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地震・台風

2018.04.13 02:40

https://blog.goo.ne.jp/t-hideki2/e/9ac29e0a3c5b38428767eb0a30de38b7 【地震・台風】より

今朝の地震には跳び起きた、さすがの寝坊助も。

階下へ行き、母の安全を確かめ、しばらく様子をうかがう。余震はなさそうだ。

そういえば、台風はどうしたろうと、玄関の戸を開けがてら空を見る。台風は逸れそうだが、地震はまだ心配だ。つい先日も震度4の地震があったばかりだ。

また、二階の自室に戻り、パソコンにかじりつく。震源は駿河湾とある。アブナイ!東海地震ではないのか?

 一時間ほど、パソコンとにらめっこをしていたが、大丈夫であろうと勝手に決め込み、再び寝てしまう。

 後で考えてみて恥ずかしくなった。非常持ち出し袋はおろか、パジャマさえも着替えていなかったのだ。

 実際に東海地震や、関東大震災クラスの地震が来たら、いったいどういう行動がとれるだろうか。おそらく茫然自失のまま、瓦礫の下敷きとなり、自分が死んだのもわからず、三途の川あたりでうずくまっているのではなかろうか。

        猪もともに吹かるる野分かな     芭 蕉

 野分(のわき)のはげしさが感じられる句である。

 野分とは、秋の暴風で、草木を吹き分けるという意味に、俳人は感じている。主として「風台風」と思えばよい。

 芭蕉自身が『幻住庵記』の中に、「猪の稲食ひ荒し、兎の豆畑に通ふなど……」と書いているように、幻住庵のあった国分山のあたりには猪がいたようだ。

 「猪もともに」は、「自分とともに猪も」というようにもとれるが、「野分の中のすべてのものとともに猪も」ととりたい。

 これは、猪の実景を詠んだのではなく、草木をすさまじく吹きなびかす野分の中に身を置いて、話に聞いた猪が吹きすくめられるさまが、おのずと想像されたものと考えるからである。

 『徒然草』に、

    「和歌こそ、なほをかしきものなれ、あやしの賤、山がつのしわざも、言

     ひ出でつればおもしろく、おそろしき猪(ゐ)のししも、『ふす猪の床

     (とこ)』と言へばやさしくなりぬ」

 とあるが、この猪を俳諧に生かすという意図もあったのかもしれない。

 あらあらしいが、どこか孤独な感じのする猪が野分の中で、草木とともに吹かれているというイメージは、一脈の寂寥をただよわせ、すてがたい味わいを生んでいる。

 季語は「野分」で秋。季語である野分の勢いが生かされて使われている。

    「すさまじい野分で、野一面が吹きまくられている。さだめし、あのたけ

     だけしい猪も野の草木とともに、野分に吹きさらされていることであろ

     うよ」

      台風の雨のしじまに大地震     季 己


阪神淡路大震災の思い出

阪神淡路大震災は1995年(平成7年)1月17日に 発生した兵庫県南部地震による大規模地震災害 です。

阪神大震災は未明に起こりました。縦揺れの大激震に ガラスというガラスはみな割れ飛び、トイレに動こうにも 動きようがないという感じでした。

娘は「白い光が射した」などハイ状態になって叫び続けました。

動物は天災を予知できると言いますが 我が家のダックス・ジョイは震災後の異変に震えあがり 私に抱き付き離れません。

息子は成人式の祝いに友人宅に集まり 夜を徹している時に被災しました。

友人宅の隣家が倒壊したので 老婦人を助け出し 要約我が家に帰ってきました。

暫くは茫然自失の状態でしたが 電気はいち早く 復旧しました。

知り合い同士の安否が気になり 電話をかけあったりしましたが

話の途中で「目の前で階段が落ちていくから」と急いで電話を切ったケースもありました。

家族はみな無事で、我が家は半壊で済みました。

息子は帰宅することを望みましたが 彼の下宿先まで 荷物整理も兼ねて行く必要がありました。

我が家は西宮、下宿先は東灘でしたので 芦屋を経由して移動しました。

途中の地獄絵図は 凄まじいものでした。

道路はあちらこちらでひび割れ 二階建ての家屋は押しつぶされ

屋根が落ちた状態が軒並みに続きます。

もちろん彼の下宿先も倒壊状態でしたが 身の回りのものを何とか引き出すことができました。

息子は当時、神戸大学生で 塾講師のアルバイトもしていました。

学友は数名亡くなり、被災した生徒の家を訪問し続け ノーローゼ症状を呈する程でした。

夜はお酒を飲んで明かりをつけたままでしか寝れない状況が 余震が治まるまで続きました。

我が家の復旧作業を始め 屋根瓦を皆降ろして ブルーシートで屋根を覆った時に 大雨に見舞われ 二階は水浸しの二次災害まで起きてしまいました。

当時東京に単身赴任していた夫が たまたま居合わせ 一か月余り休暇を取り 自宅で生活が可能になりました。

困窮の中の私たちを援助してくれたのは 信仰共同体としての教会ではなく

営利目的の、企業でした。

その後東日本大震災、熊本大震災・・・

環太平洋火山帯で毎日起きる新しい噴火 : 5月1日から12日までに新たに噴火した火山の数は「24」に昇ると伝えられています。 http://earthreview.net/tag/%E7%92%B0%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E6%B4%8B%E7%81%AB%E5%B1%B1%E5%B8%AF/ (05月13日)

我が国は,その位置,地形,地質,気候等の自然的な条件から,暴風,竜巻,豪雨,豪雪,洪水,崖崩れ,土石流,高潮,地震,津波,噴火,地滑り等による災害が発生しやすい国土となっている。世界で発生するマグニチュード6以上の地震の約2割が我が国周辺で発生しているほか,分かっているだけでも約2,000の活断層が存在している。さらに,世界の活火山の約7%にあたる110の活火山が分布している。

http://editor.fem.jp/blog/?p=2051

ともいわれます。


https://ameblo.jp/temmo-emiko/entry-12390979426.html?frm_id=v.mypage-checklist--article--blog----temmo-emiko_12390979426 より

西日本豪雨で亡くなられたすべての皆様に、心からご冥福をお祈り申し上げます。

また被災された方々が一日も早く日常の生活を取り戻すとともに、心が回復されることを心よりお祈り申し上げます。

上の写真は、阪神淡路大震災で近くの駅は崩壊し、家屋の全焼、全・半壊、壊滅的な被害を受けた街にある公園の石碑です。

太陽と月がイメージされ、石碑の裏には、亡くなられた方々の名前が刻まれ、表には

「あの刻(とき)を忘れない」と刻まれています。

区内には街の中にたくさんの公園があり、避難場所にもなっています。

もしもまた地震があったら、自宅の家の外や道に出たり、公園へ行けば、家屋の下敷きや

火災に巻き込まれないように、火災が広がらないように、作られています。

震災は、残された人々に大きな教訓を残しました。

かけがえのないいのちの大切さ、自然と調和して生きることの大切さ、人と人が協力し助け合うことの大切さ、当たり前のようにやってくると思っている毎日の生活が奇跡のような日々であること。

自分を大切にし、家族を、周りの人を大切にすること、どんな時も愛を持って生きること、

笑顔を忘れないこと。

この街のお仕事に来て、街の給食会や集まりに出る機会が多くありますが、この街の人々が

地域の人々とのつながり、あたたかい心の交流をとても大切にしていることを感じます。

1995年1月、私は人工透析クリニックに勤務していました。人工透析は大量の水を必要とします。透析が患者様の命をつないでいます。

幸いに水道局にお勤めの患者様がおられ、トラックでお水を運んでくださいました。

私の地域は、電気はその日についたため、テレビで震災の状況が流れ、亡くなられた方々の数がどんどん増えて、胸が押しつぶされそうでした。

夜、外に出ると長田方面の空が、赤々と燃えていました。

あの時見た真っ赤な大きな満月を忘れることはありません。

火の中に家族を残して、逃げなければならない人がいました。

私は地震の約1カ月前に転居しましたが、転居前は自衛隊が最後までいた地域にいました。

木造の家屋は巨人に踏みつぶされたかのように倒壊していました。

そこから私の魂の旅が始まりました。私も命を落としていたかもしれない。

私は生きている。なぜ生きているのか。何のために生きているのか。自分の生きる目的、生きる意味を探し始めました。それは、今ここにいる私の原点です。

震災の後しばらくは余震も続き、断水などで困っている友人達と共に

(私の地域は約一週間でお水とガスが再開しました。)

私のマンションで暮らし、毎日の仕事を続けることと、愛する街の崩壊のショックなどから

自分自身の心身を維持することで精一杯でした。

そのため、日本各地から、また海外からたくさんの方々がボランティアで来てくださっていたことは、本当にありがたく、感謝にたえませんでした。

今回の大雨の被災地にたくさんの方々がボランティアへ行かれていることを知り、「神は人の内にある。」そう感じています。

そして、どんな人も心から人を思う「愛の力」があります。

あなた自身とあなたの大切な人が今日も幸せであるように祈りましょう。

毎日が奇跡。毎日がミラクル。あなたとあなたの大切な人が今日も幸せでありますように。