正岡子規『病牀六尺』
正岡子規『病牀六尺』 体は病み、死に至るとしても、彼の意識は六尺に収まらず、心は生を叫び続けた。
四国旅行の途中移動時間や待ち時間に読んでいた一冊。
愛媛松山を周る上で、やはり、子規の本は絶対に読んでおかなければ失礼になるだろうと思って買った本。
文語体になれるまでは読み進めるのが大変だったが、慣れてくるとその深さに引き付けられる。
愛媛の排出した不世出の文学者、正岡子規が、死の直前まで新聞にて連載していた随筆の単行本。
病牀六尺とは正岡子規の過ごしていた一辺六尺(約1.8m)四方の自室のことである。当時不治の病であった結核をわずらった子規は、その進行によってついに病床から出ることができなくなり、その命尽きるまでこの六尺の部屋で過ごした。
しかし、本書の冒頭、「病牀六尺」の連載を始めるにいたり、子規はこう始めている――「病床六尺、これが我が世界である。しかもこの六尺の病床が余には広すぎるのである。」
芭蕉は、「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」との句を残したが、子規の精神もまた、病床の身や六尺の部屋に収まらず、外の世界に遊離し、駆け巡り続けたのである。
病床の住人となってしまった子規であったが、毎日毎日休むことなく、書き留められたその内容は、非常に多彩で多岐にわたる。
日本芸術談義から、西洋の美術論、文学論、教育論と、明治の文学者の一人として、持論を展開する一方、四季の移り変わりや、日々の食事、世間の流行、友人との四方山話、趣味の写生など、病床にあっても、日々充実したひと時を過ごしていたことが伺える。
その身が動かなくなろうと、口と筆が動く限り句を読み、寄せられる俳句を評し、常に研究を続けたことも垣間見える。
彼は体が動かなくなろうと、最後まで明治の文学者であった。
だが、子規の体は確実に蝕まれていく。
麻痺剤を服用しなければ心休まらず、時に恥ずかしげも無く弱音を吐き、苦痛から、周囲の者に当たりちらす、将来を悲観し、しかし、あきらめの境地に至ることもできず、ただただ、彼はもがき続けた。
連載39回目、子規は体の痛みに遂に叫ぶ。
「誰かこの苦を助けてくれるものはあるまいか、誰かこの苦を助けてくれるものはあるまいか。」
連載40回目、悲痛な叫びで終わった前回を振り返り、それ以上嘆くことなく、子規は言う、俳句談、文学談、宗教、美術、理化、農芸、百般、何でもいい、興味が無いものは無い、枕元に来て何か珍しい話をしてくれれば、余は多少苦から救われたことを謝すると。
苦しみながらたどり着いた100回目、もはや病牀六尺は子規にとって、生きた軌跡であり、生そのものであった。まだ遠き200回目を想い、つぶやく「果たして病人の眼中に梅の花が咲くであらうか」
だが、梅の花を見ることは叶わず、子規の病床は悪化、連載も短い文を書くのがやっとになり、遂に127回目連載は永遠に中断し、9月19日、遂に力尽きる。(意図したわけではなく、この日にこの文が書きあがったのは少し運命的なものを感じる)
読み終わったとき、子規が死に至る5ヶ月あまりの濃密さを追体験し、あたかも死を見取ったたような心持ちで、私はそっと本を閉じ、明治の文学者の冥福を祈った。
病床に縛り付けられた彼の精神は窮屈であったろう、しかしだからこそ、彼が死の直前まで書き続けたこの127回の連載は輝き続けているのである。
https://book.asahi.com/article/12774126 【正岡子規「病牀六尺」 観たままを言葉にした改革者】 より
まさおか・しき(1867~1902)。俳人、歌人
二葉亭四迷が新しい日本語の文体を生み出し、それを使って国木田独歩が『武蔵野』を書き、随筆の新境地を開いたころ、もう一人、東京の片隅で、病に伏せながら、日本語の散文を大きく前進させた男がいた。
正岡子規である。
俳句、短歌の革新ですでに名をなしつつあった子規は、日清戦争への従軍記者としての参加という無理がたたって、持病の結核を悪化させ外出もままならない身体となった。
子規は、根岸の小さな家に母と妹と暮らし闘病生活を続ける。結核菌が背骨に入り脊椎(せきつい)カリエスを発症して、やがて寝返りも打てないほどの重症となった。またその痛みもすさまじかったようだ。しかし彼は、その寝たきりの小さな六畳一間から世界を描写する。
「病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである」
子規は、病床から観(み)る風景を克明に描写していく。何を食べ、何を飲み、誰に会ったか、主観を排した淡々とした記述が、逆に世界の広がりと、そこで懸命に生きる人間のけなげさを浮き彫りにする。
俳句・短歌を確固とした文学の領域に位置づけた改革者として、子規は歴史に名を残した。しかし明治近代文学史の視点で語るなら、正岡子規のもう一つの功績は、この「写生文」の発見と完成にあった。
観たまま、聴いたまま、そして思ったままを言葉にする。今では当たり前のことのようだが、それは当時の日本語では、とても難しいことだった。子規はそれを、病床の六畳間から、のびのびとやってのけた。
彼は多くの弟子を育てたが、夏目漱石を文学の道に引きずり込んだことも後世への大きな功績だろう。特に晩年、ロンドン留学中の漱石と交わした書簡では、漱石もまた軽妙な文体を発展させている。正岡子規は一九○二年、三四歳で亡くなる。日本文学の夜明けを準備したような一生であった。=朝日新聞2019年10月5日掲載