猪、狐、ジュゴン、虎ふぐ-兜太先生のアニミズム
http://blog.livedoor.jp/nara_suimeishi/archives/51647203.html 【猪、狐、ジュゴン、虎ふぐ-兜太先生のアニミズム】 より 楢 水明子(13期風)
猪が来て空気を食べる春の峠 「遊牧集」
この句では猪はししと読む。厳しい冬を生き抜いた猪が、春の息吹にあふれる峠で、春の潤いを含んだ空気を食べる。生命の賛歌である。猪を兜太に置き換えても何の違和感もない。猪も人間も等価。同じ生きものの喜びが脈うっている。金子兜太先生のアニミズムの表現である。
猪の縄文土器(青森県出土)[1]
土偶イノシシ2
兜太先生のアニミズムは西洋哲学のアニミズムとはかなり異なる。90歳の兜太先生と70歳の歌人佐々木幸綱との対談「語る俳句短歌」[2]のなかでアニミズムについて次のように語っている。
金子『「生きもの感覚」で、物の微(ひそか)に心の誠が触れたときにできてくるものを自然感、物象感という言い方で呼べないだろうか。・・・その自然感と物象感といえる触れ方、そのときにそこに出てくるものがアニミズムといえる世界ではないか。言い換えれば生きもの感覚が捉えた物と心の触れ合いの感覚といっていいのかな。あるいは感性の収穫といっていいか。それがアニミズムといえるのではないだろうか。』
90歳にしてこれほどの哲学を語る。見習いたいものである。少し難しい言いまわしなので、解りやすい幸綱氏の要約を示しておこう。
佐々木『表現するときに、子供の時代から鎧われてしまった本能をできるだけ剥き出しにしていけるかどうか。それがもし剥き出しになったときは、動物、植物、あるいは山だとか川だとかアニマ、つまり生命・精霊と共感することができる。そういう意味にとっていいでしょうか。』
金子『そうとっていただいていいと思います。』
人間に狐ぶつかる春の谷 「詩経国風」
峠に代わって谷、春に浮かれた狐が人間にぶつかってしまった。けれども恐れなどはない、あっすいません、失礼しました、というような感じである。六甲や北摂山地を歩いていれば猪に出会うことはしばしばである。さすがに狐にぶつかることはないが、アニミズムの世界では隣人にぶつかるように狐にぶつかることが起きてもなんの不思議もない、と思わせてくれる。
アニミズムについて「語る俳句短歌」のもう少し先の議論を見てみよう。
金子『人間も虫や花やそういうのと同じ生きものなので、同じ自然だという言い方ができるんじゃないかと、こう気づくようになりました。そこでだんだん出てきた考え方です。今、私は、人間は完全に鳥や花と同じだと思っている。そうなると、おっしゃるようにビルディングとか人工のものも、山とか、山なんかとっくにアニミズムだと思うけれど、鉱物みたいなものからもやはりアニミズムを感じますね。これもアニミズムの世界のものだと。』
もう「山川草木悉皆成仏」の世界である。比叡山の天台本覚思想とあまり変わりがない。この日本的アニミズムの由来を五木寛之と梅原猛の対談「仏の発見」[3]から引用すると。
五木『いい意味で、自然界のあらゆる物には、固有の霊魂や精霊が宿るというアニミズムと、さまざまな思想や宗教を融合するシンクレティズムは、日本の財産だと、私は言っているんですけど。』
梅原『そうです。縄文時代や弥生時代で、いちばん崇拝されたのが翡翠の勾玉です。翡翠というのは、白い色の中に、みどりが、ちょっちょっと、まだらに入っている。雪の中からみどりがあらわれて、発芽するという、やっぱり植物の霊を表す。勾玉というのも、ああいう形をしているけど、初期の勾玉は、だいたい動物の形をしている。動物の霊の呪力を表していると思う。』
五木『ほう。』
梅原『だからイノシシの形をしていたり、魚の形をしている。そういうのが初期に勾玉だとすると、翡翠は植物の霊であり、勾玉は動物の霊です。そこにやっぱり、いわゆる「山川草木悉皆成仏」思想が先駆的に含まれる。』
五木『そうですね。』
梅原『日本の国は、縄文時代の文化の影響が残っていて、それを仏教が変容させて、草木国土悉皆成仏という思想を生みだしたと思います。そういう思想は、インド仏教や中国仏教にないんです。インド仏教だと、衆生の範囲は動物までです。植物は衆生とは言えない。』
日本では、縄文時代のアニミズムが保存され、それが仏教と融合して草木国土悉皆成仏の思想が生まれたという。日本オリジナルの仏教思想である。鎌倉時代に誕生した浄土宗、禅宗、日蓮宗などは皆この天台本覚思想を共通の母胎としている。日本人の心にはこのアニミズムが深くしみついている。
今日までジュゴン明日は虎ふぐのわれか 「日常」
今度は「輪廻転生」である。今日までジュゴンであったものが明日からは虎ふぐに転生する。「語る俳句短歌」の談論では、聖路加病院の日野原重明先生もジュゴンにされてしまう。
佐々木『このジュゴンの句ですが、ジュゴンが絶対ではなくて、ジュゴンへの共感が末広がりに向こう側にもっと広がってゆくということですね。虎ふぐがいたり、もっと別の何かがいたりする。』
金子『そうです。虎ふぐになっても、人間は悪くなるけれど同じだと。姿かたちの問題じゃあないという、そんなところでしょうか。』
・・・・・・
金子『98歳(今はもう100歳)の日野原重明さんの話が、今、私には実によく分かるんです。・・・あの人は女性の秘書が機内で重たい荷物をフウフウ言って持ち上げて、近くの人の頭にコツンとぶつけても、身じろぎもしないでただぼやーっと見ている。彼、全然、平気なんです。とらわれない。あれはすごいですよ。あれがアニミズムです。ジュゴンになったんだ、あの人は(笑)。』
ジュゴン[4] 虎ふぐ[5]
ジュゴントラフグ
梅咲いて庭中に青鮫が来ている 「遊牧集」
対談集「俳諧有情」[6]から。同じお二人の20年も前の対談である。
金子『鮫というのを字引で調べていたら、鮫の種類が書いてあってその中に青鮫という言葉があった。それを見たとたんにビビビビーッとエレキみたいに響いた。その感応とその後の思いをどういう場面に置いたら定着するものかと考えて、梅の咲く庭に行き当ったのです。』
佐々木『それはアニミズムですか。』
金子『自分の中にアニミズムといえるものが働いていたのかもしれない。だから、青鮫を、こだわりなく自分の魂と思うことができたのかもしれない、と思っています。あの体験は大事だと思っています。』
青鮫という言葉を見ただけでビビビビーッとエレキみたいに響いた、というところが私にはいまひとつ感じがつかめない。私だったら青鮫の映像でも見なければビビビビーッとはこない。言葉だけで来るところがさすがに俳人である。
兜太先生のアニミズム俳句の多くは美しいと言えるものではない。けれども、この青鮫の句だけは美しいと思う。初春、白梅がいっぱいに咲く庭に命の気が満ちる。華やかな梅の花の集合が日の光をあたりに跳ね返し、花の下に透く光は半分になって薄暗い。萌え出た緑の下草もその空間に命を放射する。花の上から花の下に目を移すと、暗くてしばらくは物の形がはっきりしない。そこを青緑の鮫たちが泳いでいる。鮫たちの形が見えるわけではない。なにか青緑の命がそこを充填して泳いでいるのだ。美しい白と緑の対照、そのはざまに春の命が充ちみちている。
木や可笑し林となればなお可笑し 「日常」
兜太先生のアニミズム俳句は動物ばかりではない。植物の世界もアニミズム。
私はここ十年ほど木を追い続けてきた。今でも毎週のように森に出かけては、初めて見る樹木はないか鵜の目鷹の目で歩いている。そうするとたまには私の観察リストにない樹木が見つかって1種、2種と増えていく。木が解るようになると林の構成を見るようになる。この斜面はアベマキ-コナラ群集の雑木林だとか、この谷はイロハモミジ-ケヤキ群集の自然林だとか。
1本の木でも、芽生え、蕾、開花、子房のふくらみ、実り、紅葉、冬芽と、春夏秋冬の移り変わりが可笑しい。それが林ともなると変化の組み合わせは膨大になって可笑しさは無限大である。私は林の中を歩きながら木や林と共感している。木々と私は同類だと思う。私もこのようにしてアニミズムの世界を愉しんでいる。
p700植物園ツルアジサイ3p700秋イロハモミジB95
文献
[1]「語る俳句短歌」金子兜太、佐々木幸綱(藤原書店、2010)
[2] http://ueno.keizai.biz/headline/photo/459/
[3]「仏の発見」五木寛之、梅原 猛(平凡社、2011)
[4] http://blogs.yahoo.co.jp/moony_2moony/50628404.html
[5] http://sizupug2.seesaa.net/article/30025828.html
[6]「俳諧有情」金子兜太(三一書房、1988)
[7]「金子兜太の100句を読む」酒井弘司(飯塚書店、2004)