないと、いろんな判断がどうも十分にできないのではないかと気づき、俳人の先輩たち、一茶、山頭火、放哉などの生き方を学ぼうとする。

その時筆者の心をとらえたのが冒頭の「荒凡夫として生きる」という言葉だった。

筆者は「荒」を「自由な」とよむ。

生きていかなければならないのだから、煩悩具足・五欲兼備を肯定して、欲のままにふるまわざるを得ない。

一方、人間の心には”源郷”という大もとの故郷があって、本能にはその”源郷”を指向する動きがある。

これが”生きもの感覚”、アミニズムに通じる考え方だ。

社会に定住して生きていこうという「定住」と源郷をめざして”漂泊”(うろついている)し続けるのが人間ではないか。

定住漂泊の間にあって流れていく存在。

芭蕉が定住に近く生きたのに対して一茶は漂泊に生き、定住を抜け出そうとしたのが山頭火。

本能とは「いのち」の触覚、それには二つの側面があって、その一つは食っていくために意欲的になるが、もう一つは美しいものをとらえる働きをする。

欲と美の間をぶれるから人間は人間らしく面白いのだ。

生涯に2万を超える俳句を作った一茶は、荒凡夫として生きる”生きもの感覚”を研ぎ澄ませて美しいものを探り当てていった。

一茶が自分ひとりだけの世界に入っているときや、自分にとって好ましい、いい人と一緒にいるようなときに、本能が「美しい」働きをして、それによって救われていったのではないか。

具体例、

花げしのふはつくやうな前歯哉

自分の舌も、揺らいでいる歯も、自分も、すべて生きものである。同時に芥子の花の、あのふわふわした感触も生きものであり、歯のふわつきとそっくりである。

これが一茶の”生きもの感覚”だと筆者はいう。

やれ打な蠅が手をすり足をする これは慈悲の句ではない。

蠅と自分と同じ生きものとして、価値判断抜きで、ありのままに感覚した句、「いのち」を共有(自然に)している句だ。

本書に引かれている句、いくつか。

春の山からころころ石ころ(山頭火)

酒やめようかどの本能と遊ぼうか(兜太)

長寿の母うんこのように我を産みぬ(兜太)

104歳まで生きて6人の子供を産んだ母のことを産婆はうんこをするようにやすやすと産んだと言った。

蛍来よ我拵へし白露に(一茶)

一茶がやっと得た長女サトを一歳で失ったときの句 白露とは一茶の胸中の無常の塊

屁くらべが又始まるぞ冬籠り(一茶)

蚤どもがさぞ夜永だろ淋しかろ(一茶)

ふわふわと、凡夫協会の門番のように生きてきたなあ。

徹底しなければ美しいものにも触れられない。

Commented by kuukau at 2013-06-03 14:43

信濃路に一茶が晩年を過ごした蔵が残ってます。

義母と義弟が生家を守り、家屋を相続したのに異議を唱え、蔵に居座ったの。土間にむしろ敷きw俳句との隔たりに唖然としました。

Commented by saheizi-inokori at 2013-06-03 15:27

空子さん、その蔵はなんどかみましたよ。訴訟に勝って屋敷の南半分に住むんですね。

死ぬ年にこの蔵の屋根を直したんですが、ころっと。

生きるために戦う、同時に美しい命を句に読む。その二面性が芭蕉などとはまるで違う世界を見せてくれる。そこを金子は高く評価しています。

Commented by saheizi-inokori at 2013-06-03 15:37

空子さん、追伸。

一茶の母は早く死に、継母は実子(弟)を可愛がったために父は一茶に東京に出て自活せよと言っていわば追いだしたのですね。

学歴も家柄もない一茶は宗匠として身を立てることができず、放浪の末に帰郷するのです。

父が死んだ後継母との戦いが熾烈を極めるのじゃなかったかな。

私の友人が信濃町に住んで一茶に詳しいので彼に訊いたらいろいろ教えてくれるかもしれません。

池田充といいます。機会があったら尋ねてみてください。

Commented by LiberaJoy at 2013-06-03 16:46

最近のsaheiziさんの文章の締めくくりが、とても素敵です。

なかなか、捨てきれない自分がいることに気付かされています。

Commented by 小言幸兵衛 at 2013-06-03 19:12 x

拝見していて、昨夜ケーブルテレビ(の日本映画専門チャンネル)で見た『あなたへ』(高倉健主演のロードムービー、昨年公開映画が、もうう・・・・・・)のラストシーンにあった、山頭火の句 このみちや いくたりゆきし われはけふゆく を思い出しました。

俳句も、深いですね。

それにしても、近所に高層マンションができるための電波障害対策で工事費が無料だったのでケーブルを契約したのですが、封切りから一年後に映画が見ることができるってのは、どうなのでしょうね。

もちろん、映画館とは感動も迫力も違いますが、映画→DVD発売→テレビ放映、という時間軸が早まることが、映画館に行くのを遠ざけているのは事実でしょうね。テレビで見ていながら複雑な心境でした。

Commented by saheizi-inokori at 2013-06-03 22:42

LJさん、捨てきれないから生き続けようと戦うのでしょう。

戦う、欲深い自分と源郷をめざす自分との間で揺れ動くのが人間の面白さだと金子はいうのです。

なんだかほっとします。

しかし、その揺らぎはぼんやりしていてはだめなんでしょうね。徹底しなければ。

Commented by saheizi-inokori at 2013-06-03 22:44

小言幸兵衛 さん、私は引っ越してきた時は嬉しくていろんなチャンネルを契約しましたが、結局ほとんど見ないのです。

テレビの前に座って(寝転がって)いるのがどうも苦手なんです。

隠居になりましたし、映画館に行きます^^。

0+1

Commented by rinrin at 2013-06-03 23:04 x

6月15日にこちらのお寺で小三治さんの落語会があるそうです

行ってみようと思っていますが、・・・新聞に載ると切符が手に入らなかも~

Commented by c-khan7 at 2013-06-03 23:59

575の中に、多くの想いがつまっていて、それを読者がそれぞれの感性で読み解くんですよね。人それぞれに解釈が違うかもしれないし、その人の人生にも繁栄するかもしれないし。俳句は不思議です。

Commented by poirier_AAA at 2013-06-04 01:56

>長寿の母うんこのように我を産みぬ

この句、なんか凄いです。言葉は全然きれいじゃないのに。

せっかく女に生まれたのだから、もっと若いうちからせっせと子どもを産んで、うんこみたいに子どもを世に送り出す経験をしてみれば良かったと、今になって痛切に思ったりして。

Commented by saheizi-inokori at 2013-06-04 08:59

rinrin さん、是非ご家族で行かれたらいいですね。

東京でチケットをとるときは一秒の勝負になることが多いです。

寄席なら並んでいればいいのですが。

Commented by saheizi-inokori at 2013-06-04 09:01

c-khan7さん、絵画も音楽も同じかも。

ただそれをたった17文字でやるというのが不思議というか絶妙ですね。

Commented by saheizi-inokori at 2013-06-04 09:06

poirier_AAAさん、芭蕉と違う”生きもの感覚”の一茶に共感する兜太の代表作らしいですね。

産土の土と共に生きようと埼玉に引き籠ったのはそういう感覚を慈しみ育てるためだったのでしょう。

子供の数ではないでしょう。大地のような母になってあげてください。

Commented by haruneko3 at 2013-06-04 22:40

一茶はその生い立ちが、わたしの父のおいたちと重なる部分があり、以前からそして今も特に好きな俳人です。春風に箸を掴んで寝る哉。。。。図書館でわたしもこの本さがしてみます。

Commented by saheizi-inokori at 2013-06-05 09:17

haruneko3さん、同じ金子の「一茶句集」(岩波・古典を読む)というのも持っています。

いいですねえ。「秋の風我は参るはどの地獄」、地獄図を観たときの句です。