神との対話①
http://gouttuo.web.fc2.com/sub710.html 【神との対話①】 ニール・ドナルド・ウォルシュ 吉田利子訳 サンマーク出版 より
第1章
人生は、自分が何者であるか思い出すため、創りなおすためにある。
人生は学校ではない。学校は知りたいことを知るために行くところだ。
人生はすでに知っていることを体験する機会だ。
1-1 わたしはすべての者に、つねに語りかけている。問題は、誰に語りかけるではなく、誰が聞こうとするか、ではないか?
1-2 感情は魂の言葉だ。最も深い感情のなかに、最も高い真実が隠されている。
1-3 コミュニケーションの手段として、感情、思考、経験そして言葉を使う。
わたしのメッセージはつねに、あなたの最高の考え、最もくもりのない言葉、最も偉大な感情である。それ以外は別の源から生じている。そして、最高の考えには、必ず喜びがある。くもりのない言葉には真実が含まれている。最も偉大な感情、それは愛である。
1-4 すべての人は特別であり、すべての時は黄金である。
1-5 自分の感情に耳を傾けなさい。自分の経験に耳を傾けなさい。そのどれかが、教師に教えられたことや本で読んだことと違っていたら、言葉のほうを忘れなさい。言葉は真実の伝達手段として、いちばんあてにならない。
1-6 あなたは求めるものを手に入れられないし、欲するものを得ることはできない。求めるというのは、自分にないと言い切ることであり、欲すると言えば、まさにそのこと--欲する--を現実に体験することになる。したがって、正しい祈りとは、求めたりすがったりすることではなく、感謝である。
現実に体験したいと考えることを前もって神に感謝するというのは、願いがかなうと認めることだ・・・
感謝とは神を信頼することだ。求めるより前に神が応えてくれると認めることだから。
1-8 どんな祈りもかなえられる。祈りとは、これが現実ですと認めることだから。そして、どんな祈りも、どんな考えや思い、感情も創造につながる。
1-9 人生の環境や条件を創造したり、しなかったりすることは、神の働きではない。神は神の姿をかたどり、神に似せてあなたがたを創造した。残りは、神が与えた力によってあなたがたが創造したのだ。神は人生というプロセスと生命そのものを創造した。だが、神はあなたがたが自由に選べる選択肢を、人生を好きなように生きる生きる力を与えた。
その意味では、あなたがたの意志は、あなたがたに対する神の意志でもある。
1-10 人間の行動には二つの動機しかない。不安か。愛か。
実は、感情の源もこの二つだけだ。魂の言葉にはこの二つの言葉しかない。この二つはわたしが宇宙を創造し、あなたがたが住む世界を創造したときに生み出された二つの極なのだ。これが「支える思考」とわたしが呼ぶものだ。愛という考えか、不安という考え。そのどちらかが、すべての思考の陰にある。この二つは最初の思考、最初の力だ。人間の存在というエンジンを動かしている生のエネルギーだ。
ひとが愛し、次に破壊し、そしてまた愛するのはそのためだ。つねに一方の感情から他方の感情へと揺れ動くからだ。愛は不安を支え、その不安は愛を支え、その愛がまた不安を支える・・・。
1-11 あらゆる生命の目的はひとつしかない。あなたが、そして生きとし生けるものすべての目的は、できるかぎりの栄光を体験する、ということだ。
1-12 最高の秘密は人生とは発見ではなく創造のプロセスだということだ。
あなたがたは自分を発見するのでなく、自分を新たに創造していく。だから自分が何者であるかを知ろうとするのは、もうやめなさい。そうでなく、何者になりたいかを考え、そうなろうと決意して努力しなさい。
1-13 学校とは、知らないことを教わりたいと思うとき、行くところだ。すでに知っていて、何も学ぶ必要はない。すでに知っていることを思い出し、それにもとづいて行動すればいい。
魂は知る必要のあることはすべて知っている。隠されていることは何もない。だが、知っているだけでは、充分でない。魂は体験したがっている。
1-14 まずはじめにあったのは、「存在のすべて」、それだけだった。
「存在のすべて」には、比較対照の基準がなかった。
「存在のすべて」は、そのすばらしさを自らを体験的に知ろうとした。
このエネルギー(純粋な、見えず、聞こえず、観察できず、したがってほかの誰も知りえないエネルギー)は、自分のすばらしさを体験しようとした。そのためには、自分の中にある比較対照の基準を使わなければならないと気づいた。
そこで、「存在のすべて」自分を分割した。栄光の一瞬に「これであるもの」と、「あれであるもの」となった。また「どちらでないもの」も存在している。
こうして、突然に三つの要素が生まれた。ここにあるもの。あそこにあるもの。そしてここにもあそこにもないが、こことあそこがそうんざいするために存在しなければならないもの。つまり、あらゆるものを包み込むのは無である。空間を包含するのは、非空間である。部分を支えるのは全体である。
何者でもないことから、すべてが飛び出してきたこと、この根本的な出来事こそ、科学者が言う「ビッグ・バン仮説」にほかならない。
すべての要素が生まれたので時が生まれた。なぜなら、ものはまずここにあって、つぎにあそこにあるのであり、ここからあそこに移る時間は計測できるからだ。
1-15 神は愛が存在するためには、対照となるものが存在しなければならないことを知っていた。そこで神は偉大なる極、愛でないあらゆるもの(不安と呼ばれるもの)を創りあげた。
1-16 神は宇宙を分割することによって、見えるもの、見えないものを含めて現存するすべてのものを、純粋なエネルギーから創りだした。
「わたしであり/わたしでない」という等式の、わたしでない部分はさらに爆発して無数の小さい部分になった。このエネルギーのひとつひとつが、あなたがたが「霊(いのち)」と呼ぶものである。
1-17 自分自身を分割したわたしの聖なる目的は、たくさんの部分を創って自分を体験的に知ることだった。
創造者が「創造者である自分」を体験する方法は、ただひとつしかない。それは、創造することだ。そこで、わたしは自分の無数の部分に(霊の子供のすべてに)、全体としてのわたしがもっているのと同じ創造力を与えた。
あなたがたを通してしか、知る方法がなかったからだ。したがって、あなたがたを創った目的は、あなたがた自身がわたしであることを知らせるためだったと言ってもいい。
1-18 あなたがた自身がわたしであることを知る方法はただひとつしかなく、それはまず、わたしでないものとしての自分を知ることだ。
1-19 その計画的のもとで、純粋な霊であるあなたがたは、創造されたばかりの物質的な宇宙に入る。概念として知っていることを体験として知るためには、物質的な世界で経験するしかないからだ。そもそも、物質的な宇宙秩序を創った理由はそこにあった。宇宙を律する相対性のシステムを創った理由も、すねての創造行為もそこにある。
1-20 自分が何であるかを知るためには、自分ではないものと対決しなければならない。これが相対性の理論の目的であり、すべての物質的な生命の目的だ。自分自身を定義するのは、自分でないものによってなのだ。
1-21 あなたがたは、実際に創造するまでは創造者としての自分を体験することはできない。そして、自分自身を創らないという経験があってはじめて、自分を創ることができる。「何かである」ためには、「そうではない」ことを体験する必要があるからだ。
1-22 もちろん、あなたがたは、自分でなくなることなどできない。あなたがたはもともと、神の子供、「純粋な、創造的ないのち」なのだから。そこで、あなたがたは次善の方法をとった。自分がほんとうは何者であるのかを忘れたのだ。
物質的な宇宙に入ったとき、あなたがたは記憶を捨てた。忘れることで、単に王国の白で目覚めるのではなく、自分が何者であるかを選べるようになった。
1-23 したがって、地上でのあなたがたの仕事は、自分が何者であるかを学ぶことでなく、思い出すことだ。そして、ほかのみんなが、何者であるかを思い出すことだ。だから、ほかのひとにもそれを気づかせること、思い出すようにしむけることも大きな仕事の一つだ。
1-24 絶対の中では、知識があるだけで、体験はない。知っているというのは神聖な状態だが、最大の喜びは、何者かで「在る」ということのなかにある。「在る」ことは、体験してのちにはじめて達成される。「知る」こと、「体験する」こと、何者かで「在る」ことの順に発達し、進化する。これが聖なる三位一体、神の三位一体である。
1-25 父なる神とは「知る」ことだ。すべての理解の親であり、すべての体験はそこから生まれる。
息子である神は、「体験」だ。父が自らについて知っていることを体現し、行動化する。体験しなければ、何者かで「在る」ことはできない。
聖霊としての神は「在る」ことだ。息子が体験したすべてを超越して、ただ存在する。単純にこの上なくみごとに「在る」ということは、知ったこと、体験したことの記憶を通じてのみ可能になる。単純に「在る」ということは至福である。神の状態、自らを知り、体験したあとの状態だ。これこそ神がはじめから求めていたものだ。
1-26 この三位一体(生じさせるもの、生じるもの、そして在るもの)の在り方が、神のしるしであり、聖なるパターンだ。三つでひとつ、それは崇高な領域のどこでも見られる。時と空間。神と意識、微妙な関係はすべて、このかたちから逃げられない。
1-27 宗教家の一部は、三位一体の真実を父と子と聖霊と表現した。
心理学者の一部は、超意識、意識、潜在意識という言葉を使った。
霊を扱う人々は、精神と身体と霊魂と言う。
科学者の一部はエネルギーと物質とエーテルと考える。
哲学者の一部は、ものごとは思考と言葉と行為において真実になるまでは、真実とは言えないと語る。
時について議論するとき過去、現在、未来の三つの時制しかない。
空間的な関係は、ここ、あそこ、そしてその間と考えるだろう。
1-28 ところが、素朴な関係においては、「その間」という認識がない。素朴な関係はつねに二元的であるのに、崇高な領域の関係は必ず三元的だからである。
素朴な関係のなかでは、必ず対極が存在する。正反対のものが必ずある。
崇高な領域の関係では、対極というものはない。すべてはひとつであり、一方から他方へと変転して終りのない循環を繰り返している。
1-29 地震やハリケーン、洪水、竜巻など、あなたがたが天災と呼ぶものは、一方の曲から対極への要素の移動にほかならない。生死の循環はすべて、この移動の一部である。それが生命のリズムであり、素朴な領域にあるものはすべてこのリズムに従う。生命それ自体がリズムだからだ。それは波であり振動であり、「存在のすべて」の鼓動だ。
1-30 病や不調は健康の対極であり、あなたがたの要請に応じて現実になる。どこかのレベルで自らが引き起こさなければ病気にならないし、元気になろうと決意すれば快くなる。個人的な深い失望も自分で選んだものだし、世界的な災厄は世界的な意識の結果である。
1-31 外に向かってではなく、内に向かって「この災厄を前に、いま自分は何を体験したいのだろう。自分のどの部分を引き出したいのか」と問いかけなさい。人生のすべては、あなた自身の創造の道具なのだから、そして、出来事のすべては、自分は何者なのかを決定し、その自分になる機会を与えるために存在しているのだから。
1-32 それぞれの魂は(マスター)である。ただ、本来の自分や受け継いだ遺産を思い出せない者もいる。それでも、それぞれが自分の高い目的のために、そして出来るだけ早く真実の自分を思い出すために、状況と環境を創造しつづける。「いま」と呼ばれる一瞬一瞬に。
1-33 あなたがらは他者が歩む因果(カルマ)の道を、善いとか悪いとか判断してはならない。
1-34 かつて自ら光であることを知っている魂があった。これは新しい魂だったから、体験したくてならなかった。「わたしは光だ」とそれは言った。だが、この魂が生まれた領域では、光しかなかった。その小さな魂、まるで太陽の前ではロウソクのようだった。偉大な光の中では、その光の一部である魂は自らを見ることができないし、自分が何者であるかも体験できない。
そこで、その魂は全体から離れ、別の領域に行った。その領域では、魂はあらゆる闇を体験する力をもっていた。そして闇を体験した。
その闇のさなかで、魂は叫んだ。「父よ、父よ、どうして、あなたはわたしを見捨てたのですか?」。たとえば、あなたがたが暗闇にいるときのように。だが、わたしは一度もあなたがたを見捨てたことはない。つねにそばにいて、ほんとうは何者であるかを思い出させようとしているし、いつも、わが家に呼び戻そうとしている。
だから、闇の中の光になりなさい。そして闇の中にいることを呪ってはいけない。
また、まわりが自分と違うものばかりでも、自分が何者であるかを忘れてはいけない。そして創造物をほめたたえなさい。たとえ、それを変えたいと思っても。
最も大きな試練が、最も偉大な勝利になる可能性がある。あなたが生み出す体験は、自分が何者であるか、そして何者になりたいかという宣言なのだから。
小さな魂と太陽のたとえ話をしたのは、どうしていまのような世界になったのかを理解させるため、そして、誰もが現実の奥に秘められた神聖な真理を思い出せば、その瞬間に世界は変わりうることを、もっとよく理解させるためだ。
1-35 あなたがたは大きな創造物の機械であって、考えるのと同じ速さで新しいことを出現させている。
出来事、事件、条件、環境すべては意識から創造される。個々の意識はそれほど力強いものだ。集団意識は全世界に広がり、全地球的な結果をもたらす出来事や環境を創造するほど大きな力がある。
1-36 なにごとであれ、それを変える第一歩は。選んだのは自分だと認め、受け入れることだ。個人として責任があると思えなければ、わたしたちはすべて一体であるという理解を通じて、認めなさい。それから、間違っているからではなく、ほんとうの自分にふさわしくないからという理由で、変化させる努力をしなさい。
1-37 何かをする理由は、一つしかない。宇宙に向かって、自分は何者であるかを示すことである。
そうすれば、人生は自己の創造になる。あなたがたは人生を使って、真の自分、こうありたいと願ってきた自分を創造する。また、ある行動を拒否する理由も一つしかない。それが自分にふさわしくなくなった、という理由だ。その行為が、あなたがたの真の姿を表さないからである。
1-38 あなたがたは、外部の出来事を変えることはできない(出来事は多数によって創造されており、集団的に創造されたものを個人が変更できるほど、あなたがたの意識は成長していない)。だから、内的な経験を変えるしかない。これが生きることの王道である。
1-39 物事を勝手に決めつけるから、苦しむのだ。決めつけるのをやめれば、苦痛はなくなる。決めつけるのはそれまでの経験のせいだ。ものごとに対する考えは、過去の考えから生まれる。過去の考えはさらにその前の考えの結果である。そしてその考えはまたさらに過去の考えから生まれるというふうに、まるで積み上げたレンガのように続く。この鏡の廊下をずっとたどっていくと、わたしが「最初の考え」と呼ぶものに行きつく。
1-40 あることが(考えでも言葉でも行為でも)「間違っている」というんは、それをするなと禁じるのと同じだ。禁じるというのは制約するということだ。制約するというのは、真のあなた方を否定することだ。
1-41 地獄とは、あなたがたの選択、決定、創造の最悪の結果を体験することだ。わたしを否定する考え、あるいはあなたがた自身の真の姿を否定する考えから生まれる。
地獄とは喜びの対極である。満たされないこと。自分が何者かを知っていながら、それを体験できないこと。本来の姿にくらべて卑小な在り方。それが地獄であり、あなたがたの魂にとって、それよりもつらいことはない。
1-42 すべての物質的な生命は自然の法則に従う。この法則を思い出して適用すれば、物質的なレベルでの生命は支配できる。あなたがたの目には罪と見えるもの、あるいは悪とか不運と思われるもの、それは自然の法則の結果でしかない。
1-43 宇宙の法則は、わたしが定めた法則だ。それは完璧な法則で、物質を完璧に機能させる。
1-44 自然の法則は学ぶことでなく、思い出すのだ。
1-45 まず、静かにすることだ。外の世界を静かにさせて、内側の世界が見えてくるようにしなさい。この内側を見る力、洞察力こそあなたが求めるものだが、外部の現実に心をわずらわせていては決して得られない。だから、できるだけ内側へ入っていきなさい。
1-46 内側に入っていかなければ、からっぽで出て行かなければならない。
1-47 現在という栄光のある時に、経験を創り出すこと、したがって自らを作り出すことが目的なのだから、どんな人生を経験するのか、前もって選びはしない。
だが、経験を作り出すためのひとや場所、出来事は選ばれ、条件や環境、そしてチャレンジや障害、機会と選択肢も選ばれている。
1-47 魂が何を選んでもあなたがたには限りない可能性が開けている。あなたがたが限られたものと呼ぶ肉体に宿る魂にはどんなことも可能だ。ただあなたがたには、魂の課題が理解できないし、魂の意図もわからない。
だから、あらゆる人と条件を祝福し、感謝しなさい。そうすることで、神の創造物の完璧さを認め、神への信頼を示しなさい。神の世界ではいきあたりばったりに起こることは何もないし、偶然もない。
1-48 「正しい」とか「間違っている」とかは、物事の本質ではなく、個人の主観的な判断だ。その主観的な判断によって、あなたは自らを創り出す。個人的な価値観によって、あなたは自分が何者であるかを決定し、実証する。
1-49 わたしは、あなたがた自身がしないことは何もしない。それが法則であり、予言だ。
1-50 あなたがた自らの中に犯罪の原因を見出したとき、ようやく犯罪の温床となる原因の治療を始めることができる。
飢えた人々に食物を、貧しい人びとに尊厳を与えなさい。運に恵まれていない人に機会を与えなさい。大衆が怒る原因となる偏見に、より良い明日へのささやかな約束によって終止符を打ちなさい。性的エネルギーに関する無意味なタブーや制約を捨て、人々がその真の素晴らしさを理解するように、適切な方向にエネルギーを向けるように助けてやりなさい。
1-51 キリストの最も偉大な教えは、あなたがたが永遠の命を得られるだろうということでない。あなたがたは永遠の命があるということだ。あなたがたは求めたものを与えられるだろうということではない。すでに与えられているということだ。
必要なのは、それを知ることだけだ。あなたがたは自分の現実の創造者だ。そして人生はあなたがたが予想するようにしか、展開しない。
1-52 考えることが、現実になる。これが創造の第一歩である。父なる神とは考えだ。あなたがたの考えは、すべてのものごとを誕生させる親である。
1-53 第一の法則は、あなたがたは自分が創造するとおりになれるし、創造するとおりのことができるし、創造するとおりのものをもてるということだ。
第二の法則は、あなたがたは恐れ、不安に思うものを引き寄せるということだ。
1-54 感情はものごとを引き寄せる力がある。あなたがたは、自分が最も不安に思うことを体験することになる。
1-55 感情は動いているエネルギーである。エネルギーが動くと、効果が表れる。大量のエネルギーが動けば、物質が創り出される。物質は凝縮したエネルギーだ、動きまわり、押しあうエネルギーだ。長いあいだ、一定の方向でエネルギーを操作するば、物質が得られる。これは宇宙の錬金術だ。すべての生命の秘密だ。
1-56 思考は純粋なエネルギーである。思考のエネルギーは、決して死に絶えない。あなたがたの存在を離れて宇宙へと向かい、永遠に広がっていく。思考は永遠だ。
1-57 すべての思考は、凝結する。すべての思考はほかの思考と出会い、信じ難いエネルギーの迷路で行き違い、言葉に尽くせないほど美しく、信じ難いほど複雑な、つねに変容し続けるパターンを生む。
1-58 エネルギーは似たもの同士が引けつけあう。そして似たエネルギーの「かたまり」をつくる。似たような「かたまり」がたくさん出会い、ぶつかりあうと、お互いに「くっつきあう」。こうして考えられないほど膨大なエネルギーが「くっつきあう」と、物質ができる。
1-59 同じ精神をもった人びとが力をあわせれば好ましい現実を創りだせるということを、あなたがたはそろそろ理解すべきだ。
1-60 法則は非常に単純だ。
①思考は創造につながる、
②不安や恐怖は似たエネルギーを引き寄せる。
③存在するすべては愛である。
1-61 愛は究極の現実だ。それが唯一であり、すべてだ。愛を感じるということは、神を体験することだ。
至高の真実のなかでは、存在するすべては愛であり、存在したすべて、これから存在するであろうすべても愛である。絶対の領域に入るとき、あなたがたは愛のなかへ歩み入る。
1-62 相対性の領域は、わたしが自らを体験するために創り出したものだ。それはあなたがたとわたしが自分を体験的に知るために工夫した、そしていまも工夫し続けている、創られた現実だ。
つまり、相対性の領域を創造することで、わたしは、あなたがたが神であると言われるだけでなく、神であることを選択できる環境を作り出した。その領域であなたがたが概念ではなく創造行為として、神を体験できる。
1-63 不安や恐れは愛の対極である。これが第一の両極。相対性の領域を創ったわたしは、先ず自らの対極を創りだした。さて、あなたがたが暮らす物質的な領域には、二つの在り方しかないといった。不安と愛である、不安に根ざした思考が物質的な場を生む。愛に根ざした思考がもう一つの場を生む。
第2章
自分の信念をもち、自分の価値観に従いなさい。
それがあなたの親、その親の親の価値観、友人、社会の価値観なのだ。
あなたが幸福かどうか知っているのは、あなただけだ。
2-1 神は悲しみのなかにも笑いのなかにも、苦さのなかにも甘さの中にもいる。すべての奥に聖なる目的がある。したがって、すべてのなかに聖なる存在がある。
2-2 あなたがたが創り出すものはすべて、思考も品物も出来事もそれにどんな経験も、神の計画のなかにある。神の計画のもとで、あなたがたは望むものを何でも創り出すことができる、その自由に、神が神であることの体験が在る。あなたがたを創りだしたのはこの体験のためだし、生命そのものを創りだしたのもそのためだ。
2-3 神は何でも受け入れる。存在するものを神が受け入れないはずはない。拒否するというのは、その存在を否定することだ。何かがいけないと言うのは、それがわたしの一部ではないと言うことである。そんなことはありえない。
2-4 だが、あなたは自分の信念を持ち、自分の価値観に従いなさい。それはあなたがたの親の、そして親の親の価値観だから。友人の、そして社会の価値観だから。自分自身の価値観があなたの人生の骨組みになっている。それを失えば体験の布目がばらばらにほつれてしまう。ただ価値観をひとつずつ検討しなさい。ひとつずつ、見直しなさい。家を解体するのではなく、レンガをひとつずつ調べ、壊れていてもう家の構造を支えられなくなっているものはとり替えなさい。
2-5 善悪についてのあなたがたの考え、それもあなたがたをかたちづくり、創造する思考のひとつだ。その思考を変える理由はひとつしかない。あなたがたが、「そう考えている自分」では幸福でないときだけだ。
あなたが幸福かどうか知っているのは、あなただけである。あなただけが、自分の人生について「これはわたしの創造物である。わたしはとても満足している」ということができる。
あなたの価値観が自分に役立つなら、大事にしなさい。これがわたしの価値観だと言い、まもるために闘いなさい。だが、闘うといっても、誰も傷つけないように気をつけなさい。傷つけることは、癒しにはつながらない。
2-6 あなたが真実だと思っている価値判断のなかで、体験にもとづいたものはごくわずかしかない。あなたがたは体験するためにこの世に生まれ、すでに体験を通じて自分を創りあげるはずだった。ところが他人の体験から自分を創りあげている。
2-7 あなたがたは自分で体験するまで待たず、他人の体験を福音として受け入れ、実際の体験をするときには、すでに知っていると考えていることをなぞる。
2-8 人間のセクシュアリティに対するあなたがたの態度を見ればよくわかる。
誰でも、性的体験が人間の行為のなかで最も愛すべきで、胸躍る、力強い、昂揚する、新鮮でmエネルギッシュで、前向きで、親密で、一体感のあるものだと知っている。
それなのに、あなたがたは他人が考え出した性に関する判断、見解、考えのほうを受け入れる。
そういう見解、判断、思考は体験と真っ向から対立するのに、あなたがたは教師が間違っていると考えるのはいやだから、間違っているのは体験のほうだと自分に言い聞かせる。その結果、あなたがたは真実を裏切り、そのために、破壊的な影響を生じている。
2-9 金銭についても同じことだ。大金を持つたびに、あなたは嬉しくなった、大金を受け取れば喜び、使うと楽しくなった、だが、この問題でも、ほかのひとの教えが深くしみこんでいるから、他人の「真実」を認めて、自分の体験を否定する。
2-10 あなたがたは他人の「真実」を自分のものとし、それを中心に思考を築いてきた。思考は創造だ。あなたがたは金銭に対しては、金銭を遠ざけるという現実を創りだしてきた。だって、善でないものを引きつけようとするはずはないだろう。
2-11 驚いたことにあなたがたはそれと同じ矛盾を、神についても創りだしてきた。
あなたがたの心では、神は恐れたりせず愛すればいいと感じている。神について教えるものは神は復讐心に満ちている。恐れよ、と言う。神の怒りを恐れて生きよと言う。あなたがたは、神の存在に震えおののかなければならない。一生、神の戒律に「従順」であれ。さもないと大変なことになるぞ、と言うから。
2-12 神には何も必要でない。「すべて」、それが神だからだ。欠けているもの、必要なものは何もない。それが神という存在なのだ。
2-13 要求とは、すべての創造の始まりである。最初の考えである。魂の中の偉大な感覚である。それは神であり、次に何を創造するかの選択である、では、神の要求とは何か。
第一に、栄光のなかでわたし自身を体験することを願った。わたしが何者であるかを知ることを願った。あなたがたを、そして宇宙の世界すべてを創り出すまえには、それは不可能だった。
第二に、あなたがたに「自分で選んで創造し、体験する」という力を与えて、真の自分を知って体験させようと願った。
第三に、生命のプロセスのすべてがたえまない喜びと創造の体験であり、終わることのない拡大で、一瞬一瞬が充分に満たされることを願った。
2-15 大きな大きな喜びと愛と受容と祝福と感謝を感じるだろう。
この五つは神の姿勢である。あなたがたもこの五つを実践すれば神性が得られることを、この対話のなかで教えてあげよう。
2-16 そう、自分の価値観に従いなさい。それが役に立つと思うあいだは。ただし、その価値観が役に立っているかどうか、最も気高く、すぐれた考えを体験する場をあたえてくれているかどうか、思考と言葉と行動を通じて、点検しなさい。
2-17 価値観をひとつづつ検討しなさい。外の光を当ててみなさい。世界に向かって、自分が何者か、何を信じているかを、ためらわず、はっきりと言い切れるなら、あなたは幸せだ。
第3章
宇宙には「良い」状況も「悪い」状況もないと、第一に理解しなさい。
すべてはあるがままに過ぎない。第二に、すべての状況は一時的だ。
そして、それがどちらの方向に変わるかはあなた次第だ。
3-1 わたしはあなたがたが選んだとおりのものをもてるよう、創造できるようにするために、宇宙の法則をうちたてた。
人生の一瞬一瞬がすべて、その法則のなかで動いている。
あなたがたは、神のパートナーである。わたしたちには永遠の契約がある。わたしは、常に望むものを与えると約束した。あなたがたの役割を尋ねることだ。尋ねて答えを得るというプロセスを理解することだ。
3-2 このプロセスをもう一度説明しよう。
あなたがたは、三層から成り立ッている存在だ。<身体と精神と霊魂>とでできあがっている。これは<肉体、非肉体、超肉体>と呼んでもいい。
3-3 あなたがたのこの三つの要素は、実際には三つのエネルギーである。それを思考、言葉、行為と呼んでもいい。この三つがあわさって結果が生じる。あなたがたはそれを、感情とか経験と呼んでいる。
3-4 あなたがたの<魂>、つまり超意識、イドー、霊魂、過去はかつて経験した、創造したすべての感情の総和である。その一部で、意識のなかに浮かび上がってきたものを記憶と呼ぶ。それが思い出す(re-menber)ということだ。思い出すということは、かつて経験した感情を再びメンバーにする、部分を集め、並びかえるということだ。
3-5 創造のプロセスは思考から始まる。考え、概念、ヴィジョンだ。あなたが見ているものはすべて、かつて誰かの思考だった。すべて、最初は、純粋な思考から始まっている。それ以外のものは存在しない。
これは宇宙でも同じことだ。
3-6 思考が創造の最初の段階。
3-7 つぎに言葉がくる。あなたが言うことはすべて、考えたことの表れである。言葉は創造につながり、創造のエネルギーを宇宙に放出する。言葉は思考よりダイナミックだ。なぜなら言葉と思考は波動のレベルが異なる。言葉は思考より大きな衝撃を与えて宇宙をゆるがす。(変化させ、改め、影響を及ぼす)
3-8 言葉が創造の第二の段階。
3-9 次に行為がくる。
行為は動いている言葉である。言葉は考えことの表れである。考えるとは思いをかたちづくること、思いとはエネルギーの集まりである。エネルギーは放出された力である。力は実在の要素である。要素は神の分子で、すべての成分であり、あらゆるものの実体である。
3-10 はじまりは神で、終りは行為である。行為は創造する神、あるいは体験された神である。
3-11 あなたがたは自分が神の一部や、神のパートナーであるはずはない、それほど善良でも素晴らしくもないし、純粋でないと考えている。長い間否定してきたので、真の自分を忘れてしまったのだ。
3-12 それも偶然でない。すべて聖なる計画の一部なのだ。
あなたがたが、真の自分をすでに実現しているとしたら、真に自分を主張することも、創造することも、体験することもできない。まず神であるわたしとのつながりを捨て、否定し、忘れなければ、それを創造して、体験することはできない。
あなたがたの最大ののぞみは、つまり神であるわたしの最大の欲求は、あなたがたが神の一部としての自分を体験することだ。わたしもそうだ。あなたがたを通じて体験している。
3-13 神の約束とは、あなたが神の息子であるということだ。あなたは神の子孫、神の如きもの、神と対等な存在だ。
3-14 もし神と対等な存在なら、外からあなたに何もできないということになる。すべてはあなたによって創造されたことになる。もう被害者も悪人もない。ただ、ものごとに対するあなたの考えの結果があるだけだ。
そのとおり、あなたが世界で見るものすべて、あなたの考えの結果だ。
3-15 ほんとうに人生が「上向く」ことを望むか?
それなら、まず、人生に対する考えを変えなさい。自分に対する考え方を変えなさい。そして、神である自分らしく考え、話し、行動しなさい。
3-16 あなたの単純な真実、単純な真実のままの人生、俗世界の人びとが考案するどんなものよりも美しく、心地よく、安らかで、愛に満ちている。
3-17 最も気高い、こう在りたいと思う自分を考えなさい。そして、毎日其のとおりに生きたらどうなるかを想像しなさい。自分が何を考え、何をし、何を言うか、ほかの人の言動にどう応えるかを想像しなさい。
3-18 さて、いまの自分とこうありたいと望む自分の違いがわかったら、考えと言葉と行動を気高いヴィジョンにふさわしく、意識的に、変えようと決心しなさい。
3-19 一瞬も怠らず、常に自分の思考と言葉と行為を見張っていなくてはならない。常に、意識的に、選択をつづけなければならない。このプロセスは、意識的な人生への大きな一歩だ。そう決意すると、人生の半分を無意識のまま過ごしてきたことに気づくだろう。結果を体験するまで、自分の思考と言葉と行為をどう選んでいるか、意識しないできたということだ。しかも、結果を体験しても、自分の思考、言葉、行為がそれと関係があるとは考えない。
これは、そんな無意識な生き方はやめなさいという呼びかけだ。あなたの魂が時のはじめからあなたに求めてきた課題なのだ。
3-20 意識的な生き方は第二の天性になるだろう。実際第二の天性なのだから。無条件に愛するというのが第一の天性、その最初の天性を意識的に表現する、そう選択することが第二に天性だ。
3-21 あなたの高いヴィジョンにそぐわない考えが浮んだらそのとき、その場で「新しい考え」に変えなさい。立派な考え方にそぐわないことを言ってしまったら、二度とするまいと心に銘記しなさい。最善の意図にそぐわないことをしたら、これを最後にしようと決意しなさい。そして、できれば関係者たちに訂正してまわりなさい。
3-22 宇宙には「良い」状況も「悪い」状況もないことを第一に理解しておくべきだ。すべてはあるがままにすぎない。だから、価値判断はやめなさい。
第二に、すべての状況は一時的だ。どんなこともいつまでも同じままではいないし、静止してはいない。どちらかの方向へ変わるかはあなたしだいだ。
3-23 魂が何を追及しているかを、はっきりと知ることだ。そして、それについて批判するのをやめること。
3-24 自分自身を批判するのをやめなさい。何が魂の望みかを知って、それに従いなさい。魂とともに行きなさい。
3-25 魂が追求しているのは、想像しうるかぎりの最高の愛の感情だ。これらが魂の欲求、目的だ。魂は感じようとしている。愛を知ろうとしているのではなく、、感じようとしている。
3-26 最高の感情は「すべてである」存在と合体する経験だ。それは真実へと帰ることであり、魂が切望しているその真実が、完璧な愛である。
3-27 完璧な愛とは色のなかの完璧な白のようなものだ。多くの人は白とは色がないことだと考えているが、そうではない。あらゆる色を含んでいるのが白だ。白は存在するあらゆる色が合体したものだ。だから、愛とは感情(憎しみ、怒り、情欲、嫉妬、羨望など)がないことでなく、あらゆる感情の総和だ。あらゆるものの集合、すべてである。
だから、魂が完璧な愛を経験するには、「人間のあらゆる感情」を経験しなければならない。
3-28 人間の魂の目的はすべてを経験すること、これによってすべてになりえることだ。
一度も下降したことがなければ、どうして上昇できるだろう?一度も左になったことがなくて、そうして右になれるだろう。冷たいということを知らなければ、どうして温かくなれるだろう?悪を否定していたら、どうして善になれるだろう?選択肢がなければ魂は何も選べない。魂が偉大さを体験するためには、偉大であるとはどういうことかをしらなければならない。そこで魂は、偉大さは偉大でないところにしか存在しないと気づく。だから、魂は偉大でないものを決して非難しない。それどころか祝福する。そこには自らの一部、別の一部が現れるために必要な一部があるから。
3-29 もちろん魂の使命はわたしたちに偉大さを選ばせること、選ばなかった部分を非難せず、最善の自分を選ぶようにさせることだ。こんな大きな使命を果たすには、いくつもの生涯が必要だ。
3-30 あなたがたは一生、自分は悪だと自分に言い聞かせている。自分が悪であるだけでなく、自分が欲するものは悪だと考える。セックスは悪、金は悪、喜びは悪、力は悪、豊かなことは悪、何でもかんでも悪だ。
自分の使命を向上するためには、そんなやり方でもかまわない。いずれにせよ、目的地は同じだ、ただ、もっと近道がある。
3-31 いますぐに、自分自身を受け入れ、それを実証すること。
イエスはそれをした。それがブッダの道であり、クリシュナの道、、地球上に現れたすべての<マスター>の道だ。
3-32 あなたがたは善であり、慈悲であり、同情であり、理解だ。あなたがたは平和であり、喜びであり、光だ。あなたがたは赦しであり、忍耐であり、力であり、勇気であり、苦しいときの援助者であり、悲しいときの慰め手である、傷ついたときの癒し手であり、迷ったときの教師だ。あなたがたが最も深い智恵と真実、最も偉大な平和と愛だ。あなたはそういう者なのだ。そして、たまには、自分がそういう者だと気づくことがあった。
これからは、いつも、自分はそういう者だと理解していなさい。
第4章
自分がふさいだり、落ち込んだりしていると思ったら、考えなおしなさい。
そんなことをしていても何もならないと思ったら、考えなおしなさい。
やり直したいと思うのなら、人生は何度でもあるから。
4-1 このゲームに負けることはない、そういうことだ。間違うことはない。それは計画に入っていない。あなたが目指しているところへ行き着かないことはあり得ない。神があなたの目標でよかったね。神は大きいから、目標から外れたりしないよ。
4-2 人生は創造であって、発見でない。あなたがたは、人生に何が用意されているかを発見するために毎日を生きているのではなく、創造するために生きている。自分ではわからないだろうが、あなたがたは、一瞬一瞬、自分の現実を創造している。
4-3 どんなふうに創造しているかまとめてみよう。
①わたしは神の姿をかたどり、神ににせて、あなたがたを創造した。
②神は創造者だ。
③あなたがたは三つが一体になった存在だ。父と子と聖霊でもいいし、精神と身体と霊でもいいし、超意識と意識と無意識でもいい。
④創造とはその三つの部分から生ずるプロセスである。言い換えれば、あなたがたの創造には三つの段階がある。創造の道具は思考、言葉、行為だ。
⑤すべての創造は思考から始まる。すべての創造はつぎの言葉になる。(「求めなさい、走すれば与えられるだろう。話なさい、そうすれば成就するだろう。」)すべての創造は行為によって成就される。(「言葉はひととなって、わたしたちの間に住まわれた。」(
⑥あなたが考えるだけで言葉に出さなくても、一つの段階での創造だ。考えて言葉にすれば、もう一つの段階での創造になる。あなたが考え、語り、行動すると、具体的な現実になる。
⑦本当は信じていないことを考えたり、語ったり、行動したりすることはできない。だから、創造のプロセスには信念、つまり知るということが含まれる。絶対的信頼だ。願うだけでなく、確実にそうなると知っていなければならない。(「あなたは信仰によって癒される。」)したがって、創造行為には、常に知識が含まれる。何かを身体で理解し、まるごと確信する、「完全に受容する」ということだ。
⑧そこまでわかっていれば、強い感謝の気持ちが生まれる。感謝せずにはいられない。それがたぶん、創造の最大の鍵だ。創造が具体化する前に、創造に感謝することだ。願いは当然かなえられると信じることだ。
⑨あなたが創造するすべて、創造したすべてを祝福し、楽しみなさい。一部でも否定すれば、自分の一部を否定することになる。あなたの創造の一部としてどんなものが現れようとも、それを自分のものとし、祝福し、感謝しなさい。非難しないように努めなさい。非難するのは、自分を非難することだからだ。
⑩自分が創造したなかで、楽しめず祝福できないものがあったら、選びなおしなさい。新しい現実を呼び出しなさい。新しいことを考え、新しい言葉を口にし、新しいことをしなさい。立派にやり直せば、世界はあなたについてくるだろう。「わたしが生命であり、道だ。ついてきなさい。」と言いなさい。
これが神の意志を「天国と同じく、地上にも」実現させる方法だ。
4-4 人生を「上向かせる」には、まず人生についての考えを明確にしなければならない。どうなりたいのか、何をしたいのか、何がほしいのか、よく考えなさい。はっきりするまで、考えなさい。そしてはっきりしたら、今度はほかのことは考えず、ほかの可能性を想像しないことだ。
4-5 否定的な考えは頭から追い出しなさい。悲観主義を一掃しなさい。疑いを捨てなさい。不安を拒否しなさい。創造的な考えをしっかりつかんで離さないように心を鍛えなさい。
4-6 あなたの考えがはっきりしたら確かなものになったら、それを真実として語りなさい。はっきりと声を出しなさい。創造の力を呼び出す偉大な号令を使いなさい。「これがわたしである」という号令を。
ほかのひとに、「これがわたしである」と宣言しなさい。「これがわたしである」というのは、宇宙で最も力強い宣言だ。あなたが何を考え、何を語るにしても、「これがわたしである」という言葉をきっかけにものごとが動き、体験できるようになる。
4-7 宇宙の動く仕組みはそれだけだ。ほかに道はない。宇宙は「これがわたしである」という言葉に応える。
4-8 自分の考えにたがをはめ、コントロールすることは、それほど難しくはない。すべては鍛錬の問題だ。意志の問題だ。
4-9 第一段階は、自分の考えを見張ること。自分は何を考えているのだろうと考える習慣をつけることだ。否定的なことを考えているのに気づいたら考えなおしなさい。ふさいだり、落ちこんだりしていると思ったら、してそんなことをしていても何もならないと思ったら、考えなおしなさい。世界はいやなところだ、いやな出来事だらけだと思ったら、考えなおしなさい。人生はめちゃくちゃだ、もうだめだと思ったら、考えなおしなさい。
自分を訓練することは可能だ。
4-10 やり直したいと思うなら、人生は何度でもあるから。
第5章
何かから離れることはできない。相手は地獄までもあなたについてくる。
それならば、どんな誘惑にも抵抗しないことだ。ただし、そこから顔をそむけて歩きなさい。
この旅は、目的地に「行き着かない」旅ではないのだ。
5-1 神の言葉は戒律ではなく、約束だ。したがってこれは・・・「言質」である。
あなたがたは神への道をたどっていることを知るだろう。そして、神を見出していることを知るだろう。なぜなら次のようなしるし、兆し、変化があなたのなかに起こるからである。
①あなたがたは心のすべて、精神のすべて、魂のすべてをあげて神を愛する。わたしをして、わたしのほかに神はない。あなたがたはもはや人間の愛も、成功も、金も、力も、いかなるシンボルも崇拝しない。あなたがたは、子供が玩具をわきに押しやるように、それらを押しのける。それらに価値がないからではなく、あなたがたが成長し、それらを「卒業した」からだ。
そして、あなたがたは神への道をたどってきたことを知る。なぜなら、
②あなたがたはみだりに神の名を使わない。また、つまらないことで、わたしを呼ばない。あなたがたは言葉の力、考えの力を理解する。神にふさわしくない方法で神の名を口にしようとは考えない。なぜならそんなことはできないからである。わたしの名、--「これがわたしである」という偉大な言葉は、決してみだりには使われない(したがって、使われれば必ず影響がある)し、みだりに使われることはありえない。神を見いだしたとき、あなたがたはこのことを悟る。
あなたがたには、ほかのしるしも与えよう。
③あなたがたは一日をわたしのためにとっておき、この日を聖なる日と呼ぶ。そうすれば、その日には自分の幻想から覚めて、自分が何者であるかを思い出すことができるから。そして、まもなくすべての日を安息日と呼ぶようになり、どの瞬間も聖なるものとなる。
④あなたは母と父を敬愛する。そして、言うこと、為すこと、考えることのすべてにおいて父/母なる神を敬愛する時、自分が神の息子であることを知る。そして母/父なる神を敬愛し、地上の父と母を敬愛すればすべてのひとを敬愛するようになる。
⑤殺生を(理由もなく、意図的に)しないとき、あなたがたは神を見いだしたことを知る。そのような場合においても、他の生命を奪えない(すべての生命は永遠である)ことを理解するとともに、神聖で正当な理由がなければ、輪廻の一時期にある生命を壊しはせず、生命エネルギーの形態を変化させもしない。あらためて生命を尊敬するようになれば、植物、動物を含むあらゆるかたちの生命を敬愛し、最高の目的にかなっているときだけ、生命体に影響を及ぼすようになる。
さらに、あなたがたが神への道をたどっていると知ることができるよう、つぎのようなべつのしるしもあなたがたに送ろう。
⑥あなたがたは不誠実や欺瞞によって愛の純粋さをけがさせない。それは不義だから。神を見いだしたとき、あなたがたはそのような不義を犯さないと、わたしは約束する。
⑦あなたがたは自分の所有物でないものはとらず、何ものにせよ所有するためにだましたりせず、見て見ぬふりでず、他者を傷つけない。それは盗みだからである。神を見いだしたとき、あなたがたが盗みをしないことを、わたしは約束する。
さらに、あなたがたは・・・、
⑧真実でないことを口にせず、したがって偽りの証言をしない。
⑨隣人に配偶者を欲しない。他者はすべて自分の配偶者であることを知っている時、なぜ隣人の配偶者を欲しなければならないのか?
⑩隣人の財物を欲しない。すべて財物は自分のものとなりえること、あなたのすべての財物は世界のものであることを知っているとき、なぜ隣人の財物を欲しなければならないのか?
これらのしるしが生じたとき、あなたがたは神への道を見いだしたことを知るだろう。まじめに一生懸命に神を求めるものなら、ここに否定されていることをしないと、わたしに約束するからだ。そうした振る舞いを続けることは不可能になるはずである。
これは制約でなく、あなたがたの「じゆうだ」だ。これは、わたしの戒律でなく、わたしの「言質」である。神は神の創りだしたものに対して命令をすることはない。神は神の子に語りかけるだけだ。それによって、あなたがたはわが家に帰ろうとしていることを知るだろう。
5-2 モーセは熱心にたずねた。「わたしはどのようにして、知ることができるのですか?わたしにしるしをお与えください。」モーセはいまのあなたと同じことをたずねた。時が始まって以来、誰もがあらゆるところで、同じ質問をしてきた。わたしの答えも永遠である。だが、決して戒律であったことはないし、これからもない。わたしが誰に戒律を守れと命じるのか?わたしが戒律を守らなかったと言って、誰を罰するのか。
在るのはわたしだけだ。
5-3 悟りとは、経験していないことを知ること、それによって経験すると言うことだ、知ることによって経験への扉が開かれる。そして逆もまた真である。
実際には、あなたがたは経験しているよりずっと大きなことを知っている。ただ自分が知っていることを知らないだけだ。
5-4 ほんとうの精神生活では、欲望や自我をすてなければならい。
なぜなら、つきつめればあらゆる魂は真実でないものを捨てるし、あなたが送っている人生の真実とは、わたしとの関係だけだから。しかし、昔から言われてきたように自己否定がもとめられているわけでない。
5-5 真のマスターは何かを「あきらめ」たりしない。無用なものを遠ざけるだけだ。
欲望を克服しなければならないと教える人がいる。だが、わたしは、ただ欲望を変えなさいと言う。初めて実行するときは厳しい修行だと感じるかもしれないが、二度目は楽しい実践になるだろう。
5-6 神を知るためには、あらゆる現世的な情熱を克服しなければならないと教えるひとがいる。だが、そうではない。現世的な情熱を理解し、受け入れるだけで充分だ。抵抗すれば、相手はかえって強くなる。見つめれば、相手は消える。
5-7 現世的な情熱を真剣に克服しようとする者は、一生懸命に努力するあまりに、その努力が情熱になってしまう。彼らは「神を求める情熱」をいだくようになる。神を知ろうとする情熱だ。しかし、情熱には違いない。ひとつの情熱をべつの情熱に変えても、克服したことにならない。
だから、自分の情熱を感じるものを批判しないこと。ただ、それに気づき、どんな自分になりたいかを考えたとき、なりたい自分になるのを役立つかどうか見きわめなさい。
5-8 覚えておかなければならないのは、あなたが常に自分を創造し続けている存在であることだ。それは主として、自分が情熱を感じる人やものに関する選択を通じて行われる。
5-9 精神的な道を歩んでいるひとは、現世的な情熱、人間的な欲望をすべて捨てているように見える。実はそうではなく、情熱や欲望を理解し、幻想を見極め、自分のためにならない情熱を遠ざけているのだ。その一方では幻想を愛してもいる。幻想は完全に自由になるチャンスでもあるからだ。
5-10 情熱とは、「こう在る」ということから「行為」への転換を愛することである。情熱は創造というエンジンの燃料である。情熱は思いを経験に変える。
5-11 情熱はほんとうのわたしたちを表現したいという思いを駆り立てる火である。決して情熱を否定してはいけない。否定すればあなたが何者であるか、本当は何者になりたいかを否定することになる。
5-12 悟りとは情熱を否定することではない。結果への執着を否定することだ。情熱は行為への愛である。行為は「ある在り方」を経験することだ。それで、行為の一環として何が生まれるか?期待だ。
5-13 期待なしに人生を生きること、具体的な結果を必要とせずに生きること、これが自由である。これが、神性である。これが、わたしの生き方である。
5-14 結果には、決して執着しない。わたしの喜びは創造にあるのであって、その結果にはない。悟るとは行為を否定しようと決意することではなく、行為の結果には意味がないと理解することである。
5-15 在るというのは、存在の最高の状態である。純粋なエッセンスである。それは、「現在であって/現在出ない」「すべてであって/すべてでない」「常在であって/無である」という神の側面である。
純粋に在るとは、純粋に神であることだ。
5-16 だが、わたしたちは単にあるだけでは決して満足できない。常に、経験を求める。自分が何であるかを経験したい。それには神性のまったく別の状態が必要となる行為だ。
5-17 あなたがたの確信は愛と呼ばれる神性の状態である。ところが、愛であることと、愛することはまったく別の事柄である。魂は経験によって自分を知るために、何かをしたいと願う。魂は行為を通じて最高の考えを実現しようとする。
5-18 何かをしたいという衝動は情熱と呼ばれる。情熱を殺せば、神を殺すことになる。
5-19 神が、あるいはあなたがたの中の神が、愛すれば、神自身はそれを実現されるから、それ以上は何も必要がない。
一方、人間は投資には見返りが必要だと感じる。誰かを愛するのはいいのだが、相手からも愛が返ってきてほしいと思う。そう考える。
これは「情熱」ではない。「期待」である。
これが、人間の不幸の最大の原因である。それが神と人間の違いである。
5-20 悟りとは、東洋の神秘主義者がサマディ(三昧)と呼ぶ体験を通じて、この違いを克服しようとすることである。つまり心を開いて神と一体になること、神性と融合し、神性の中に溶け込むことだ。
したがって悟りとは結果を放棄することである。決して情熱を放棄することでない。それどころかマスターは直感的に、情熱こそ神への道であることを知っている。情熱は自己実現への道である。
5-21 現実だと感じないものに抵抗することはできない。抵抗するということは、相手に生命を付与することだ。エネルギーに抵抗すれば、エネルギーを発生させることになる。抵抗すればするほど、相手は実体をもつ。何に抵抗しても、これは同じことだ。
5-22 目を開いて見つめれば、相手は消える。相手は幻想という実体をさらけ出す。
あなたが何かを見つめれば、相手を見透かし、それが幻であると見抜くから、究極の現実以外は何も残らない。究極の現実の前には、小さな幻想など何も力もない。相手は弱くなった手であなたをとらえておくことができなくなる。あなたは相手の「真実」を見きわめ、それによって自由になる。
5-23 自分が何者だと思うか。そして、何者になりたいと思うか。
これがすべての選択基準である。これまでも、これからも、すべての人生の選択基準である。
5-24 拒否しても、実際には何も捨てられない。説明してきたとおり。抵抗すれば相手はますます強くなるからだ。真の悟りとは捨てることでなく、違う選択をすることだ。何かから離れる行為でなく、何かに向う行為である。
あなたは何かから離れることはできない。相手は地獄までもあなたについてくる。それならば、どんな誘惑にも抵抗しないことだ。ただ、そこから顔をそむけなさい。わたしのほうへ顔を背けなさい、わたしに似ていないすべてのものから顔をそむけなさい。
5-25 ただし、間違った道というものはない。この旅は、目的地に「行き着かない」旅ではありえないから。違うのは、いつそこに着くかというだけである。しかも、これさえもほんとうは幻想だ。「いつ」と言うことはないし、「その前」も「その後」もない。常に現在があるだけだ。あなたが自分を経験し続ける永遠の時があるだけだ。
5-26 人生の意味とは創造である。自分を創造し、それを経験することである。
第6章
思考が行動になれば救える。
あらゆるところでおおぜいのひとたちが、環境を救うために、何かをしなくてはいけないと。
信じるようになれば、あなたがたは地球を救える。だが急がなければならない。
6-1 わたしは苦しみを喜ばない。喜ぶという者がいれば、そのひとはわたしを知らないのだ。
苦しみは、人間経験に不必要な要素だ。不必要であるだけでなく、賢明でないし、心地よくないし、身体にも悪い。
6-2 苦しみは出来事とは何の関係もない。出来事に対する反応のなかにあるだけだ。出来事はただ起こっているだけだ。それにあなたがたがどう感じるかは、別問題だ。
6-3 あなたがたはある出来事を意図的に創りだし、ある出来事を、意識的に引き寄せている。出来事によっては、大きな天災もこのなかに入るが、「運命」として片付けられるものもある。
6-4 思考が行動になれば救える。あらゆるところでおおぜいのひとたちが、環境を救うために何かをしなくてはいけないと信じるようになれば、地球を救える。だが、急がなければいけない。長いあいだに、すでに大きな被害が起こっている。世界を救うためには、非常に大きな姿勢の転換が必要だろう。
6-5 真のマスターは決して黙って苦しんでいるのではない。そう見えるだけだ。真のマスターが黙っているのは、苦しんでいないからだ。彼らは苦しみと呼ぶ状況を経験しているだけだ。
実践しているマスターが苦しみについて語らないのは、言葉の力をはっきりと理解しているからだ。したがって語らないことを選んでいるのだ。
誰でも、ときおり同じ事をしている。自分の気持ちしだいで頭痛が消えたり、歯の治療の痛みが減ったりした経験のない人はないだろう。
第7章
親として配偶者として、愛し愛されるものとして、
あなたの愛を相手にしばる接着剤にしてはならない。愛する者を世界に押し出しなさい。
彼らが自分自身を体験できるようにしなさい。それがほんとうの愛だ。
7-1 家庭人の道はつねに厳しい。最も厳しいかもしれない。自分ひとりなら「何もほしがらない」のは簡単だ。だが愛する者がいれば、彼らに最善を望むのは自然なことだ。
7-2 「魂のゲームをしている」とはどういうことか、はっきりさせよう。それは精神と身体と魂をあげて、神の姿をかたどり、神に似せて自己を創出するプロセスに没頭することだ。
それは一日一日、一時間一時間、一瞬一瞬をゆるがせにしない最高の意識の活動である。毎瞬繰り返される選択と再選択である。創造し続けることである。意識的創造である。目的を持った創造である。これまで話し合ってきた創造の道具を使うこと、それもはっきりと意識して、最高の意図をもって使うことである。
7-3 親として、配偶者として、愛し愛されるものとして、あなたの愛を相手にしばる接着剤にしてはならない。そうではなく、まず引きつけ、次に転換させ、反発させる磁石にしなさい。そしないと、ひきつけられた者はあなたに執着しなければ生きられないと信じはじめる。これほど真実とかけ離れたことはない。これほど、他者にとって破滅的なことはない。
あなたの愛によって、愛する者を世界に押し出しなさい。そして、彼らが自分自身を充分に体験できるようにしむけなさい。それがほんとうの愛である。