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金子兜太の俳句、鑑賞(35句)

2018.04.13 05:14

http://www.shuu.org/newpage24.htm 【金子兜太の俳句、鑑賞(35句)】 より

私は、「海程」に所属し、金子兜太さんに師事しております。

谷内修三さんのBBS「こんな詩書きました」で対話しながら金子兜太師の句を鑑賞してきましたが、この鑑賞は、「私が」どう句を読むかと言う点で後日まとめたものです。

鑑賞の未熟な点や誤読もあるとおもいますが、私にはとても学習になりました。

わたくしの学習の軌跡として、お読みいただければ有難いです。

  トラック島にて

   海に青雲(あおぐも)生き死に言わず生きんとのみ   金子兜太

昭和50年 「金子兜太全句集」生長より。

「青雲」は「青雲の交じり」を重ねているのでしょう。兵士として同じ運命共同体、トラック島兵士の食料調達が兜太さんのお役目だと聞いている。

限られた食料、次々に出る餓死者、幾人死ねば、何日生きられる、と密かに計算もしたという。

やっと終戦になり、生き延びて、圧倒的な大海原を前に、青雲、「青雲の交じり」の「せいうん」でなく「あおぐも」と読ませているところに、複雑なやりきれない無念の思いが伝わってきます。「あおぐも」は混濁の思いが顕わで、それを胸に生・き・て・終戦になった、生かされていることの青さ、「生き死に言わず生きんとのみ」は兜太さんらしい、重い口調です。この口調、近年の海程誌に、アメリカ9.11を詠まれただろうと思われる句がありました。

   危し秋天報復論に自省乏し

   背高泡立草は自滅する花驕るなよ

「驕るなよ」という言葉が出てくるのも、多くの戦友を死なせてしまった無念さが言わせる言葉でしょう。

   頭痛の心痛の腰痛のコスモス     金子兜太

昭和61年 「皆野」より。

「きょうは頭痛なんだ、こころも病んでいるんだ、寂しいし、悲しい。腰痛の具合も悪いなあ。あれ、コスモス。コスモスは強いなあ、倒れても起き上がって花を咲かせる。うむ、コスモスの元気、貰ったよ。」という兜太さんのつぶやきがそのまま句になったのではにでしょうか。

頭痛の/心痛の/腰痛の/と畳みかけて、実はどこか悲嘆さから苦笑に意識が変わってきているように思う。読む側の苦笑を誘う。

「頭痛の心痛の腰痛の」と「コスモス」の間の距離が良い。「の」は軽い切れですが、前節との距離があるので、しっかり切って読むことができる。この切れが苦笑を引き出しているように思う。

この句はコスモスがとてもよく効いている。

    青年鹿を愛せり嵐の斜面にて    金子兜太

昭和36年 「金子兜太句集」神戸 より。

4,5年前に吉野の桜を見たいと思い出かけたことがありました。奈良市内に宿を取ったので若草山など、市内をぶらぶらしましたが、奈良はほんとうに鹿が多い。どこを歩いていても、鹿に会う。鹿って静かでやさしいですね。

獣と言う感じがしません。とても植物的な動物だと思います。そんな鹿のことを思い出しながら、この句を読んで、「青年鹿を愛せり」に、青年の香気さがみごとに詠まれているように思います。

下句に、「嵐の斜面にて」ときますが、青年のおかれている場が嵐の斜面だという比喩で詠まれています。嵐の斜面はまず、私の浅い知識では「嵐が丘」を連想します、映画で見た暗いヒースの荒野をふと描きましたが、「嵐の斜面」というのは響きが明るいので、「嵐が丘」と違って、もっと明るい荒野ではないかなあ。暗いイメージはしない。青年に相応しい、爽やかな場の響きがあります。

青年は嵐に揉まれながら、斜面という変化を象徴するところで、鹿と対峙しているのだ。そして、その鹿を愛するという、青春性がみごとに詠まれている。兜太さんも若かったんだと、改めて、その瑞々しさに惹かれる。

   男女のことはすべて屈伸虫の宿    金子兜太

昭和50年、句集「狡童」より。兜太さん57歳の作。私は男女の間を「屈伸」という捉え方が、伸びたり縮んだりという、いかにも兜太さんらしい、肉体感覚だと思います。「すべて」と言い切ったところが面白い。そこには心を通わせた男女の縁や、それに反発する業や、嫉妬、倦怠、喧嘩すべてを抱え込む。抱え込んで、そして、大いに振幅したら良いのよっと言っている。そう読めて温かい。「虫の宿」は兜太さんにしては芸がないというか、普通の季語を付けられたというか、すこし演歌ぽい感じがして「虫の宿」は頂けないように思う。

  霧に白鳥白鳥に霧というべきか      金子兜太

昭和52年、「旅次抄録」より

白鳥は冬の季語。一昨年前「流氷ツアー」に出かけてサロマ湖の白鳥を見た。

そのとき、群れる白鳥を間近に見て、意外と大きく皮膚感覚が伝わってくる、穏やかでいて、生々しく、結構賑やかな、鳥だなあって思ったのを思い出す。

句の景はひじょうに簡明、霧と白鳥の白い世界に作者がいる。霧の中に白鳥がいるというべきか、白鳥のいるところに霧が立ち込めてきたというべきか、と考えている兜太さん。

そこに、私には詩的叙景だけでなく、しっとりとした抒情に酔っているというか、とてもいい気分なのだろう、白鳥が生々しさに、すこしテレもあるのかもしれないと思ったりもする。

兜太さんの50代前半の句なのだが、兜太さんは枯れた静的なものに感応するのではない。どこまでも、生きているものに感応する。そこが兜太さんらしい。

   濃霧だから額(ぬか)に光輝を覚えるのだ    金子兜太

昭和61年発刊「皆野」より。

私は年に1,2回、2000メートルを越える山に出かけていますが、山で一番怖いのが「霧」です。木曽駒が岳で霧にまかれて、道を逸れてしまい、とうとう道なき道になり、真っ暗な夜、川の音を頼りに下山したことがあります。登山口に着いた時は夜10時で、疲労困憊よく無事で帰れたとぞっとしたことがありました。 

それ以来、山に霧が湧き出すと神経がさっと集中して警戒します。迷うような分岐点はないか、大丈夫か、ここはちょっとまずいとか、思わず警戒しています。

わたくしが集中して警戒することを兜太さんは「額(ぬか)に光輝を覚える」と表現をしています。「光輝」はいかにも清々しい、生命の輝きがありますね。いい言葉だなあって思いました。

「覚えるのだ」は乱暴な男言葉の、兜太さん独特の雰囲気のある口調ですが、こう言われてしまうと、思わずあの山の警戒も、うむ、「光輝」だって返したくなります。

虚子が「去年今年貫く棒のごときもの」と詠む、「貫かれた棒」にある力強さを感じ取りますが、兜太さんは逆境の中生きぬく姿勢の、力強さ、明るさを詠まれ、「光輝」に、わたしは励まされる思いがするのです。 

   麒麟の脚のごとき恵みよ夏の人      金子兜太

昭和60年発刊「詩経国風」より。

動物園で見かける麒麟である。ほんとうに高い、我々が見上げる樹木より高く、その上に頭を出してゆったりと流れゆく雲に麒麟の目は遠くさすらっている風に見える。

そして、背高の大きな体を支える麒麟の脚はいかにもしなやかである。

そんな麒麟であるが、中国では「 聖人の出る前に現れると称する想像上の動物。」であるらしい。

「ごとき恵みよ」とあるのだから、麒麟は夏の人を指し、聖人に繋げているのかもしれない。

しかし、私は、麒麟そのものの脚を連想する、そうすると、はっきり夏の人のイメージが立ってくる。

兜太さんは男性なので、この夏の人は女性ではないか。「恵み」という言葉が、相応しい、夏なのに暑苦しさのない、爽やかな、そして、脚の長い人を想像する。

この句には、兜太さんの健康的な肉体感覚がある、そしてまたそこに「光輝」をわたしは感じてしまう。

   大頭の黒蟻西行の野糞       金子兜太

昭和52年、「旅次抄録」より

前書きに「河内弘川寺」とある。

弘川寺のある葛城山は西行の領地であり、弘川寺は西行ゆかりの寺として有名である。そこに吟行にでも行かれたのでしょうか。黒蟻が大きな塊になって、真っ黒くて、まるで大きな頭のようになって群れているのを、作者は見たのでしょう。その黒蟻が群れているのは、西行が垂れた野糞に群れているのだ言っている。野糞は必然的な排泄物であり、どこかユーモラスで温かい。

そこには兜太さん流の西行への親しみ、蟻への温かくてユーモラスな眼差しがあると思うのです。

   れんぎょうに巨鯨の影の月日かな    金子兜太

昭和61年、「皆野」から。

京都旅行の最後に京都現代美術館の山口薫の絵を見てきた。その中に「廃船と菜の花畑」という絵があった。大きなキャンバスはほとんど黒に塗りつぶされていた。その絵の脇に山口薫の言葉かな?詩かな?があった。

  なぜか泣きたいような日がある

  私は生きているということがかなしくなる

  それにもかかわらず

  私は生きている中は

  生きなければならない

  何故

兜太さんの掲句を読んで、山口薫の絵と言葉をなぜか思い出した。

山口は菜の花にあのむせかえる薫りからだろうか、生きていくことの息苦しさを感じたのであろう。

一方、兜太さんはれんぎょうに何を感じるのであろうか。連翹も菜の花と変わらぬ鮮烈な黄色の花だ。

「れんぎょう」と「巨鯨の影」の配合からは、山口の絵とは反対に、ひどく生々しい揺らぎをわたしは感じる。れんぎょうの燃える黄色に巨鯨の影とは鮮やかである。

れんぎょうは大地性、巨鯨は理想を求めるというとこのメタファーなのではないか。兜太さんは大正8年生まれだから、この歳、67歳である。

この句は兜太さんの半生の境涯句なのかもしれない。生きて戦後を迎え、日銀で労組に燃え、潜心し、前衛俳句の旗頭となり、それに挫折し、そしてみごとに再生した。れんぎょうの眩しみのなかに、その歳月を生々しく思いだしているのではないか。

   死火山に煙なく不思議なき入浴    金子兜太

昭和47年、「暗緑地誌」より

これは無季の句ですね。

どこで詠まれたのか分らないが、「死火山に煙なく」というのだからどこか温泉に来ているのではないか。露天風呂に入っての感慨のように思う。無季だが、死火山という荒涼とした言葉の景から、木々は落葉し裸木を想像します。冬季ではないか、荒涼とした露天風呂に入りながら、ふと、戦地の露天風呂を思い出しているのではないだろうか。

「煙なく」は、戦場の合図の「狼煙」をふと思い出しているのだと思う。

「不思議なき入浴」が意味が深い。「不思議な入浴」であれば、戦時中をまだ引きずっていることになる。「不思議なき」では、すでにその記憶は生々しいせん痛ではないが、疼痛のようにじわじわ想い出すのであろう。「不思議なき」に戦後27年間が込められているように思う。

温泉に来て、露天風呂に入ってもそれにどこか酔いきれない、兜太さんの悲しみが伝わってくる句である。

   廃墟という空き地に出ればみな和らぐ    金子兜太

昭和52年、「旅次抄録」より。

ニューヨークのテロ、9.11で起きた廃墟を思って、この句を取り上げてみた。その一区画は大きな空き地になっているようだ。さて、掲句では、「みな和らぐ」とある、これはどういうことであろうか???

ニューヨークの廃墟はまだ生々しい空き地のようだが、そうした、廃墟の跡に立った時、人間は何を考えるのであろうか。ニューヨークの崩壊はテロのよってなされたので、許すまじテロの声が湧き上がったようだけれど、それだけだろうか?

ちょっと冷静になった時に、この廃墟へ突っ走ったその衝動というか時代の流れから、少し身を逸らして原点と言うか、古き良きものを思うのではないだろうか。

いま、アメリカでもそんな動きがあると「新日曜美術館」で、古きよき時代のアメリカの日常生活を絵にした、ノーマン・ロックウェル展がとても人気だと、静かなブームになっている、と報じていた。ブッシュ大統領のアフガン報復戦争は多くのアメリカ人の声ではないのではないだろうか。多くのアメリカ人はちょっと古い、素朴な生活を思い出して、ある一面は和らいでいるのではないだろうか。

第二次世界大戦のあと、日本でも、国中、廃墟の空き地になったわけだけれど、みんなある面、和らいだのではないか。軍事社会の抑圧から放たれて、やっと自由になったと、ほっとしたのではないだろうか。

「みな和らぐ」に一瞬戸惑ってしまったが、こうして考えてみると、なるほどと納得します。

  鮎食うて旅の終わりの日向ある    金子兜太

昭和57年、「猪羊集」より。

鮎は清流に住む魚なので、ここの旅というのは、山に深く入っていたのであろう。

その旅の終わりの一句なのである。鮎は、その旅先を暗示するものであるだけでなくて、その旅の心象すらもうまく託してあるように思う。鮎はマグロなどと違って白身の魚であり、淡白で、そして香りのある魚である。とてもいい旅だったのではないだろうか。鮎は夏の魚であるから、その日向はくっきりと濃い日差しである。

兜太さんは、心地よいいい旅をした果てに鮎を食べながら、日向のくっきりとした自分の影を見ながら、憮然としているのである。

ただ、ふつう、こうした場合「鮎食うて旅の終わりの日向かな」となるのではないだろうか。「日向ある」とはちょっと奇妙な締めようである。「る」の発音は内にこもり、外に発散しない。

そこに、私は、旅の終わりの「ああ、終わってしまったなあ」という作者の鬱を読む。

俳句は一句屹立、自分から切り離して句にするのが従来の作法であるかも知れないけれど、兜太さんの場合は個のありようをそのまま、ありのまま句に放下して、それを読んでくれる人と共有するのである。「旅の終わりはそんなもんだ、同情するよ」と言ってもらいたいのである。

  夏の山国母老いてわれを与太(よた)と言う   金子兜太

昭和61年、「皆之(みなの)」より。

与太というのは愚か者と言う意味。兜太さんの父君は医者でありながら、伊昔紅という俳人でもあった。碧梧桐系に属していたと聞く。幼少の頃に家で、村人を集めて、よく句会が開かれたらしい。そして、句会のあとはきまって酒を飲み、句をだしに喧嘩になったと聞く。幼少のその頃から、お母さんに「俳句だけはやってはダメだ、あれは与太のやることだからね」と言われていたと言う。(「二度生きる」より)

兜太さんの母君はいまもご健在と聞いている。兜太さんが82歳でいらっしゃるから、母君では、すでに100歳を越えられていることであろう。

この句を作られた時でも、80歳は越えていられたと思う。そのお母さんが兜太さんへ「与太、与太」と呼ぶと言うのだから、まったく愉快、豪快な話である。

それをまた、こうして一句にする、作者も豪快である。

「われを与太と言う」には、母君の、歳をとっても子どもに負けていない、自尊がある。その元気のいい母君が「与太」と呼ぶのを、兜太さんはとても爽快に思っているのである。それが「夏の山国」によく出ている。

   樫の木の真顔と冬の光かな     金子兜太

平成13年、「東国抄」より。

樫の木は高い、どんぐりでも落ちていなければ、ふつう見上げることも無い、古風な地味な木である。樫の木に冬日が当っている、その前に作者は立っている。樫木は冬の厳しさに耐えているんだろう、真顔をしているなあ、と作者は思っている、その樫木に暖かな冬日が降り注いでいる。その冬日の有難さよ、と、樫の木と作者と冬日の交感、そしてこの句を読む私もそこに加わって、すこし厳かな気分を享受する。

    富士二日見えず遠流の富士おもう     金子兜太

昭和56年、「遊牧集」より。

富士二日見えず、とは、富士山の見えるところに来ていて、二日目になっても富士山が見えないというのであろうか。雨天なのか、富士五湖あたりでは雨でなくても霧が出れば富士山は見えない。

日本人にとって富士山とは何であろうか、雪を頂きに被り雄大な、裾広がりの山容はいつ、どこで見ても、ああと溜息が出るほどに、いつ見ても感動するものである。日本人の心栄え、精神のようなものだとおもう。

富士山の見えるところで富士山が見えない。遠流とは重い流罪のことである。

遠流の人もこの富士を見ることを夢見たのであろう。自分も見たかったなあ・・・

二日間も見えないと、こんな霧深く思想の闇に入って、作者自身が遠流しているような、それに同情するような気持ちになっているのであろうか。

あまり、よく分からない句であった。

   砂漠かなコンサートホールにかなかな    金子兜太

昭和61年、「皆之」より。

砂漠、コンサートホール、かなかな、まったく異質なものが並んでいる。

砂漠といえば、植物の生えてない、文明社会の入れない、砂と空と星と月と太陽の世界。

作者はコンサートへ出かけたのではないか。

開演前、席に着いて待っているのであろう。薄暗く、天井に小さな照明が星のようで、消音の効いた、コンサートホールは、どこか砂漠感があるのだと思う。

間もなく、弦楽器の調律で音が聞こえてきた、まるでかなかなと、ヒグラシを聞くようだ。

っという景をこの句から描いた。

下の「かなかな」が楽しい。開演前の気分の高揚もあるだろうが、「砂漠かな・・・かなかな」というところなど、ちょっとふざけているのかもしれない。

しかし、大変感覚のきいた句である。生き様を句にしたものではない、だが、作者の研ぎ澄まされた感性がとてもよく出ているのではないか。兜太さんの句は重く深く大きくという感じで、太い神経を思ってしまうが、それは違うのであろう。掲句は、繊細な感覚の句でありながら、滑稽な面もある、面白い句だと思いました。

    乳房四房がいかにも不思議乳牛諸姉    金子兜太

昭和61年、「皆之」より。

これは搾乳の様子を見て作られたのであろう。兜太さんの山小屋のある近くにはたしか牧場があったと思う。一頭の乳牛にいくらぐらい乳が摂れるのであろうか?本当に勢いよく乳が搾られているのを見たことがある。その搾乳を「いかにも不思議」とは、まったくその通りで、ここには詩的操作が施されていない。「乳房四房がいかにも不思議」というフレーズからは、乳牛に対するそこはかとした哀切感がある。

下五に、「乳牛諸姉」という、私はここに惹かれた。作者は乳牛に諸姉と、いかにも親しく人間の尊称で、呼びかけているのである。そこには乳牛に対する作者の温かい眼差しがある。その温かさは「いかにも不思議」という生な言葉からも醸し出されてくる。

この句には季語が無い。しかし、一句から私は、早春のつんと立ち上がってくる感じ、乳房感があるように思う。

産土の乳牛の豊かな温みと早春の感傷を感じさせてくれる。

   桐の花遺偈(ゆいげ)に粥の染みすこし     金子兜太

昭和61年、「皆之」より。

間もなく桐の花が咲くであろう、私の好きで憬れる花である。

「遺偈に粥の染みすこし」に「桐の花」という季語をを配合したという、兜太さんにはめずらしいオーソドックスな作りである。

こうした場合、その季語の働きが問題である。読み手が、桐の花の季語によって一層「遺偈に粥の染みすこし」という感受を大きくしているとき季語が働いていることになる。

「遺偈に粥の染みすこし」とは故人となった人の、般若心経の経文に粥のあとがすこし残っている、それを詠んでいるのだと思う。遺偈は般若心経であろうと解釈した。粥は故人がどのくらい患ったか知れないが、病気で療養していたのであろう。

桐の木は高木である。そしてその花は、初夏の爽やかな空に映え、紫の花房は新緑の山にも映えて眩しい。私は、桐の花で、遺偈の粥の染みというものが昇華されて季語として働いているように思う。

「遺偈」ゆいげという言葉のひびきに兜太さんらしい太い響きがあるように思うが、一句としては静かなオーソドックスな抒情の句で、こいう句も兜太さんにあることに私としては一層信頼ができる感じです。

  遠い日向を妻が横切りわれ眠る     金子兜太

昭和36年、「金子兜太句集」より

作者が目覚めた時は日がすでに高く上って、妻が明るい日差しの中で立ち働いているのが襖の少し開いた隙間から見えたのではないだろうか、そんな景がまず浮かんでくる。

その景を描いた上に、もう一度この句を読んでみると、「遠い」「横切る」という言葉がどういう心象で使われたのか考えてしまう。

そこには、作者の妻に対するものや、家庭、家族というものに、対する視線というか関係が伺えるように思う。

昭和36年と言えば作者が俳句結社「海程」を創刊した年である。そして、現代俳句協会が分列して俳人協会が発足したのもこの頃である。前衛俳句の旗幟として、多くの俳人と俳句論を夜を徹して話し合うことも度々であったことだろう。

日中に眠っている、頭の中は俳句のことでいっぱいなのである。

「遠い日向を妻が横切り」からして、作者の頭には、妻や家庭はいま遠いのかもしれない、でも、全く離れて断絶しているのではない関係が「横切る」から伺うことができる。

どんなに俳句にのめり込んでも、作者にとって、妻のいる家庭は「日向」なのである。その日向を懐に抱いて作者は眠り、俳句にのめりこむのである。

   食べ残された西瓜の赤さ蜻蛉の谷     金子兜太

昭和57年、「猪羊集」より。

「食べ残された西瓜の赤さ」から人はどんなことを思うのだろうか? わたしは、すぐに贅沢な食べ方って思う。真ん中の甘いところだけ食べるのだから。西瓜は中心ほど甘く、周りに行くほど水っぽくなる。

そのことと「蜻蛉の谷」の配合である。

子どもが小さい頃は毎年のように8月は尾瀬に出かけていた。尾瀬にも蜻蛉を見かけるが、尾瀬を出て片品村の渓谷に見る蜻蛉の群れはまことに美しく今でも鮮明に思い出す。特に、日の出後のまだ日が高く上がらない頃の、朝日に、羽根を透かせる蜻蛉の群れはきらきらとまことに美しい。

句の景は、食べ残されたまだ赤いところのある西瓜を脇に蜻蛉の群れる渓谷の村に作者は座しているのであろう。

眼前の美しい、渓谷の蜻蛉の群れを作者は贅沢に思ったのではないだろうか。その贅沢感も「食べ残しの西瓜の赤さ」というのが兜太さんらしい、生活感にあふれた言葉である。

晩夏の、濃い緑と赤のコントラストが、くっきりとこころに残る、色彩の効いた句である。

ちなみに私は西瓜は赤い所がなくなるまできれいに食べます。甘いところから、だんだん水っぽくなってさっぱりと食べ終われるので、甘いところだけですと口に甘さが残る感じで好きではない。さっぱり食べ終わりたいので、最後まで食べます。

   谷間谷間に万作が咲く荒凡夫    金子兜太

昭和56年、「遊牧集」より。

兜太さんは49年に日銀を退職され、その後熊谷に居を構えておられます。

そして、もっとも秩父の山深いところに山荘を持っておられます。長年海程の俳句練成は、その山荘の近くにある民宿を借りて行われてきました。初めて俳句練成句会に(海程では俳句道場と言っています)行きまして、兜太さんの山荘を見た時、私は大変感銘しました。山道を歩いていてその前を通っていたのに山荘があると分ららず後で人に聞き見上げたら山荘があった。山の斜面に寄り添うように、溶け込むように、その小さな山荘は秩父の山に渾然と建っていました。土着性を大切にされる兜太さんらしい山荘でした。

さて、掲句ですが、秩父はまことに山深い。山と山の襞、谷間谷間に村落がある。そして、山の春は満作の咲くことから始まるのである。飯田蛇笏さんの住まわれた甲斐の国も熱さ寒さの厳しい所であるが、秩父も甲斐に負けず天候の厳しい所である。

「荒凡夫」は「あらぼんぷ」と読む。凡夫とは字の如く普通の人間という意味。親に「与太」って言われている自分でも、俳句のこととなると血気があがる、荒々しいと自認するのであろう、よく自分は荒凡夫だと、兜太さんは言われる。

掲句は早春の万作の咲くのを眺めながら、まこと自分は荒凡夫だなあと思う、というものだろう。「万作」に作者のどんな思いが込められているのであろうか。万作は梅や桜のように香しく華やかな花ではない。べろべろと噴出したような黄色い花らしくない花である。しかし、その万作が咲くと春がやってくる、春を告げる花なのである。そして「豊年満作」という言葉があるように、豊かな実りへの祈りのような、そんな万作の、荒凡夫でありたいと作者は思っているのではなかろうか。

   馬といて炭馬のこと語るもよし     金子兜太

平成13年、「東国抄」より。

蛇笏賞の「東国抄」より。あとがきに、じぶんのいのちの原点である秩父の山河、その産土の時空を、心身込めて受け止めようと努めるようになった・・・・とある。みやびより大地にどっしり根ざしたものをと言うのが兜太さんの作句姿勢なのである。

季語は「炭馬」の炭から、冬であろう。

それにしても、「馬といて炭馬のこと語るもよし」とは、読んで、なんと、力みのない、大らかさであろうか。味わい深い。

「馬といて」の馬とは、今日では競走馬とか、観光馬なのかもしれない。馬の傍で、昔の炭馬の話をしようというもの。炭馬とは炭を運ぶ馬のこと、人がその馬の手綱を引き、馬と共に歩くのである。人間と馬の、素朴な心通わせる関係があり、それを思い出して「語るもよし」という、そこには穏やかな産土の時空がある。しみじみとする句である。

「炭馬」という澄んだ響きも良いなあって思う。

  激論をつくし街ゆきオートバイと化す     金子兜太

昭和36年、「金子兜太句集」より。

この昭和30年代は俳句論の盛んな頃であった。「造型俳句論」を著し、また、この年には現代俳句協会が分裂し、俳人協会が発足している。連日連夜、激論が交わされていたことであろう。目覚めて、街を歩く時、オートバイと化していると詠まれている。激論を尽くした爽快感を風の抵抗感を楽しむ、オートバイと化すとは、とても面白い。

風を切ってオートバイに乗っているようであり、そして、爆音を立ててオートバイ自身にもなった感じでしょう。激論を飛ばしたあと、意気盛んに、肩を揺すって歩く氏の姿が髣髴します。

    土手に横一線の径ことばの野     金子兜太

昭和47年、「暗緑地誌」より

「土手に横一線の径」が「ことばの野」だ、という作りになっているのではないか。

寅さんの映画にもよく荒川の土手が出てくる。川は平坦で、土手は堤防になっているから少し小高い、駆け上がると、一本の径が遠くまで見渡せる。その見渡せる一本の径が「ことばの野」だという。以前は私も夫と、時折多摩川の土手をジョッキングしたが、川風がとても気持ちが良い。

兜太さんは、俳句に、俳句専念して人生を掛けている作者が、俳句のもつ魔力というか、17文字で表現できる世界の広さを思うとき、「土手に横一線の径」だというのは、誇示のない率直な感慨ではないだろうか。

そして、その土手に上がった時の爽やかさ、川風の清々しさ、川面のきらめき、その中にある一本の径の、ことばの野を耕していきたいというその清々しさがよく伝わってくるように思います。

    紫雲英田に侠客ひとり裏返し     金子兜太

昭和47年、「暗緑地誌」より。

紫雲英は蓮華の漢名。最近では、休耕田に植えられていたりもするが、蓮華田はすっかり見かけなくなった。昭和47年辺りだと、あちこちで蓮華田が広がっていたことと思う。

侠客と言えばすぐに「清水次郎長一家」を連想してしまう。侠客とは、強きをくじき弱きを助ける人のことである。「裏返し」とは何であろう?からだの向きを変えたということではないだろうか。「裏返る」という自動詞ではない、「裏返し」なのであり、「返る」に比べて軽く遠くへ離したような、明るい印象を受ける。「侠客」との配合で「紫雲英田」なのであろう。この句の侠客は誰であろうか?私は、作者自身だと思う。紫ピンクの蓮華田にひとりうつ伏せになった、甘すっぱい青い香が鼻を突いた、それを劇画めいて、「侠客裏返り」ちょっと他人事のように、粋がって侠客と詠んだものではないか。なにやら面白い。 蓮華の濃いピンクの色彩が、くっきりと、侠客という言葉で浮かび上がってくるような句ある。

私も、小さい頃よく蓮華田に出かけた。蓮華田に寝転べばきっとすごく気持ちいいだろうと思ったものだが、道から見ると分厚い絨緞のように見える蓮華田も、近くに寄ってみると意外と穴がぽこぽこ空いていたりする。あっちの田んぼの方がもっと蓮華田がきれいかも知れないと移ってみてもいつも同じことだったような記憶がある。わたしには、蓮華田は、なにかいつもちょっと裏切られたような印象が強い。

   死火山屋島菜の花どきはかもめかもめ     金子兜太

昭和57年、猪羊集より。

屋島といえば、源平の合戦のあった壇ノ浦を眼前に見えるという観光地のはずである。私も小さい頃行ったことがあるが、小高い丘のような山で、死火山なんていう山ではない。「菜の花どき」というのだから、春、霞がかかっているのだろうか?

死火山と言えば以前に鑑賞した

  死火山に煙なく不思議なき入浴

が思い出される。この句は、作者が戦地を思い出して入浴をしている。この句と同じ戦争を下に引いているのではないだろうか。

瀬戸内海を一望でき、壇ノ浦の歴史を刻む景勝地、屋島に来て作者は海を見ると、やはり、トラック島を思い出してしまうのであろう。その心象を造型して、「死火山」なのではないだろうか。

そしていま眼前の、甘く眩しく菜の花の咲いている屋島でも、「かもめかもめ」とやはり、兜太さん自身、冬の海に漂うかもめなのであろう。かもめかもめと重ねることによって、菜の花とも重なり、うららかな春の駘蕩感の中に、また戦争の体験が蘇ってくるのである。そこに一層、深層の闇があるように思います。

   手術後の医師白鳥となる夜の丘    金子兜太

昭和36年、金子兜太句集より。

白鳥は最後に一声だけ鳴いて死ぬと言う。「白鳥の歌」が思い出されます。私は医者ではないので手術のあとがどういう状態なのか実際には分らない。しかし、人体にメスを入れて悪い所を取り出すのである。沢山の血が流れるだろうし、失敗は許されないだろう。大変な緊張感と興奮状態なのではないか。重責から解かれた医師が「白鳥」というのも分るような気がする。神経を使い果たしているのにみょうに浮き立ち、体が温い感じ、・・・白鳥だろうなと思う。手術の結果がよくなかったのではなかろうか?

医師が暗く、自分が死んでいけばよかったと白鳥になったような、苦悶に満ちて夜の丘を帰っている景が浮かんでくる。

   北風(きた)をゆけばなけなしの髪ぼうぼうす     金子兜太

昭和61年、「皆野」より。

北風といえば冬、寒風である。句の情景は容易に描ける。

わたしはこの句に韻律の愉しさを思う。「きたをゆけば」、北風に身をぐいぐいと踏み出すような感じ。「かみぼうぼうす」、寒風に負けていない、気持ちの明るさを感じる。

「なけなしの髪ぼうぼうす」と自分の禿頭を滑稽にいえるほど、いま、作者はエネルギーに溢れているのであろう。読んでいるこちらも、元気に、明るく、なれそうな感じがする。

     幼な子の尿(しと)ほどの雨鳥取泊まり    金子兜太

昭和52年、「旅次抄録」より

因幡と前書きがある。昭和50年ごろ、この当時は、作者は盛んに地方へ出かけ句会をされたようだ。鳥取へも出かけられたのであろう。鳥取といえば砂丘である、日中、砂丘を見てきたのではないだろうか。夜になって、ぱらぱら雨が一降りしたのであろう。「幼な子の尿(しと)ほどの雨」が誠にいいなあ。地方の素朴さがよく「幼な子の」から伺い知ることができる。「尿ほどの雨」から鳥取での温かな人為を感じているのだと思える。

雨降って地固まるとよく言うけれど、旅先で、夜になって降る雨は旅情のなかに、落ち着くものである。日中みた砂丘に雨が吸い込まれていくのを感じているのかもしれない。

しかし、「幼な子の尿(しと)ほどの雨」はすごくいい抒情だなあ。自宅でもし一雨あってもこういう感覚にはなれないような気がする。

       夏落葉有髪も禿頭もゆくよ         金子兜太

「有髪」を広辞苑で引いてみると、

  う‐はつ【有髪】

  □僧形そうぎように対して、剃髪しないでいること。

  □有髪僧の略。

僧の髪がふさふさしているということ。

僧が頭を剃らないでふさふさしていて、自分は僧ではないので当然剃らないが、禿頭である。その可笑しさ。まったく可笑しい。

「ゆくよ」が生命感に溢れていていいですね。夏落葉の季語が上手く生かされて、味わいのある句だと思います。

  海くる祖の風砂山を生み金雀枝を打つぞ    金子兜太

昭和52年、旅次抄録より。

因幡、先日の「尿ほどの雨」の句の後にある句である。

「海くる祖の風」というのが窮屈な感じがするけれど、意味は海を渡ってくる中国大陸からの風ということであろう。われわれ日本人は中国大陸から渡ってきた帰化人であるというのが一般的なのではないだろうか。兜太さんはたしか戦時中、軍医であった父に付いて中国に暮らしていた時期があったと思う。戦後、幾回か中国へ旅行され、昭和60年には「詩経国風」という句集も出しておられる。中国はわが心の祖という思いが強いのだとおもう。

日本海の海の向うは中国だなあと思うと、その海を渡ってくる風は「祖の風」と思えるのであろう。

季語は「金雀枝」、4,5月の花である。いま、金雀枝を打つ風は、その少し前の3,4月には黄砂となって渡ってきて、砂山を作ったのであろうと、作者は、海からの、祖の風に吹かれながら思っているのである。

    緑鋭の虚無老い声の疳高に    金子兜太

    突出の鬼色曼珠沙華朽ちて    金子兜太

昭和52年、「旅次抄録」より。

前書きに、金子光晴死去2句、とある。

詩人金子光晴の亡くなったのは昭和50年6月30日、79才、気管支喘息のため急死とある。この詩人光晴さんを、兜太さんは深く敬愛している。昭和40年には短歌結社「心の花」に「光晴覚え」という一文を書いている。

この海程40周年で兜太さんの4巻にわたる俳句だけでなく著作物のほとんどを網羅した全集が出版され私も購入したのでその「光晴覚え」を今読んで、この句を揚げてみた。

多分、兜太さんが、詩人の死に俳句を寄せられたのは光晴さんだけではないだろうか。

私も、以前にここでも話題になったので「金子光晴詩集」白鳳社を買って読んでいた。それを今読み直している。

兜太さんが、光晴の詩が好きだと言われるすべてが納得できます。光晴さんの詩は、兜太さんの俳句にもっている体質に通うものがとても多いと思います。

ところで、掲句だが、一句目は死因となった気管支ぜん息の声を詠んでいるのではないだろうか。「緑鋭の虚無」とは心から敬愛する人を失った虚しさがぎゅっと詰った表現だと思う。「緑鋭」というのは造語だろうか。光晴さんの苦しい声が作者の体を貫いたのであろう。

2句目は「突出の鬼色曼珠沙華」というところに光晴さんの詩、作者の抱くイメージをここに入れているように思う。「鬼の児の唄」が好きだ、その鬼は光晴自身であろうと「光晴覚え」にも書かれている。

きょうは兜太さんと詩人光晴さんのことをこの鑑賞を通して知ることが出来ました。

調べながらの鑑賞なので、足りないところがあるだろうと思います。

梅咲いて庭中に青鮫が来ている    金子兜太

昭和56年、「遊牧集」より。

早春の、梅の咲き出した早朝の、空がやっと白んできた頃に見た幻想であろう。

先日、長谷川櫂が「現代俳句の鑑賞101」に「これは幻。梅には鶯、魚であればせいぜい池の鯉と決まっている日本の詩歌の常識に飽き足らぬ人の見た凶暴な幻である。」とあるのを読んで、凶暴な幻というのに戸惑いがあった。ところで、早春の青鮫の幻想は、作者の心理的のどんなところから来ているのだろうか。白白とした静謐ななかに潜む、春の蠢き、怖さかもしれない。作者はそんな予知的な感受のデリカシーが強い人なのであろう。韻が5,5,9である。句の作りから見ると、梅と青鮫だけでは、読者のなかに感応の不協和音が立つ。「庭中に」という措辞が緩衝材の役割を果たしている。

庭という限られた具体的な空間が散漫にならず、この奇異な青鮫が、読む側に、多少奇異ではあるが、入りこめるのだと思う。

   夏は白花(しろはな)抱き合うときは尻叩け    金子兜太

昭和57年、猪羊集より。

作者は「白花」をわざわざ(しろはな)と振り仮名を付けている。なぜ言葉の響きに拘ったのだろうか?(ばな)では初夏の感じが損なわれるからだろうか?「夏は」と表しているけれど、初夏なのだろうと思う。

「抱き合うときは尻叩け」とはなんと大らかな朗らかさであろうか。この抱き合うは男女間だけではないのであろう。よく野球の試合を見ていると、よく尻を叩き合っているのを見かける。尻って叩かれて一番痛くないところ、

スキンシップには尻を叩くのが一番良いのだろうと思う。

男女間で尻といえば、つねるだろうけれど、叩くという方が明るいし、心身ともに健康的な感じがする。

何にしても、瑞々しい初夏のエネルギーに溢れている。

   抱けば熟れいて夭夭(ようよう)の桃肩に昴     金子兜太

昭和60年、詩經國風より。

この句集のあとがきに述べているのだが、一茶を研究するうちに一茶が一年がかりで中国の最古の詩集「詩經國風」を勉強しているのに注目し、自分も一茶を理解する為にこれを読み始めたのだが、ミイラ取りがミイラになり、自分もこれを俳句にしてみようと思った、と書かれています。狙いは言葉にある、句作りを通してことばをしゃぶってみたかった、それにしても、表意文字はしゃぶりでがある、漢字と言うやつはじつに楽しい。とも書かれてい

ます。

掲句は「桃夭」結婚を祝う詩から想を取って作られています。

「夭夭」は広辞苑に

  よう‐よう【夭夭】エウエウ

  □[詩経周南、桃夭]若々しくうつくしいさま。太平記37「―たる桃花の、暁の露を含んで」

  □[論語述而]顔色が和らいださま。表情のにこやかなさま。

と出ています。

桃と言えば女性の尻を想い描く人も多いようだが、まことに古今通して、若くうつくしい女性を形容しているのでしょう。

「抱けば熟れいて」、前回の「尻叩け」もそうでしたが、大らかですね。そして、どきっとするほどに、エロスを感じます。勿論、熟れるは桃に掛かるのでしょうが、この表記にはエロスがあって良いなって思います。「肩に昴」が現代風なのではないかなあ。作者は、結婚していくうつくしい女性の未来へ、希望を、幸多かれと願わずにはいられないのであろう。

正に、結婚を祝う句ですね。

私は、今まで、ここに鑑賞はじめてから、兜太さんの句で一番好きな句は

   麒麟の脚のごとき恵みよ夏の人

なのですが、この句も「詩經國風」の中の句ですね。

兜太さんは詩經を読まれて、ことばを開拓していかれたのですが、ほんとうにことばを開拓していくって大変なことですね。