金子兜太・佐佐木幸綱 『語る 俳句・短歌』
https://72463743.at.webry.info/201007/article_2.html 【金子兜太・佐佐木幸綱 『語る 俳句・短歌』】 より
俳句の風景 私の風景
仄暗き月日十薬抜くとせむ 玉宗
夕べから、NHK学園俳句大会に出席する為に和倉温泉に来ている。選者の顔合わせで前夜の夕食会に出席するためである。
講演の宇多喜代子の他、高野ムツオ・小路紫峡・富士真奈美・栗田ひろし・藤浦昭代各先生と不肖市堀である。
ロビーに入るなり事務局の栗田さんに呼び止められる。分厚い一冊の本を差しだして、ページを指差した。見ると、
〈「災害もご縁」の俳人 市堀玉宗> そんなタイトルが書いてある。
「何ですかこれ?」
「金子先生と佐佐木先生の対談集ですよ。市堀さんのことが書かれているんです。今晩お部屋で読んでごらんなさい。これは私が黒田杏子さんから戴いたものですから、明日の朝には返して下さいね。」
「はあ、そうですか。選者の懇親会が終わったら目を通しておきます。まあ、杏子先生から僕にも送ってくるとは思うけど・・」
夕食会が終わって部屋に戻り、件の一冊に目を通した。
金子兜太・佐佐木幸綱 『語る 俳句・短歌』藤原書店発行 「Ⅲ俳句の底力・短歌の底力」という章の中で14ページにわたって私のことが書かれていた。冒頭、司会役(聞き役)の黒田杏子先生の次の言葉から会話が始まっている。
黒田 最後の話題です。現代の歌人と俳人からお一人ずつ、ユニークな作家を挙げてください。読者にとって、こんな作家もいるのだと学びたくなる俳人と歌人を。有名無名を問いません。
金子 そう言われて、今、出てくるのは市堀玉宗だな。曹洞宗のお坊さんです。能登の輪島にいます。能登半島地震でやられた総持寺の門前です。総持寺の子寺というのかな。興禅寺。それを地震から2年間で完全に復興しました。彼の自選作品二十句をごらん下さい。」
云々と続くのである。
ん~、かなり際どい事まで書いてある。なにせ二十代で初めて出会ってからの先生に対する不義理やら何やらが臆面もなく綴られいるではないか。当人の私に言わせれば、当らずも遠からず、といったところか。私の女性遍歴まで言及しているに至っては思わず唸ってしまった。
「す、するどい!」
わが夫人が読んだらどんな反応をするやら・・・
然し、最後まで読み進めると解るのだが、私の様なものを対談の席にのせたのは、金子先生の持論でもある「俳句の底力、短詩形の根強さ、国民文芸であるという現実」を言いたかったのだと云う事。お二人の結論としてのお言葉を挙げて紹介を終わる。
佐佐木 短歌や俳句が生きる力になっている部分もあるわけですね。
金子 あるんです。これは大きいと思うなあ。日本人にはまだ、短歌、俳句というと「短い」という意味で、ある程度、下に見るところがどこかにあるんじゃないか。だけど、そんなもんじゃないということがお二人の存在と作品を知るだけでも分かりますね。私はやはり、この短歌、俳句両方の詩形は命になっていると思う。日本人の血になっているというか、そう思いますね。歴史は古いわけですし、今の二人をわれわれが挙げられるということで、短詩形の無限の力というものを感じました。
http://ayablog.com/old/2013/02/18/%EF%BC%92%E3%83%BB%EF%BC%91%EF%BC%98%E3%80%90%E3%81%9B%E3%82%93%E3%81%B1%E3%81%84%E6%97%A5%E8%A8%98%E3%80%91%E3%80%8C%E6%9C%9D%E7%84%BC%E3%81%91%E3%81%AE%E7%A9%BA%E3%81%AB%E3%82%B4%E3%83%83/ 【せんぱい日記】“朝焼けの空にゴッホの雲浮けり捨てなばすがしからん祖国そのほか” そして、i-Pad miniだ。(前川英樹)】より
フトしたことで、「語る 俳句 短歌」(金子兜太 佐佐木幸綱 藤原書店)をぱらぱらと再読。
1.「語る」
「朝焼けの空にゴッホの雲浮けり捨てなばすがしからん祖国そのほか」佐佐木幸綱
初めて読んだ時、新鮮な衝撃があった。
この歌がいつ詠まれたのか知らない。
しかし、どことなく寺山修司の
「マッチ擦るつかのまの海に霧深し身捨つるほどの祖国はありや」
の返歌のような印象がある。
どちらも、戦後精神が鋭く織り込まれていて、それは吉本隆明の<私>の優先や「共同幻想論」に通じるのではないかと思われる。「捨てなばすがしからん」あるいは「身捨つるほどの祖国はありや」という、どちらも断言の前に踏みとどまる心情が、かえってその思いを強く感じさせる。
いま、これらの歌をどう読むか、戦後思想の再検証が必要なのだ。
それはそれとして、
「今日までジュゴン明日から虎ふぐのわれか」
「酒止めようかどの本能と遊ぼうか」
「人間に狐ぶつかる春の谷」
「彎曲し火傷し爆心地のマラソン」
などの金子兜太の句や
「さらば象さらば抹香鯨たち酔いて歌えど日は高きかも」
「ウィスキーは割らずに呷れ人は抱け月光は八月の裸身のために」
「満開の桜ずずんと四股を踏みわれは古代の王として立つ」
などの佐佐木幸綱の歌は、こちらの心にドキドキと刺さるようだ。
自室のエアコン不調。ガス屋さんに来てもらう。
http://www.fujiwara-shoten.co.jp/pr_ki_article/ki_201006-01/ 【『機』2010年6月号:俳句/短歌をつなぐもの 金子兜太+佐佐木幸綱】 より
アニミズムの歌――佐佐木幸綱
【佐佐木】 幾つかアニミズムの歌を抜いてきました。
小面となりて在り継ぐ檜のアニマむかし浴びにし檜の山の雪 (『アニマ』)
檜です。今は能面になっているけれど昔は山にいて雪を浴びていた。今は能面、昔は山に自生した檜。全然違うものなんだけれど、同じアニマがずっと中を在り継いでいるという歌です。
啄木鳥になりからまつの幹を打つ一つ命を仰ぎ見るかも (『アニマ』)
この歌は解説は不要だと思います。
樹にされし男も芽吹きびっしりと蝶の詰まれる鞄を開く (『アニマ』)
鞄を開いたら中から蝶がワッと出てきた。男は今は樹になっている。その樹に蝶々がびっしりとまとわりついているというイメージです。昔、人間の男だったころ、彼が持っていた鞄なんですね。男と樹はじつは一つの命としてつながっているというかたちです。植物とか動物を命のレベルで見る、こういうアニミズムの歌を幾つか作りました。
三十一拍のスローガンを書け なあ俺たちも言霊を信じようよ (『群黎』)
これは六〇年安保のときの歌です。言葉のアニマですね。
言葉なき人にとっての言霊は何なりや宿題をノートに記す (『「われ」の発見』)
これは鶴見和子さんのことをうたったものです。鶴見さんとの対談を一冊にまとめた『「われ」の発見』のために、宇治のケアハウスに行って鶴見さんと話をしました。その折に取材した作です。鶴見さんは脳出血で、左片麻痺になられた。言葉がない人、言葉を失った人にとって言霊とは何なのか。鶴見さんと言霊の話をしたので。それが宿題になったという歌です。
満開の桜ずずんと四股を踏み、われは古代の王として立つ (『アニマ』)
鶴見さんが引用して下さって、その対談で話題になった歌です。満開の桜が四股を踏むという歌です。世田谷区にあるわが家の近くの砧公園に、じつに大きな桜があります。これがもう、巨大な力士のような凄い大樹なんですね。
天と地をむすぶ柱として立てる一本杉を敬いやまず (『アニマ』)
空から見る一万年の多摩川の金剛力よ、一万の春 (同)
こんなような歌です。少し意識的にアニミズムの感覚を歌で作ってみたりしています。
韻律と肉体
【金子】 これは日ごろ感じていることですが、今の歌もみなそうですが、あなたの場合は韻律に非常に力感があるでしょう。ただ力んでいるというより、むしろ肉体が働いて押し出されてきているという自然な感じがあって、私はその韻律にもアニミズムを感じるんだ。
【佐佐木】 ああ、韻律ですね。短歌とか俳句とか、五七のリズムがもう日本人にとっては一種のアニミズムなんですね。子供のときから肉体的に五七が染みついているということがあるんでしょうね。きっと。
【金子】 そうなんです。特にあなたの場合にはそれを感じます。
【佐佐木】 リズムにもアニマがあって、それが取り憑いているという感じなのかもしれないなあ。
【金子】 前登志夫(一九二六~二〇〇九)さんの歌も好きなんだが、あの人にはあなたほどの韻律の力がないですね。
【佐佐木】 〈暗道のわれの歩みにまつはれる螢ありわれはいかなる河か〉(『子午線の繭』一九六四)は、前さんのアニミズムの歌で代表的な一首です。歩いていると螢が俺にまつわりついてくる。俺は原書もしかしたら河なんじゃないだろうか、といった意味ですが、韻律もなかなかいいと思います。
【金子】 うん、いいんですけどね。ちょっと虚勢を張っているという感じがどこかにするんです。虚勢という言葉はきついですけど。あなたの場合はこういう韻律がごく自然です。出来の悪い歌でも韻律を味わうという場合があるんです、あなたの作品には。
【黒田】 佐佐木さんの場合、どの歌にも重量感がありますね。
【金子】 重量感もある。
【佐佐木】 まあ、あまり褒められても(笑)。兜太さんの句も重量感を意識して居られるんじゃないですか。重量感を感じます。
【金子】 あるみたいですね。
アニミズムの句――金子兜太
【佐佐木】 さっき、〈酒止めようかどの本能と遊ぼうか〉を挙げておられましたが、あと、どう句をご自分でアニミズムの俳句として挙げられますか。
【金子】 さっき、
今日までジュゴン明日は虎ふぐのわれか
の句を挙げていただいたが、それなんかも自分ではそのつもりですけどね。
谷に鯉もみ合う夜の歓喜かな (『暗緑地誌』)
はどうですか。
【佐佐木】 エロチックだし。
【金子】 エロス。フロイトは生の本能というんでしょう。
【佐佐木】 〈梅咲いて庭中に青鮫が来ている〉(『遊牧集』)。ぼくは兜太のアニミズムの俳句というとこの句を思い浮かべます。すばらしいですね。
【金子】 ええ。言おうと思っていた。青鮫イコール命なんです。直感的に出て来ます。『日常』では〈ジュゴン〉なんだなあ。〈今日までジュゴン〉なんて、まさにそうなんだ。それから、
長寿の母うんこのようにわれを産みぬ
がやはり。この「うんこ」なんて得意なんです、自分では(笑)。
【黒田】 「こんな句を載せるなんて」と怒っている人たちもいるんですよ(笑)。でも、百四歳までお母様は生きられた。いま、こういう句を作って発表される俳人はいないでしょうけどね。
【金子】 まあ、いないとは思うなあ。
動きが生きている
【佐佐木】 このごろの俳壇の俳句はきれいになりすぎましたよ。和歌に近づいてきている。誕生時の俳句は反和歌だったわけでしょう。和歌では俗なこと、汚いことはうたわないわけです。芭蕉は「鶯の糞」を俳句にしますが、絶対に和歌ではうたわない題材だった。外側から見て、近年の俳句はきれいすぎます。だから、「うんこ」の句は俳句らしくていいんじゃないですか。ともかくアニミズム。
【金子】 そう。〈谷に鯉〉〈青鮫〉〈今日までジュゴン〉とかがね。
【佐佐木】 〈人間に狐ぶつかる春の谷〉(『詩經國風』)もそうですね。
【金子】 ええ、これも得意です。
【黒田】 〈おおかみに螢が一つ付いていた〉(『東国抄』)はどうですか。秩父では狼が神社の狛犬の代わりになっている場面に出合いますが。
【金子】 そうです。狼になるんです。
【佐佐木】 この旅館(長瀞・長生館)の入り口に金子さんがお書きになった句の額が掛かっていましたね。
【金子】 入り口にあったのは、
猪がきて空気を食べる春の峠 (『遊牧集』)だ。あれもアニミズムです。
【佐佐木】 猪はイノシシと読むんですか。
【金子】 シシですね。あれは龍太君が珍しく褒めた句です。あれもそうです。
【佐佐木】 リズムがいいですね。兜太さんの句には口誦性がある。
【金子】 自分でもそう思います。
【佐佐木】 かなり字余りの句でも、そういう感じがします。
二十のテレビにスタートダッシュの黒人ばかり (『暗緑地誌』)
【金子】 あなたが好きな句だ。これは自分でも好きです。
【佐佐木】 とてもリズムがいい。覚えやすい。
【金子】 映像ですけれど、動きが生きているね。
【黒田】 〈朝はじまる海へ突込む鷗の死〉(『金子兜太句集』)はどうですか。アニミズムではないですね。
【金子】 うん、ちょっと違うような。
【佐佐木】 あれは僕、「朝の便所の句だ」とどこかに書いたことがあるんです(笑)。
【金子】 香西照雄がエレベーターの中でうんと怒ったのはあの句です。「何だ、おまえは! ああいう訳の分からない句を作って、俳壇に毒を流すつもりかッ」と。厳しかったです。何といっても向こうはオレにとっては先輩だからね。
【黒田】 振り返ってみたら、ずいぶん昔からアニミストの句ですね。
【金子】 そう。おのずからそうなってます。 (構成・編集部)
(かねこ・とうた/俳人)
(ささき・ゆきつな/歌人)