意味深な雨。
Naoyaです。
気づくと最近、雨が多いです。週末の一日が丸々雨で終わるとか。次の季節へとページをめくっていくように降る雨。こういうのも春らしさだと実感しています。
今日は二十四節気の6番目、穀雨(こくう)です。穀雨には「雨が降って百穀を潤す」という意味があり、稲を初めとしたさまざまな穀物の成長を促す雨が降ると言われる時期です。春の最後の節気で、次は立夏です。穀雨は十二星座の牡牛座の始まりでもあります。大地を潤して豊かさをもたらす恵みの雨が降る頃。
ちょっと外出しようかなと思うものの、なんとなく気が進まずにおざなりになって出かけるのをやめてしまうと、天気が悪くなって雨が降ることがよくあります。あるいは、僕が外出すると降っていた雨がやむことも多いです。昔働いていた会社では、退社時間近くに降っていたゲリラ豪雨のような夕立が、僕が帰るときにはピタリとやんでいたこともあります。
以前、京都に行くことが決まっていたとき、台風が京都を通過するという天気予報が出ていて心配していたところ、到着後すぐに個人セッションでお会いする予定だったクライアントさんと話していたら「Naoyaさんが来はるんやったら大丈夫」と言われました。僕が比較的晴れ男なのを、その方が知っていたからです。当日、新幹線で京都に向かっているとき、名古屋あたりで大雨だったのですが、京都に着いたら晴れ。なんと台風は京都を逸れたんだとか。クライアントさんと会うと開口一番に「ね、言った通り」と微笑まれました。
2016年春、初めて熊野古道に行く前日。奈良駅周辺で宿泊していたのですが、ずっと雨がやまないままでした。スマホのお天気アプリで天気予報を見ても、翌日の熊野古道周辺は雨。気になってなかなか寝つけませんでした。当日の朝。ガイドの山伏さんが奈良駅まで車で迎えに来てくれて、不安な気持ちで熊野の方向へと走らせていたら、トンネルを抜けるごとに一階層ずつ雲が取れて、みるみる晴れていきました。
こういう一連の出来事に、神様や天が僕に味方をしてくれているんだと言う人もいるのですが、実は晴れる方角を無意識に嗅ぎ取っているのかなとも思うんです。だからといってそれが凄いわけでもなく、自慢しているわけでもありません。街中で突然雨に降られるときもあります。そんな中、意味ありげな雨に出くわすこともたまにあります。
2013年秋、初めての京都の帰りに伊勢神宮に寄ったときのこと。一泊二日で外宮と内宮を参拝しつつ、別宮を巡る中で倭姫宮に立ち寄った帰り、突然の土砂降りになりました。驚くくらいの雨量。ずぶ濡れの中、自転車を停めてコンビニでひと休みしました。倭姫宮に辿り着いたとき、他の別宮とは違う畏怖のような怖さを鳥居の前で感じていたことも含めて、何か意味があったのかなぁと思います。
何度目かの熊野古道でも、朝一番で熊野本宮大社でお参りをしていたとき、山伏さんが真言を唱え出した途端、一瞬にして驚くほどの土砂降りになりました。動じることもなくずぶ濡れになりながら、しっかりと山伏さんと一緒に般若心経を唱えてから、車に逃げ帰ったのが印象的でした。
晴れる方向を嗅ぎ取れる(らしい)のに、自分の身に大量の雨が降り注ぐとき。きっとそこには、何かしらの僕に対するメッセージや意味があるのかもしれません。でも、その雨に対して違和感や嫌悪感のようなものがなければ、そのまま静かに受け止めるだけ。無理に解釈を見出そうとしたり、妄想に近い空想でこじつけたような「いかにもそれらしい」意味づけは必要ないと思っています。