金子兜太とはどんな人?俳句に生きた人生を代表作と共に紹介
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金子兜太は、昭和から平成にかけて活躍した俳人です。埼玉県比企郡小川町に生まれました。
俳人・金子兜太
父親の金子元春は、医師であるとともに俳人としても活動をしています。俳句が好きな父の影響と友人からの勧誘がきっかけとなり、兜太は高校時代から俳句の道に入りました。
戦争を経験した兜太は、戦後、社会と俳句との接点を求めるように、俳句を詠みつづけます。それらの俳句は、古くからの俳句の伝統にしばられない、自由な俳句として、ひろく日本の社会の中に溶け込んでゆきます。
2018年2月、たくさんの魅力あふれる俳句を遺した金子兜太は、98歳でこの世を去りました。
兜太の俳句は、いわゆる伝統俳句とは異なり、社会性を詠みこんだり季語や定型(5・7・5)に縛られないといった自由さが特徴とされています。
兜太の功績をひとことで言えば、現代日本という社会に、俳句の根を大いに張ろうと尽力した点にあるといえます。俳句を詠む主体の存在を認めることは、日々転変し価値観の多様化する社会の中で「現代俳句」という器を設けることにつながり、多くの人が俳句に参加する道を開いたと言えます。
「俳句は、自由に詠めばよい。感じたまま作ればよい。──」金子兜太の魅力は、その器の大きさにあると言えます。今回は、そんな兜太の魅力に引き込まれた私が、金子兜太の世界をご紹介します!ぜひ最後までお付き合いください。
金子兜太とはどんな人物か?
名前 金子兜太(本名) 誕生日 1919年9月23日 生地 埼玉県比企郡小川町 没日 2018年2月20日 没地 埼玉県熊谷市 配偶者 金子(旧姓:塩谷)皆子(1947年-2006年)
埋葬場所 埼玉県秩父市長瀞町「総持寺」
金子兜太の生まれは?
金子兜太の生まれは、1919年9月23日ですから、第一次世界大戦の始まった年にあたります。埼玉県比企郡小川町の母の実家にて生を受けました。
小川町を流れる槻川。古くから和紙の産地としても有名。
父の金子元春は、開業医として地域医療に従事する傍ら、伊昔紅という俳号をもつ俳人でもありました。秩父音頭の歌詞改定に尽力した人としても知られています。
母の金子はるは、元春の集める俳人たちが乱痴気騒ぎを繰り返す様を見ていたため、「俳句の俳は『人に非る』だ」として、兜太が俳人になることを歓迎しなかったと言われています。そのため俳句に没頭する兜太を「与太」と呼んでいました。
乱痴気騒ぎをおこす俳人たちのイメージ
金子兜太の性格は?
まっすぐに本質をつかみ取る実直さ、質実剛健を感じさせる性格で、確固たる信念を持ち、人間としての核心が揺らぐことがありません。そう感じることの証左として、次のエピソードがあります。
ある時、師の楸邨が自分の俳句を採ってくれないことに業を煮やした兜太は、楸邨を批判する文章を書き、楸邨本人につきつけました。師を批判するなどということは、よほど芯の強い人間でなければなし得ないことです。
なお、後日談として、師の加藤楸邨は兜太の批判文を見開きページで俳誌に掲載したと言われています。兜太の性格とともに楸邨の器の大きさや師弟関係をも物語るエピソードです。
加藤楸邨の句碑「 木の葉ふりやまずいそぐないそぐなよ 」
金子兜太の故郷は?
兜太は、埼玉県秩父郡皆野町で育ちました。皆野町は、埼玉県西北部にある秩父盆地の一角に位置しており、町の中央を荒川が流れています。
戦国期には皆野之郷として記録に現れています。江戸時代は幕府領でしたが、明治時代に入り忍藩領、入間県を経て埼玉県に属しました。
兜太は、自然豊かな皆野町を愛し、自身にとっての「産土(うぶすな)」と表現しています。秩父の地はそれほど兜太にとって欠かせないアイデンティティだったのです。
兜太が「産土(うぶすな)」と呼んだ秩父市皆野町
金子兜太の死因は?
金子兜太の死因は、急性呼吸窮迫症候群(ARDS)と言われています。難解な医学用語でイメージが難しいですが、ひと言でいうと呼吸不全のひとつで、肺炎や敗血症が原因で引き起こされる疾患です。
2018年2月、誤嚥性肺炎のため入院した金子兜太でしたが、最期はこの急性呼吸窮迫症候群のため、息を引き取りました。享年98歳。息子の金子眞土夫婦に看取られながらの最期でした。
まだ浅い春に兜太は旅立った
金子兜太の名言は?
「あれは、決して過ぎ去ったことじゃないと思ってます。それを、感じてほしいですよ。そう願いますよ。「私たちの時代に来るんじゃないか」と感じてほしい。いや、「感じてほしい」じゃない、「そんな時代にしてはいけない」と思ってほしい。注意してほしいと、そう思います。」
—『金子兜太 私が俳句だ(のこす言葉 KOKORO BOOKLET)』金子兜太著
「人間が、戦場なんかで命を落とすようなことは絶対あってはならない。それを言葉だけで語り継ごうといっても無理なわけで、体から体へと伝えるという気持ちが大事なんだ。そのときに、五七五という短い詩が力を発揮するんです。俳句は、体から体へと伝わるからね。」
—『金子兜太 私が俳句だ(のこす言葉 KOKORO BOOKLET)』金子兜太著
「創作において作者は絶えず自分の生き方に対決しているが、この対決の仕方が作者の態度を決定する。」
—『定型の詩法』金子兜太著
金子兜太の主要な句集
『少年』-(風発行所、1955年)
『金子兜太句集』-(風発行所、1961年)※『半島』所収
『蜿蜿(えんえん)』-(三青社、1968年)
『暗緑地誌』-(牧羊社、1972年)
『早春展墓』-(湯川書房、1974年)
『金子兜太全句集』-(立風書房、1975年)※未完句集『生長』、第六句集『狡童』を所収
『旅次抄録』-(構造出版社、1977年)
『遊牧集』-(蒼土舎、1981年)
『猪羊集』-(現代俳句協会、1982年)
『詩経国風』-(角川書店、1985年)
『皆之』-(立風書房、1986年)
『黄』-(ふらんす堂、1991年)※自選句集
『金子兜太』-(花神社、1995年)※自選句集
『両神』-(立風書房、1995年)
『東国抄』-(花神社、2001年)
『日常』-(ふらんす堂、2009年)
金子兜太の代表的な俳句
水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る
水脈(みお)とは航跡のことです。その果てに墓碑を置いてきた、というのがこの句の大意です。その墓碑は…というと「炎天」とあります。南の島の炎天ですから、石の墓碑ならば相当熱いでしょう。
この句は、兜太が引き上げ船に乗り日本へ還る洋上で詠んだ句とされています。ともに生きて戦地へ向かい、方や死にそして葬られた、その者の眠る墓碑を置いてきた…というのです。墓碑とはいえ、ここではむろん生きた「彼ら」を指しています。
翻って、方や生きた兜太です。なんの因果で自分は生きながらえ、日本へと還るのか。そのことの意味を、おそらく何度も問うたことでしょう。その問いの先に、未来があると信ずるほかはなかったのではないでしょうか。
航跡の続く先には、墓碑がある
彎曲し火傷(かしょう)し爆心地のマラソン
兜太が日本銀行長崎支店時代に詠んだ句です。まず全体を眺めるに、一幅のシュールレアリストの絵画のようです。一語一語の検討に入る前に、句の全体を概観してみると新しい気づきが得られることが多々あります。
「湾曲し火傷し」はすなわち原爆の落ちた長崎の街を指しています。しかも「爆心地の」と続いています。長崎も長崎、まさに爆心地が舞台というわけです。しかし後に残されたのは「マラソン」のみ。このマラソン、どうやらただのマラソンではありません。
湾曲、火傷から被爆者が連想されます。詠み手である兜太は、マラソンを走っているのは生者のむこうに死者を感じているのです。その瞬間まで活気あふれた人間を刹那に奪い去った原爆への憎しみと非核の誓い…この句はそうした想いを訴えているように感じられます。
原子爆弾落下中心地碑 (長崎市)
人体冷えて東北白い花盛り
これは日本地図の東北地方を鳥瞰するような感覚を与えてくれる句です。出だしから変わっていて「人体」です。俳句も一つの詩情を詠う文学と理解すると、このような理系学問の匂いのする言葉はふつうは避けそうなものです。
しかし敢えて「人体」と突き放したことで先入主なく続きへと進めます。「冷えて」「東北白い花盛り」。人体と東北、冷えてと花盛りを並べて眺めるような、しかしそこに何とも不思議な情感が漂っている気がするのです。つまり、句の全体印象が温かいのです。
「白い花」が何を指すかも分かりません。俳句では、単に花といえば桜を指すものですが、ここでは桜桃や林檎をイメージすることもできそうです。その方が「冷えて」「東北」にマッチします。
りんごの木の花
暗黒や関東平野に火事一つ
まだ東北に新幹線も開通していなかった時代、白河から列車で関東平野にさしかかると火事が見えた、という出来事から詠まれた俳句と言われています。
あるものを無いといい、無いものをあるというのは、俳句の常套手段で、芭蕉の「閑けさや岩にしみ入る蝉の声」も似たようなつくりをしています。この場合、見たのは「火事」なので全き暗黒では無いはずですね。
しかし、光があるところに影がたつように、火事あるがゆえに周囲の暗黒が一層濃く感じられる。そうした実感が見事に的確に表現されていると思います。先ほどの句と同様、夜の関東平野を鳥瞰するような視点も効いています。
金子兜太にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「名前は『藤太』?名前取り違え事件」
兜太が生まれた時、日本を離れていた父・元春は「トウタ」と兜太の母の実家に命名の電報を打ちます。それを受け、兜太の叔父は「金子藤太」として役所に届け出てしまいました。
その後、「兜」の字だということが伝わり、名前の訂正手続きが行われました。晴れて「金子兜太」と戸籍に載るまで、約ひと月かかりました。このため、本当の誕生日は8月だったと言われています。
都市伝説・武勇伝2「筋金入りの『反』骨精神の持ち主」
2015年。安全保障関連法案が国会で取り上げられる中、東京を中心に抗議デモが広がりました。その際の旗印となったのが、金子兜太が揮毫した《アベ政治を許さない》というプラカードです。これだけの著名人でありつつ、時の政権に明確に異議を唱えるのは稀有なことです。
兜太揮毫による「アベ政治を許さない」
日銀時代にも、兜太はその芯の強さを見せています。組合活動に対する上司からの再三の説得にも、その後の地方勤務にもめげずに、55歳の定年まで勤め上げました。自身を窓際族ならぬ「窓奥族」と定義しつつ、その信念を曲げることはありませんでした。
自らの戦争体験に裏打ちされた「反戦」、組合運動を通して実践した「反出世」、俳句における「反伝統」。こうした金子兜太の生き方に共通するのは「自由を志向すること」だと言われています。その根底には、戦地で散っていった仲間への想いがありました。まさしく、筋金入りの『反』骨精神の持ち主と言えるでしょう。
金子兜太の略歴年表
1919年
1919年9月23日、金子兜太は埼玉県比企郡小川町にある母の実家で生を受けました。
1937年
俳句との出会い
1937年、兜太は旧制熊谷中学を卒業すると、旧制水戸高等学校に入学します。同年、一学年上級の出澤三太に誘われて句会に参加し、初めて次の俳句を詠みました。
白梅や老子無心の旅に出る
この翌年には、全国学生俳誌「成層圏」に参加。のちの師となる加藤楸邨はじめ竹下しづの女、中村草田男らに出会いました。
1941年
東京帝国大学への入学と「寒雷」への参加
1941年、兜太は東京帝国大学経済学部に入学します。その後、加藤楸邨主宰の「寒雷」に参加し、投句するようになりました。
1943年
卒業、就職そして戦争
1943年、兜太は大学を繰り上げ卒業し、日本銀行に入行しています。その後、海軍主計中尉として、トラック諸島に赴任しました。
1945年8月15日、日本は敗戦の日を迎えます。兜太は米軍の捕虜となり、翌1946年11月にようやく日本への帰国を果たしました。引き揚げ船でトラック諸島を離れる際に、兜太は次の句を詠んでいます。
水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置きて去る
戦友たちの眠る墓碑を置いたまま、日本へ帰る心中はさぞ複雑であったに違いありません。
1947年
日本に帰国した兜太は、1947年、もとの職場である日本銀行に復職します。同じ年の春、兜太は眼科医の娘である塩谷みな子と結婚しました。
1948年には、長男・眞土が誕生しています。また、しだいに銀行内の身分格差などのしきたりに憤りを感じた兜太は、日本銀行従業員組合に参加しました。翌1949年には組合の初代専従事務局長となります。
1950年には、組合から退くことを余儀なくされ、さらに命じられて福島支店へ転勤しています。3年後の1953年には神戸支店へ転勤します。
1955年
俳句活動を本格化し、句集を著す
1955年、兜太は第一句集『少年』を著します。
なお、この前年、社会性俳句に関して「社会性は態度の問題」と表現したことが話題となりました。
翌1956年には関西の俳人中心の現代俳句懇話会に参画し、軸足を俳句活動に移していきました。
1958年
長崎へ、そして東京への海程
1958年、兜太は長崎支店へ転勤します。その2年後の1960年、東京本社への転勤が来まります。
兜太は、帰路の船上で有名な《海程百句》を詠みます。これらの句は『俳句』誌上に掲載されました。
1961年
1961年、兜太は自身の俳論「造型俳句六章」を『俳句』に連載します。この年、現代俳句協会が分裂し、新たに俳人協会が設立されました。
翌1962年には、同人誌「海程」を創刊しています。
1974年
定年、その後
1974年、兜太は55歳にして日本銀行を定年退職します。同じ年、長男の眞土が結婚し以後は息子夫婦と同居しました。また、上武大学の教授となります(1979年に辞職)。
その後も1983年には、現代俳句協会会長、角川俳句賞選考委員に就任しています。
1986年には朝日俳壇選者に加わり、1989年にはあらたに創設された伊藤園「お〜いお茶新俳句大賞」の最終選考者に就きました。
2015年に東京新聞「平和の俳句」選者となる一方、安全保障関連法案への反対に賛同して「アベ政治を許さない」を揮毫しました。
2018年
金子兜太、逝く
2月6日、誤嚥性肺炎のため熊谷市内の病院に入院した金子兜太は、20日、急性呼吸窮迫症候群により死去しました。兜太は98年の生涯で十四もの句集を著しました。
2月4日に原稿用紙に手書きした次の俳句9句が絶筆となりました。
雪晴れに一切が沈黙す
雪晴れのあそこかしこの友黙る
友窓口にあり春の女性の友ありき
犬も猫も雪に沈めりわれらもまた
さすらいに雪ふる二日入浴す
さすらいに入浴の日あり誰が決めた
さすらいに入浴ありと親しみぬ
河より掛け声さすらいの終わるその日
陽の柔わら歩ききれない遠い家
金子兜太の具体年表
1919年 – 0歳「誕生」
金子兜太、埼玉県に生まれる
金子兜太は1919年9月23日、医師である父・金子元春と母・はるの長男(第一子)として、埼玉県比企郡小川町の母の実家で誕生しています。父は、医療に従事する傍ら、俳人としても活動をしており、高浜虚子や水原秋櫻子とも交流をもちました。地元秩父に伝わる秩父音頭の歌詞を改定したことでも知られています。
じつは8月生まれとも
なお、誕生日は9月23日とされていますが、実は8月生まれであるとも言われています。兜太自身、講演や取材において幾度かその話題にふれたことがありました。これは出生届に記載した名前の漢字に誤りがあり、訂正を要したためと言われています。
1932年 – 13歳「兜太の中高生時代、そして俳句に出会う」
埼玉県立熊谷中学校に入学
1932年、兜太は埼玉県立熊谷中学に入学します。現在の県立熊谷高等学校です。なお、約80年後の2015年には同校に金子兜太の句碑が建立されました。この句碑には、次の俳句が刻まれています。
質実の窓若き日の夏木立
母校に建立された金子兜太の句碑
旧制水戸高等学校に入学
1937年、兜太は水戸高校に入学します。一学年上級の出澤三太に誘われ、句会に出席しはじめて俳句を詠みました。以後、竹下しづの女、中村草田男らの「成層圏」、加藤楸邨主宰の「寒雷」などに投句するようになります。
1941年 – 22歳「東京帝国大学経済学部に入学」
太平洋戦争はじまる
兜太が東京帝国大学に入学したこの年の12月、日本はイギリス領マレー半島及びハワイ真珠湾への攻撃を開始し、太平洋戦争の火ぶたが切られます。この戦争は、当時学生であった金子兜太の人生を大きく左右することとなりました。
1943年 – 24歳「東京帝国大学経済学部を卒業、就職と出征」
繰り上げ卒業と出征
1943年9月、半年の繰り上げで東京帝国大学を卒業し、日本銀行に入行します。しかし、3日で退職。その後、海軍主計科の短期現役士官として訓練を受けました。
1944年3月には、主計中尉に任官し、トラック諸島に赴任しています。上司で詩人の西村皎三の計らいもあり、現地で句会を開きました。
トラック諸島(現在のチューク諸島)
1945年8月、28歳の兜太は敗戦を迎えました。米軍の捕虜となります。
1946年 – 29歳「復員と復職、そして結婚」
復員、日銀への再入行
1946年、兜太は復員船「桐」により日本への帰国を果たします。
1947年には、出征前に在籍した日本銀行へ復職しました。しかしその後、銀行内の理不尽な職場環境に反発し、日本銀行従業員組合に参加しています。
日本銀行本店
同年4月、兜太は埼玉県野上町(現在の長瀞町)の塩谷みな子と結婚します。
組合活動と左遷、俳句への傾斜
翌1947年には長男・眞土が誕生しました。同じ年、兜太は俳誌「風」に参加します。
1949年、兜太は日銀従業員組合の初代専従事務局長となります。翌1950年には、日銀の従業員組合を退かされ、福島支店に転勤を命じられます。さらに3年後の1953年には、神戸支店へ転勤になります。
1954年 – 35歳「社会性俳句を発信、俳人としての活動を活発化」
「社会性は態度の問題」
1954年、兜太は俳誌「風」のアンケートに応え「社会性は態度の問題」と発信。俳壇の耳目を集めました。いわゆる社会性俳句の定義やありように関しては、賛否両論がたたかわされることとなりました。
翌1955年、兜太は第一句集『少年』を著しました。また、1956年には関西の俳人らとともに現代俳句懇話会を設立、参加しています。同年、現代俳句協会賞を受賞しており、このことをきっかけとして、俳句に専念することを決意したと言われています。
1958年には、長崎支店へと転勤になります。福島、神戸についで3度目の転勤でした。
1960年 – 41歳「転勤族からの卒業」
長崎から東京への「海程」
1960年、兜太は日本銀行本店へと転勤となります。10年に及ぶ転勤族からの卒業でした。兜太は長崎からの船中、「海程」という言葉から着想を得て百句を詠み「海程百句」としてまとめます。これらの句は『俳句』誌上に掲載されました。なお、「海程」は後に兜太自身が創刊する俳誌のタイトルにも使われることとなります。
1961年 – 42歳「「造型俳句六章」と現代俳句協会の分裂」
「造型俳句六章」を発表
1961年、兜太は社会性俳句の考え方を発展させ「造型俳句六章」と題した新しい俳論を『俳句』誌上に連載しています。この俳論の特徴の一つは、従来の主体と客体という二項対立ではなく、さらに俳句を詠む主体を考慮している点にあります。
現代俳句協会の分裂
同年、兜太も所属していた現代俳句協会が分裂し、俳人協会があらたに設立されました。以降、大きな俳人組織として現代俳句協会と俳人協会が並存するかたちとなります(1987年に、伝統俳句協会が設立され、現在は3つの大きな組織が存在しています)。
俳句界はやがて三つの協会に分裂してしまう
さらに、第二句集『金子兜太句集』を著わします。また、俳誌『海程』を創刊しました。
1967年 – 48歳「熊谷に居を定める」
終の住処、熊谷
1967年、兜太は勤務先である日本銀行の社宅をはなれ、熊谷の地に定住します。以降、兜太にとって自宅とは熊谷を指すことになりました。
熊谷駅にほど近い「熊谷桜堤」は 日本さくら名所100選の1つ 。
翌1968年、第三句集『蜿蜿』を著しています。
1972年 – 53歳「句集(第四〜第六)を相次ぎ著す」
1972年、兜太は第四句集『暗緑地誌』を著します。
1974年には、長男の眞土が結婚し、兜太は長男夫婦との同居生活を開始します。また、55歳のこの年、兜太は日本銀行を定年退職しました。その後、兜太は上武大学(群馬県)の教授となります。
また、この年、兜太は第五句集『早春展墓』、『種田山頭火』を著します。
1975年には、第六句集『狡童』を著しました。
1977年 – 58歳’ title=’『海程』15周年と父の死」
1977年、兜太の創刊した俳誌『海程』は15周年を迎え、これを記念すべく俳句大会が催されました。また、第七句集『旅次抄録』を著しました。
父・金子元春(伊昔紅)逝く
同じ年、父の金子元春(伊昔紅)が死去します。享年88歳でした。息子である兜太の陰にいるようで目立ちませんが、俳誌「若鮎」「雁坂」の創刊や「馬酔木」同人など俳人として活躍しています。
また、本業である医業においても、地域医療への取り組みや結核病院の設立に尽力しています。道場懐士館を設立して柔道剣道を普及したり、漢学塾である両忘会の設立など、文武両面で地域の発展を下支えしました。
伊昔紅の俳句として、次のような句が遺されています。
麦蒔の牛も家族として憩ふ
兜太は俳人・小林一茶の「荒凡夫」を理想としましたが、その原型は父の伊昔紅にあったようにも感じられます。
兜太の父・伊昔紅の像と秩父音頭の石碑がならぶ
カルチャーセンター講師に就任
翌1978年、兜太は東京都新宿の朝日カルチャーセンター俳句講座講師に就任しています。
次いで1979年、兜太は上武大学の教授職を辞職しています。
1981年 – 62歳「句集(第八〜第九)を著す、俳句界の要職にも就任」
1981年、兜太は第八句集『遊牧集』を著します。翌1982年には第九句集『猪羊集』を著しています。また、この年は俳誌『海程』20周年の記念すべき年でした。
要職への就任相次ぐ
1983年、兜太は現代俳句協会会長、角川俳句賞選考委員といった俳句界における要職に、それぞれ就任しています。
1985年 – 66歳「句集(第十、第十一)を著すなど精力的に取り組む」
『海程』主宰に
1985年、兜太は『海程』主宰となります(それまでは同人代表という立場でした)。また、福島県文学賞選考委員にも就任しました。
同年、第十句集『詩経国風』を著しています。
朝日俳壇と「お〜いお茶」新俳句
翌1986年、兜太は朝日新聞の俳句欄「朝日俳壇」の選者に加わりました。同年、第十一句集『皆之』を著しています。
なお、3年後の1989年には創設された「お〜いお茶新俳句大賞の最終選考委員に就任します。
朝日俳壇も「お〜いお茶」新俳句も、ともに俳人ではない一般人が多く俳句を詠む場であることから、俳句をさらに広めようという姿勢が伺えます。
1995年 – 76歳「句集(第十二、第十三)を著す」
1995年、兜太は第十二句集『両神』を著します。また、2001年には第十三句集『東国抄』を著しました。
2004年 – 85歳「母と妻、相次ぎ世を去る」
母と妻の死
2004年、兜太の母・はるが世を去ります。
その2年後の2006年には、兜太の妻・皆子が世を去ります。皆子は、同じく俳人であり1988年に第一句集『むしかりの花』、1997年に第二句集『黒猫』を著しました。
2007年 – 88歳「体調を崩しつつも句集を著す」
顔面神経麻痺と胆管がん
2007年、兜太は顔面神経麻痺を患います。同年、妻の残した句を集め遺句集『下弦の月』を著しました。
翌々年の2009年、兜太は第十四句集『日常』を著します。
2011年には、兜太は胆管に見つかったがんを切除するため手術を受けました。
2012年 – 93歳「『海程』50周年、最晩年の兜太」
俳誌『海程』50周年
2012年、兜太の創刊した俳誌『海程』50周年の記念大会が催されました。嵐山光三郎(作家)、浅井慎平(写真家)、小沢昭一(俳優)、西澤稔(放送作家)など沢山の来賓が駆けつけました。特に西澤稔はトラック島で開いた句会の仲間でもあります。
平和の俳句
2015年、兜太は東京新聞の戦後70周年企画「平和の俳句」選者になります。1年間で57000句もの俳句が寄せられ、平和への関心の高さが示されました。当初1年の企画として開始されたものの、反響の大きさもあり2017年12月まで延長されたほどでした。
アベ政治を許さない
同じ2015年、安全保障関連法案への反対運動が広がりをみせると、兜太は「アベ政治を許さない」を揮毫します。兜太の言葉はプラカードなどに印字され、東京・永田町の国会議事堂前を中心に全国各地で反対運動の旗印となりました。
2018年 – 98歳「金子兜太、永眠」
絶筆9句を記す
2018年2月、兜太は絶筆となる9句を原稿用紙に認めました。定型も自由律も自在に詠まれ、最晩年の句作の境地が伺えます。中でも出色なのが最後の一句です。
金子兜太が最後に残した俳句
陽の柔わら歩ききれない遠い家
冬の、弱いながらも暖かい陽射しに、歩いても歩いても遠い家──。この家には、むろん様々な解釈が成り立ちますが、一つには産土(うぶすな)である皆野を指すと考えられます。透明感のあるやわらかい俳句です。
入院、最期
2月6日、誤嚥性肺炎のため熊谷市内の病院へ入院します。20日、急性呼吸窮迫症候群により死去しました。