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金子兜太の一句鑑賞 ②

2018.04.13 04:43

https://blog.goo.ne.jp/new-haiku-jin/e/8f27c2517fa64682e1f61d633fb8bd0c 【金子兜太の一句鑑賞(十一) 高橋透水】 より

霧の村石を投らば父母散らん 兜太

 兜太の生まれ育った秩父盆地はときおり霧に包まれる。久し振りに兜太が訪れたときも霧のなかだった。そんなとき「ポーンと石を投げたら、村も老父母も飛び散ってしまうんだろうな」という感慨をもった。

 昭和十二年、兜太は故郷を離れ水戸高校に入学、俳句を始める。浪人後東大に進学すると、「成層圏」に参加し、「土上」などに投句する。就職したものの、戦況悪化のなか戦場に駆り出された。帰還後、日銀に復職し秩父の女性と結婚。妻の皆子に「あなたは土に触れていないとダメな人間になる」といわれ熊谷に住むことになる。故郷にはすぐに行ける距離だが、しょっちゅう帰るわけでない。

 掲句について『兜太百句』では次のように述べられている。「ちょうど郷里の皆野の駅に降りた時に出来た句なんですけどね。やっぱり私に映像が留まってたんでしょうね。ほっと出た、まとまったんです」「両親も歳とってきたし、高度成長期で都市に人が出てるときでしたから、田舎は駄目になってきてるでしょ。父母がかわいそうだということと、集落そのものも石でもなげたらなくなっちまうだろうと。時代への思いと父母への思いとが重なってましたね」。都会の成長に比し、山間からは人口が流出し、農村と都市との格差がますます広がってゆく。これからの日本はどうなるのかと、日銀に勤めていた兜太は、高度成長の危うさにも敏感だったのだろう。

 また『定住漂白』のなかで、「外秩父の山を越えて平野にでると、しばらく丘陵地帯がつづくが、そこにある小川町で生れ、戦争で南の小島にゆくまで、秩父の皆野町で育った」「そのごは県外の学校に学んだが、休暇にはかならず帰って、土蔵のなかで寝起きしていた。夏は荒川で泳いだ。秩父は、まぎれもなく私の故郷である」とある。ちなみに兜太の父親は開業医で母親は小川町から嫁いできた。あれほど反対したにも関わらず俳句を始めた兜太を、母親は生涯可愛がった。この句はそんな郷土への思いの素直な心情が現れてる。

  俳誌『鴎座』2017年6月号より転載


https://blog.goo.ne.jp/new-haiku-jin/e/cbc5bbc4f6e73e07d5b55c5ac1b6e6f4 【金子兜太の一句鑑賞(12) 高橋透水】より

人体冷えて東北白い花盛り 兜太  

 句集『蜿蜿』に収録されているが、初出は「海程」昭和四十二年八月号である。東北・津軽にてとあり、十三湖から弘前を経て、秋田に向かう途中での句という。  

 暦の上では春といっても、日本の南と北では温度差にかなりの違いがあり農耕の時期もずれてくる。確かに北国の春は遅いが、その分花盛りは一斉にやってくる。特に林檎の花は、農家の人達には美しいだけでなく、摘花など収穫に向けての本格的な農作業が始まる季節でもある。また花盛りを迎えたといっても、風はまだまだ冷たく外出の体はすぐに冷えてくる。冷えるのは何も人間だけでない。動物も植物も同じである。

 鑑賞句は白い花のみえる東北の自然にいながら、外気温の変化についてゆけない敏感な人類に焦点を当てている。だから「体温」でなく「人体」という言葉を選んだのだろうか。このぶっきらぼうな表現がむしろ効果的になった。どうやら作者は列車で津軽を通過したらしい。白い花は車窓からも眺められた。列車が進んでゆくと、どんどん白い花が増えてゆく。梅の花、林檎の花だけでなく、目に飛び込んでくる花はみな白かった。それは兜太にとって初めて見る光景だった。

 しかし窓外の農民は決して裕福な姿には映らなかった。まだまだ寒い季節だ。体の冷えは自分だけでなく、むしろ働いている農民こそ寒さに耐えていると感じた。この句は兜太自身がいうように「津軽の早春の頃の農耕者」を詠ったのである。高度成長前の貧しい農村を象徴した「人体冷えて」だったのである。

 兜太の自選自解99句によると、

 「五月初め、津軽での作。リンゴもさくらも一緒に咲いた。まさに『白い花盛り』。しかし空気は冷え冷えとしていて、農家の人たちは頬被りをしていた。その冷えた体で農作業ははじめられている。『人体』ということばを遣ったのは、津軽そして東北地方の農家の御苦労を込めたため」とある。秩父の農民の苦悩をつぶさに見た観察眼がここにもある。

  俳誌『鴎座』2017年7月号より転載


https://blog.goo.ne.jp/new-haiku-jin/e/386104745f032578b96f25b12f5482a6 【金子兜太の一句鑑賞(13) 髙橋透水】 より

 梅咲いて庭中に青鮫が来ている 兜太

 初出は、「海程」昭和五十三年四月号だが、熊谷の自宅の庭での情景を見て咄嗟に生まれたと兜太は語っている。「その頃から既にずっと庭全体が、朝なんか特に青さめているんです。海の底みたいな感じ。青っぽい空気ですね。こう春の気が立ち込めているというか。要するに、春のいのちが訪れたというか、そんな感じになるんですね。それで朝起きてヒョイと見てね、青鮫が泳いでいる、というような感覚を持ったんですよ」

 自宅の庭に白梅紅梅が数本あるが、白梅が咲くと春と知るという。

 金子兜太『自選自句99句』では「気付くと庭は海底のような青い空気に包まれていた。春が来たな、いのち満つ、と思ったとき、海の生き物でいちばん好きな鮫、なかでも精悍な青鮫が、庭のあちこちに泳いでいたのである。この句はその想像の景が訪れたとき咄嗟にできた」と相変わらずの名調子である。

 兜太の感覚は時に鋭く時に大きく飛躍し常人の入れない世界を描いてみせるが、見たままを、そのまま丁寧に描くのでなく、見ることによって感じたもの、そしてその感じたものから色んなことを想像して描く、という特有な世界をもっている。しかし以前の「造型俳句」との違いは、完全に外界を創り直し新しい世界を創るということではない。あくまで感じたものをイメージ化したもので、その言語化したものを読者が鑑賞するだけである。

 こうした兜太の一連の発言からも 青鮫の意味するものはなにかなどと、あまり「青鮫」の象徴するものを詮索しなくてもよいようだ。秩父で育った兜太生来のアニミズムの昇華した句と思えば十分だろう。

 兜太の句には狼・猪・豹・狐・蝮・蛍・蚕などの動物が登場するが、鑑賞句は生まれ育った秩父とは縁遠い鯖が登場する。ちなみに他に鮫の句は、〈霧の夢寐青鮫の精魂が刺さる〉〈青鮫がひるがえる腹見せる生家〉がある。日銀勤務時代に各地を歩いた経験が、ふと庭にいる鮫のイメージを喚起したのだろう。

   俳誌『鴎座』 2017年8月号 より転載


https://blog.goo.ne.jp/new-haiku-jin/e/272401a548c410751761f24b641f1b01 【金子兜太の一句鑑賞(14) 高橋透水】 より

猪が来て空気を食べる春の峠  兜太

 昭和五十五年の作で、句集『遊牧集』に収録されている。「猪」は「しし」と読む。鼻をもぐもぐと動かし、獲物の匂いを嗅ぐ動作を「空気を食べる」と見立てたのであろう。

 峠は決して獣道だけではなく、むしろ住民のためであり旅人のためでもある。とすると「春の峠」には人間界の生活の匂いがするわけで、猪が春を感じる以上に山国の人々の春の喜びもあるわけである。

 兜太は造型俳句から象徴(イメージ)の俳句、アニミズムへと変遷するが、情(ふたりごころ)の概念も重要なキーワードである。

  『遊牧集』のあとがきに「一茶から教えられて、自分なりに輪郭を掴むことのできた〈情(ふたりどころ)〉の世界を、完全に自分のものにしようと努めてもきた。そのせいか、〈心(ひとりどころ)〉を突っぱって生きてきた私は、〈情〉へのおもいをふかめることによって、なんともいえぬこころのひろがりが感じられはじめているのである」とある。

 他の兜太の言葉を引用すれば、『「心」の意味は「ひとりこころ」と、私は勝手に受け取っています。つまり、自分だけを見つめ、自分を詰めて、自分に向かっていくこころです。そして「情」の意味は「ふたりごころ」と私は受け取ります。相手に向かって開いていくこころです。どちらも「こころ」と読みながら、日本人は「心」という字を「ひとりごころ」と受けとり、「情」という字を「ふたりごころ」と受けとっていたと私は理解しています』となる。この「相手に向かって開いてゆく」ことは、芭蕉の「情」の精神に通じるという。「情」は人や自然との対話である。

 アニミズムには小林一茶の影響もあるが、〈人間に狐ぶつかる春の谷〉(『詩経国風』より)などをみると、たとえ想像のなかであれ、兜太と動物の交流を垣間見る思いだ。

 秩父地方は林業が盛んだが、この地方には猪、鹿をはじめ野生動物が多く生息し、まだまだ自然が多く残っている。兜太のアニミズムもこの環境から育ったものだろう。

  俳誌『鴎座』2017年9月号より転載


https://blog.goo.ne.jp/new-haiku-jin/e/1920973b0abb419ed888b62d3dfb6007 【金子兜太の一句鑑賞(15) 高橋透水】より

 夏の山国母いてわれを与太と言う 兜太  

 初出は、「俳句」昭和六十年九月号。句集『皆之』に収録された。兜太が「海程」の十月号より、同人代表から主宰になり、指導力を発揮していった時期にあたる。

 掲句作句時は、十八歳の時に嫁いできたという母は八十四歳、兜太六十六歳になっていた。兜太が何かの用で故郷の秩父へ立ち寄ったとき、いつものように母は笑顔で迎えてくれた。八十四歳といっても長寿を誇った母であるから、まだまだ元気なときだ。「夏の山国」の措辞からは、からっとした、明るい夏の風土の感じが表れてくる。母子は軽い冗談を交わしたかもしれない。

 「俳句なんかやるんじゃないよ。あれはけんかだからね」と以前から母にいわれてきた。長男でありながら、医業をつがず、俳句を生業にしている兜太は母親からみれば「与太」と呼ぶべき存在だったのだ。『金子兜太・自選自解99句』によると、「母は、秩父盆地の開業医の父のあとを、長男の私が継ぐものと思い込んでいたので、医者にもならず、俳句という飯の種にもならなそうなことに浮身をやつしてる私に腹を立てていた。碌でなしぐらいの気持ちで、トウ太と呼ばずヨ太と呼んでいて、私もいつか慣れてしまっていた。いや百四歳で死ぬまで与太で通した母が懐しい」とある。

 夏を詠んだ句に〈夏の母かく縮んでも肉美し〉があるが、子を思う母心、母慕う子の心は、いくつになっても変わらないものだ。ほかに母を詠った〈伯母老いたり夏山越えれば母老いいし〉〈老い母の愚痴壮健に夕ひぐらし〉などがある。極め付きは〈長寿の母うんこのようにわれを産みぬ〉だろう。まことに豪快な母親だった。

 しかし気丈夫とはいえ、母の老いは隠しようがない。とうとう二人に逆らえない別れのときがきた。百四歳まで生きた母であるが兜太は悲しみを隠せない。〈母逝きて与太な倅の鼻光る〉母の死に直面し涙を堪えて鼻を赤くした。誠に羨ましい母子関係であった。 

   俳誌『鴎座』2017年10月号 より転載