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神との対話 ②

2018.04.14 13:03

http://gouttuo.web.fc2.com/sub710.html 【神との対話①】 ニール・ドナルド・ウォルシュ 吉田利子訳 サンマーク出版  より

第8章

人生に特別な相手が現れて自分が満たされる、というのは、非常にロマンテックだ。

だが、人間関係の目的は相手に満たしてもらうことでない。

「完全な自分」を分かち合う相手を持つことだ。

8-1 人間関係はいつでも課題だ。つねに創造すること。表現すること。自己の高い面、より大きな自分、素晴らしい自分を経験することを求められる。その経験をいちばん直接的に、力強く、純粋に実践できるのが人間関係という場だ。それどころか、人との関係無しには、その実践は不可能だ。

8-2 ほかの人間や場所、出来事との関係を通じてのみ、あなたは、個性ある実態として、他と区別しうる何者かとして宇宙に存在できる。他がなければあなたも無だということを覚えておきなさい。

自分以外の他との関係があるから、あなたは存在する。それが相対の世界と言うもので、それと対照的なのが絶対性の世界、私が存在する世界だ。

8-3 このことをはっきり理解すれば、そしてしっかりと把握すれば、すべての経験を、すべての人間的出会い、とりわけ個人的な人間関係をうれしいと思うようになる。

8-4 人間関係は、最も高い意味で建設的な事柄だから、経験はすべて、ほんとうの自分を創りあげるために活用できるし、活用すべきだし、現実に活用され続けているのだ。

8-5 起こった出来事に左右されるだけの人間であることもできるし、出来事に対してどう在りたいか、何をするかという決断を通じて、どんな人間になるかを選ぶこともできる。意識的な自己の創造は後者のほうだ。あとのほうの経験に、自己が実現される。

8-6 すべての関係を嬉しいもの、特別なもの、自分を創りあげる経験として取りなさい。そして、いま、どうありたいかを選びなさい。

8-9 愛情関係が失敗する時、その原因はそもそも間違った理由で関係をむすんだことにある。

ほとんどの人は、相手との関係で何を与えられるだろうかと考えるのでなく、何が得られるだろうかと考えて、関係を結ぶ。

8-10 人間関係の目的は、自分自身のどの部分を「明らかに」したいかを決定することであって、相手のどんな部分を把握し、捕まえておきたいかを決めることでない。

8-11 人間関係の目的は、ほんとうの自分は何者であるかを決め、ほんとうの自分になること、それである。

8-12 「相手に失望させたくない」ばかりに、相手はほんとうの自分らしくない努力をし、自分らしくない行動をしようとして、やがてそれに耐えられなくなる。相手は、あなたの期待を満たせなくなる。割り当てられた役割を演じられなくなる。そこで、恨みが生じる。怒りが湧き起こる。

相手はやがて、自分自身を救うため、真の自分を取り戻そうとし、ほんとうの自分らしく振舞うようになる。そうなると、あなたは相手がすっかり変わってしまったと言う。

8-13 人間関係の目的は、相手に満たしてもらうことでなく、ほんとうの自分という存在をまるごと分かち合う相手を持つことだ。

8-14 人間関係が神聖なのは、最も気高い自分をとらえて実現する経験ができる、つまり自分を創造する最大の機会を与えてくれるからだ。逆に相手の最も気高い部分をとらえて経験する、つまり他者の経験のための最大の機会だと考えると失敗する。

8-15 人間関係では、それぞれが自分のことを考えるべきだ。自分は何者か、何をするか、何をもっているか、自分は何を欲し、要求し、与えているか、自分は何を求め、創造し、経験しているか。そう考えれば、すべての人間関係はすばらしいものととなり、その目的に、そして関係を結んでいる人間にとっても大いに役立つだろう。

8-16 人間関係では、それぞれが他者について心をわずらわせるのではなく、ただただ自分について心をくだくべきだ。

これは奇妙な教えに聞こえるかもしれない。

マスターは、相手が何者で、何をし、何をもち、何を言い、何を欲し、何を要求しているかはどうでもいいことを知っている。相手が何を考え、期待し。計画しているかはどうでもいい。大事なのは、その関係のなかであなたは何者であるかだけである。

最も愛情深い人間とは、最も自己中心的な人間だ。

8-17 自分を愛していなければ、相手を愛することはできない。多くの人たちは、相手への愛情を通じて自分への愛情を求めるという過ちを犯している。もちろん、自分がそうしていると気づいていない。意識的ないとなみではない。精神の深いとことで起こっているだけだ。ひとは考える。「正しく相手を愛することさえできれば、相手はわたしを愛してくれるだろう。そうしたら、わたしは愛される人間になり、自分を愛することができる」と。

これを裏返せば、愛してくれる他者がいないから、自分を憎んでいる人が多い、ということだ。これはほんとうの「愛の病」だ。この病にかかると、じつは愛されているのに、それはどうでもよくなる。どんなに多くの人が愛を告白してくれても、みたされない。

第一に、かれらは相手を信じない。自分をあやつろうとしているのだ、何かを狙っているのだと考える。(ほんとうに自分を愛してくれるはずがあるだろうか?そんなはずはない。きっと間違いを犯しているのだ。何か期待していうのだろう!いったい何が欲しいのだ?そう考える。)

そして、相手を信じられないので、愛情を証明しろと迫りはじめる。相手は愛していることを証明しなければならなくなる。そのために、相手はほんとうの自分とは違うふるまいをしなければならなくなるかもしれない。

第二に、ようやく愛されていると信じたとしても、たちまち、いつまで愛してくれるだろうかと心配しはじめる。そこで、愛情をうなぎとめておくために、ほんとうの自分とは違うふるまいを始める。こうして人間関係のなかで二人とも自分を見失ってしまう。自分自身を発見することを期待して人間関係を結んだのに、かえって自分を失ってしまう。

8-18 人間関係のなかで自分を失うこと、人間関係が苦いものになる理由の大半がここにある。

パートナーになった二人は、一たす一は二より大きくなると期待したのに、二より小さくなってしまったことに気づく。ひとりでいたときよりも、自分が小さくなったと感じる。能力も小さくなれば、わくわくするような興奮も減り、魅力的でなくなり、喜びも満足も減ったと思う。

8-19 聖なる旅の途上にある聖なる魂として相手を見失うと、すべての人間関係の奥にある目的も理由も見えなくなってしまう。

あなたがたは発達進化し、自分自身になっていく存在である。そして、あなたがたはあらゆるものとの関係を活用して、何者かになるかを決定する。

8-20 その仕事のためにあなたは生まれてきた。それが、自分を創造する喜びである。自分を知る喜び、意識的に自分が望む自分になる喜びである。それが、意識的に自分自身になっていくということである。個人的な人間関係は、このプロセスの最も重要な要素だ。したがって個人的な関係は聖なる土壌である。他者とは何の関係もないが、しかし他者を巻きこむから、すべては他者とかかわってくる。

8-21 これが神聖なる二分法である。したがって「自己中心的な者に幸いあれ、なぜなら、彼らは神を知るからである」と言っても、決して極端な教えでない。自分自身の最も気高い部分を知るということ、そしてそこにとどまるということは、立派な人生の目的だ。

だから、あなたの最初の関係は、自分自身との関係である。まず自分自身を大切にし、慈しみ、愛することを学ばなければならない。

8-22 他者の価値を見抜くためには、まず自分に価値を見いださなければならない。他者を祝福すべき者として見るためには、まず自分を祝福すべき者として見なければならない。他者の神聖さ認めるには、まず自分自身が聖なる存在であることを知らなければならない。

8-23 いつかは傷つかなくなる日が来るだろう。その日、あなたは人間関係の真の意味、人間関係を結ぶ真の理由に気づき、真の人間関係を実現するだろう。

それを忘れているから、いまのような反応をするのだ。だが、それはそれでよろしい。それも成長の過程であり、発達進化の一部だから。人間関係というのは魂の仕事、偉大な理解、偉大な記憶だ。そのことを思い出さないかぎり、そして、自己創造の手段として人間関係をいかに活用するかを思い出さないかぎり、あなたはいまのレベルで努力しなければならない。いまの理解のレベル、意志のレベル、記憶のレベルで。

8-24 そこで、あなたが相手の在り方、言うこと、行動に傷つき、苦痛を感じたときには、どう反応すればいいか。まず、どう感じているかを自分にも相手にも正直に認めなさい。あなたがたの多くは正直に認めるのを怖がる。そうすると自分が「悪く見える」のではないかと思うからだ。だが、感じるのはどうすることもできない。苦痛を感じないわけにはいかない。

8-25 できることはひとつしかない。自分の感情を大事にすることだ。自分の感情を尊重することは、自分自身を尊重することだ。あなたがたは自分を愛するように隣人を愛さなければならない。だが、自分の感情を尊重できないで、どうして相手の感情を理解したり、尊重したりできるだろう?

相手との相互関係の中で、まず問いかけなければならないのは、自分は何者か、何者になりたいか、ということだ。

8-26 最初の感情が否定的な感情でも、何度でも必要なだけその感情を味わえば、いつかはそこから踏み出せる。怒りや逆上や嫌悪、憤怒を味わい、「仕返し」したいと思っている者も、いつかは「そんな自分になりたくない」と考えて否定的な感情を捨てることができるだろう。

8-27 マスターとは、そのような経験をさんざん積んだあげくに、最終的な選択が前もってわかるようになった人たちだ。マスターはほんとうの自分を実現することに人生を奉げているから、自分に似合わない感情を味わうことはない。

8-28 あなは何度でも自分自身を創造することができる。それどころか、あなたは毎日、自分自身を創造している。だが、いまの段階では、いつも同じ回答を出すとは限らない。環境や条件によって、ある日は。人間関係において忍耐強く愛情深く、親切である自分を選ぶだろう。次の日には怒ってみにくく悲しい自分になるだろう。

マスターとは、つねに同じ回答を出すひとたちだ。その回答とは最も気高い選択である。

8-29 被害を抑えるとか、できるだけ得をするという観点から人生を生きていると、人生の真の利益を失ってしまう。機会が失われる。チャンスを見逃す。そんな人生は、不安に駆りたてられて生きる人生だし、そんな人生を送るあなたは、ほんとうのあなたではない。

なぜなら、あなたは不安でなく愛だから。愛は何の保護も必要としないし、失われることもない。

8-30 「いま、愛なら何をするだろうか?」

ほかのどんな疑問も無縁であり、無意味であり、あなたの魂にとって重要でない。

8-31 さて、非常に微妙な解釈が必要なところにさしかかっている。愛に支えられた行動についての原則は、だいたい誤解されているからである。そしてその誤解が人生の恨みや怒りを誘い、その恨みや怒りのゆえに、おおぜいが自己実現と成長の道から離れたままでいるからである。

8-32 だが、最も気高い選択とは、あなた自身に最高の善をもたらすものである。

この言葉の謎は、自分に与えられる最高の善とは何かを考えるとき、少しは解けてくるだろう。そして至高の選択が行われるとき、謎は解け、輪は完結し、あなたにとっての最高の善が他者にとっても最高の善になる。

8-33 このことを理解するには、一生涯かかるかもしれない。あるいはもっと多くの生涯が必要かもしれない。なぜなら、この真実の中心にはさらに大きな真実があるからである。あなたが自分のためにすることは、他者のためにすることである。他者のためにすることは、自分のためにすることである。

そして、それがなにかといえば・・・・・

あなたのほかには何もないから。

8-34 「まことに、まことに、わたしはあなたがたに言う。わたしの兄弟の最も小さなひとりに対してしたのは、このわたしに対してしたのである。」

だが、それは、大半のひとたちにとって最も難解で、現実にはほとんど応用されない真理にとどまっている。ところが、これこそがあらゆる「難解な真理」の中で、いちばん現実に応用しやすい真実なのである。

人間関係の中で、このことを覚えていることが重要だ。そうでないと、関係は非常に難しくなるだろう。

8-35 古い理解に基づいて、ひとは、善意でしかも信仰心のあついひとは、人間関係の中で、いちばん人のためになると思うことをしてきた。悲しいことに、たいていはその結果として虐待されつづけてきた。あるいは酷使され続けてきた。うまくいかない人間関係ばかりが続いた。

他者を基準として、「正しいことをしよう」と努力した人、すぐに赦し、同情を示し、ある種の問題やふるまいを見過ごし続けてきた人たちは、結局神を恨み、怒り、信じなくなった。正義の神なら、例え愛の名においてであっても、そんな際限のない苦しみと喜びの欠如と犠牲を要求し続けるだろうか。

神は要求していない。それが答えである。

神は、自分を第一に考えることを提案し、勧めている。

8-36 気高い意味で自分自身を第一に考えるなら、決して神意にかなわない行動をするはずがない。

したがって、自分のために最善のことをしようとして、神意にかなわない行動になるなら、問題は、自分を第一にしたことでなくて、何が最善かを誤解したことにある。

8-37 実際問題として、虐待されている状況で自分にとって最善なことは何かと考えれば、少なくとその虐待をやめさせなければならない。虐待をやめさせることはあなたにとっても、虐待する側にとっても良いことである。虐待を続けさせておけば、虐待する側までが虐待されることになるからだ。

8-38 愛情のある態度をとるということは、必ずしも相手の好きにさせるということではない。

子供を持った両親はすぐに悟る。おとながおとなに対する場合、国が国に対する場合には、そう早く悟れない。

だが横暴な独裁者を栄えさせてはいけないし、横暴はやめさせなくてはいけない。自分への愛、独裁者への愛がそれを要求する。

8-39 時には、人間は真の人間らしさを表す偉大な宣言として、戦争を嫌悪する人間として、戦争へ行かなければならない。

ときには、ほんとうの自分であるために、ほんとうの自分を放棄しなければならない。

したがって、平和な人間としての自分を「まっとうする」ために、戦争に加わらない自分という考え方を放棄しなければならないかもしれない。歴史は人間にそんな決意を求めてきた。

8-40 人生には、ほんとうの自分でない面を示すことで、ほんとうの自分を証明することを要求されることが何度かある。

8-41 悪に対する愛ある行為とは何かを真剣に考えれば、「悪」という言葉と、これにまつわる価値判断を無視できなくなるからだ。じつは、悪というものはなく、ただ客観的な現象と経験があるだけだ。しかし、人生の目的からして、あなたは増えるいっぽうの現象のなかから、悪と呼ぶ現象を選びださなければならなくなる。そうしないとあなたは自分自身もほかのことも善と呼ぶことができず、自分自身を知って創造することができないからである。

8-42 あなたは何を悪と呼び、何を善と呼ぶかで自分自身を定義する。

最大の悪は、どんなものも悪ではないと宣言することである。

8-43 この人生という相対性の世界はすべてがほかとの関係でのみ存在しうる。人間関係の目的と機能も全く同じである。あなた自身を発見し、あなた自身を定義し、あなたが選択するならば、ほんとうの自分自身をつねに創造しなおすための経験の場を提供すること、それが人間関係の目的であり、機能である。

8-44 悟りへの途上においては、傷つき、被害を受け、喪失することをみな経験の一部として認め、それとの関係でほんとうの自分とは何かを決定すればいい。

8-45 あなたは人が考えたり、言ったり、したりしたことに傷つくだろう。いつか、傷つかない日がくるまでは、しかたがない。その日に最も早く到達する方法は、完全に正直になることだ。自分がどう感じているかをはっきりさせ、認め、口にすることである。あなたの真実を語りなさい。優しく、しかし包みかくさず真実を語りなさい。あなたが真実だと感じるように生きなさい。穏やかに、しかし一貫してあなたが真実だと感ずるように生きなさい。経験によって新たなことがわかったなら、すなおにすばやく変更しなさい。

8-46 まともな精神をもった者なら誰でも、まして神なら、人間関係で傷ついても、「受け流せ、平気でいろ」などとは言わない。今傷ついているなら、平気でいようとしても遅い。あなたの仕事は、傷ついたということが何を意味するかを考え、それを示すことだ。そうすることによって、あなたはこうありたいと思う自分を選び、その自分になるのだから。

8-47 他との関係で、あなたには何の義務もない。ただ、機会があるだけだ。

義務でなく機会、それが宗教の要石であり、本質的ないのちの基盤がある。そこを逆に考えているかぎり、いつまでたっても肝心なことがわからないだろう。

8-48 あなたとすべてのものとの関係は、魂の仕事を行うための完璧な道具として創り出された。だからこそ、人間関係はすべて聖なる地盤なのだ。だからこそ、個人的な関係はどれも神聖なのだ。

8-49 他との関係で、決して義務感から行動してはいけない。他との関係はほんとうの自分を決定し、ほんとうの自分になるための栄えあるチャンスを与えてくれる。何をするにしても、その意識を出発点にしなさい。

8-50 あなたは、ひとつの関係を続けることが成功だと思っているようだ。人間関係が長続きすれば、うまくいったのだと勘違いしないようにしなさい。地上でのあなたの務めは、どれほど長く人間関係を維持できるかを試すことでなく、ほんとうの自分とは何かを決定し、ほんとうの自分を経験することであるのを忘れてはいかない。

決して、人間関係は短いほうがいいというのではない。だが、長ければいいわけでもない。

ただし、このことだけは言っておくべきだろう。

長い人間関係はお互いの成長にとって、お互いの経験にとって、お互いの充足にとってすばらしい機会だし、それだけすばらしい成果がある。

8-51 お互いが、人間関係の目的は義務でなく機会を創り出すことだと考えれば、成長し、自分を充分に表現し、人生をできるだけ高い位置に引き上げ、自分自身にいだく間違った考えや卑小な考えを癒し、最後には二人の魂の合体を通じて、神とひとつになるための機会を創り出すことだと確信すれば、人間関係はとてもよくなる。正しい一歩を踏み出すことができる。非常にそばらしい出発点になる。

8-52 難題に挑戦するなら、困難なときもあるだろうと覚悟する必要がある。

難題や困難を避けようとしてはいけない。難題や困難を歓迎しなさい。心から歓迎しなさい。神から偉大な贈り物だと思いなさい。他との関係の中で、そして人生でするべきことができる栄えある機会だと思うことだ。

困難にぶっつかったとき、パートナーを敵だの対立相手だのと考えないように努力しなさい。どんな人も、どんなことも敵だと思わないこと、それどころか問題だとも思わないことだ。すべての問題をチャンスだと捉える力を養いなさい。

8-53 地平線を広げなさい。視界の奥行きを広げなさい。自分の中に、それまで見ていた以上のものを見ることだ。

ひとがあなたに見せる以上のものを見ても、決して人間関係を傷つけることはならない。

なぜなら、ほんとうは見える以上のものがあるからだ。ずっと多くのものがある。人がそれを見せないのは、恐れているからだ。あなたがもっと多くを見ているのに気づけば、相手は安心して、あなたがすでに見ているものを向こうから見せてくれるだろう。

8-54 わたしたちが相手に見るものを、相手は自分自身に見る。わたしたちが見るヴィジョンが大きくなればなるほど、相手は進んでそのヴィジョンを自分のなかに発見し、わたしたちにも見せてくれる。

祝福される関係とは、そんなふうに働くものではないか?それが癒しのプロセスではないか。相手が持っている、彼ら自身についての間違った考えをすべて「放り出して」いいのだと思わせてやるプロセスではないか。

8-55 それには二つの方法がある。ひとにほんとうの自分を思い出させるか、自分でほんとうの自分を思い出すか。いつもほんとうの自分を思い出してみせていれば、いつかは相手もほんとうの自分を思い出す。ひとはあなたのなかに自分自身を見るから。

8-56 昔、ある男が気づいて見ると、本を書くのに毎週、何時間も費やしていた。くる日のくる日も、彼はペンを持って原稿用紙に向かい、時には真夜中までかかって新しいインスピレーションのひとつひとつをとらえようと努力していた。やがて誰かが何をしているのかと男に尋ねた。

「ああ、わたしは神との長い長い対話を書き記してるんです」と男は答えた。

「それは、たいへんけっこうだ」と相手は、もっともらしく答えた。「だが、ほんとうは誰も神が何を言うか知らないんだよ」

「そうかい」と男は微笑んだ。「じゃ、わたしがこの本を書き上げるまでまっててくれないか」。

第9章

「ほんとうの自分であること」はたやすいと思っているかもしれない。

だが、それは人生で一番の難題だ。決して実現できないかもしれない。

ほんとうにそれができるひとは、ごく少ないからだ。

9-1 あなたは、「ほんとうの自分であること」はたやすいと思っているかもしれない。だが、それは人生で一番の難題だ。それどころか、決して実現できないかもしれない。ほんとうにそれができるひとは、ごく少ないからだ。まして一度の生涯で成功するひとはほとんどいない。多くの生涯をかけてもできないくらいなのだから。

9-2 あなたは何度も生涯を送っている。

9-3 第一に、不安がなくなる。失敗はありえないということがはっきりする。失敗しないと、確認できる。必要なだけのチャンスがいくらでも与えられることがわかる。あなたは何度でもこの世に戻ってこられる。あなたがつぎの段階に到達できるなら、つぎのレベルまで発達するなら、そうしなければならなかったのではなく、自分でそう望んだからだ。

あなたは、こうしなければならないということは何もない!今のレベルで人生を楽しんでいるなら、これが自分にとって最終段階だと思うなら、この経験を何度でも繰り返せばいい!実際、あなたは何度の何度も繰り返してきた。自分が望んだからだ!あなたはこの人生のドラマを愛している。苦痛を愛している。秘密を、知らないということを、サスペンスを愛している!あなたはそんなすべてを愛している!だから、いまのあなたはこうしてこの世にいるのだ。

9-4 重要なことであればあるほど、誰か別の人の考えに従いがちだ。

そう考えると、あなたがたが人生のある領域をコントロールする力を完全に失ってしまった理由も、人生経験のなかでぶつかる疑問も理解できる。

その領域や疑問には、魂にとってとても重要な課題が含まれている。神の本質、真のモラルとは何か、ほんとうの現実とは何か、戦争や医療、中絶、安楽死をめぐる生と死の問題、個人の価値観やその構造、判断の実体などだ。こういう問題のほとんどを、あなたがたは放棄し、他人まかせにしている。

自分で判断をくだしたくないのだ。

9-5 自分で考え、価値判断をするとき、あなたは純粋に創造の場に置かれる。なぜなら、さまざまなことについて「わたしにはわからない。わからないのだ」と言うほかないだろうから。それでも、決定しなければならない。選択しなければならない。自分で考えて選択しなければならない。

9-6 過去の知識にたよらない決断、そういう選択、それが純粋な創造と呼ばれるものである。そして人は、そうした決定をしているとき、自分自身を新たに創り出していることに気づく。

9-7 これまであなたは、経験の結果として人生を生きてきた。いま、経験の原因になってみてはどうかと誘われている、それが、意識的にいきるということ、目を見開いて進むということだ。

9-10 たくさん思い出せば思い出すほど、たくさんのことを経験することができて、たくさんのことを知ることができる。そして、たくさんのことを知れば知るほど、たくさんのことを思い出す。循環しているんだ。だから、ますます容易になり、ますます良くなり、ますます楽しくなっていく。

9-11 あなたはすべてを経験させてもらえる。涙も、楽しさも、喜びも、昂揚も、激しい憂鬱も、勝利も敗北も、引き分けも経験できる。

これ以上何がある?

9-12 それでは、成長をつづけなさい。わが息子よ。ほんとうの自分になろうとしつづけなさい。そして、つぎの段階では、どんな気高い在り方ができるかを考えなさい。それに向かって努力を続けなさい。前進しなさい!それがわたしたちの仕事、神の仕事だ。だから、続けなさい!

第10章

わたしもあなたを愛している。

10-1 知っている。そして、わたしもあなたを愛している。

第11章

あなたには、すべてについての根となる思考がある。

金が足りない、時間が足りない、愛が、水が、食べ物が、世界に同情が足りない。

良いものはすべて足りないという集合的な意識が、いまの世界を創造している。

11-1 あなたは、金は悪いものだと思っている。また神は善いものだと思っている。それはよろしい!

しかし、あなたの思考のなかでは、神と金は混じりあわない。

するとおもしろいことになる。なぜなら、良いことをして金を得ることがむずかしくなるからだ。

つまり、あなたにとっては、「良い」と判断することは金銭的な価値が低いことになる。「より良い」ことは、もっと金銭的な価値が少ないというわけだ。

そう考えているのは、あなただけではない。あなたがたの社会全体がそう考えている。

11-2 根になる考え、つまり支えになっている考えをいちばん速く変える方法は、「思考-言葉-行為」というプログラムを逆転させることだ。

11-3 まず、こうありたいと思う考えにもとづいて行動しなさい。それから、こうありたいと思う考えを言葉にしなさい。それを何度も実行していれば、精神の訓練ができて、新しい考え方ができるようになる。

11-4 あなたの心は他への反応でしかない思考で満ちている。他者の経験から生じた考えだ。自分自身のデータにもとづいた考えはごく少ないし、こうありたいと言う自分の希望にもとづいた考えはさらに少ない。

11-5 あなたの金に対する考え方の根本にある思考がいい例だ。金は「悪いものだ」と言う考えは、あなたの経験、「金があるのはすばらしいことだ!」と真っ向から対立する。そこで、あなたは自分をごまかし、根にある考えを正当化するために、経験のほうが間違っていると自分をだまさなければならなくなる。

11-6 ところで、あなたは、金に関して根となる思考がもうひとつある。

足りないという考えだ。じつは、その考え方はすべてについての根である。金が足りない。時間が足りない。愛が足りない。食べ物が、水が、世界に同情が足りない・・・・良いものはすべて足りない。

この「足りない」という集合的な意識がいまのような世界を創りあげている。

11-7 あなたは、自分がこうだと思う人間になるからだ。否定的な考えをもつと、悪循環が起こる。その循環を断ち切る方法を探さなければならない。

あなたの現在の経験の多くは、今までの考え方がもとになっている。考えが経験につながり、経験が考えにつながり、それがまた経験につながる。この循環は、支えとなっている考えが楽しいものであれば、つねに喜びを生む。支えとなっている考えがひどいものだと、地獄を生み出すことになる。秘訣は、支えとなっている考えを変えることだ。

11-8 まずしなければならないのは、思考-言葉-行為というパラダイムを逆転させることだ。”行動する前に考えよ”という古い格言を知っているか?

それは忘れなさい。根になる考えを変えたければ、「考える前」に行動しなければいけない。

根となっている考え方を変えたいと思うなら、新しい考え方に従って行動しなさい。だが急いで行動しなくてはいけない。そうしないと、気づいたときには精神が邪魔をして新しい考えを殺してしまう。文字通り、殺してしまうのだ。新しい真実は、あなたが知らないうちに死んでしまう。

だから、機会があったら急いで行動しなさい。それを何度も繰り返せば、やがてあなたの精神は新しい考えを身につけるだろう。それがあなたの新しい考えになるだろう。

11-9 あなたの精神はいま、古い考えでいっぱいだ。古いだけでなく、ほとんど誰か別の人の古い考えだ。だから、いまこそ、あなたの考えのいくつかを変えることが大切だ。それが、発達と言うことなのだから。

第12章

ほんとうにしたいことを、どんどんしなさい!ほかのことをしてはいけない。

もう、あんまり時間はない。生活のためにしたくもないことをして

人生の時間をむだにしようなどと、どうして考えるのか。

12-1 ほんとうに好きなことをして暮らしている人は、何が何でもそうしたいとこだわっている人だ。彼らはあきらめない。決して、譲歩しない。好きなことができない人生なんてあってはならないと思っている。

だが、ここでべつの要素も考えなければならない。たいていの人がライフワークについて考えるとき、欠けている要素だ。

12-2 何かで「在ること」と「行動すること」には違いがあり、たいていのひとは後者に力点をおいている。

12-3 「いい」とか「いけない」ということではない。あなたが何を選ぶか、どうすればそれが実現するかというだけだ。あなたが平和と喜びと愛を選ぶなら、行動を通じてでは、獲得できないだろう。あなが幸福と満足を選ぶなら、行動と言う道を通じては、手に入れられないだろう。再び神と一体になることを選ぶなら、して最高の知識、深い理解、終りのない共感、全面的な目覚め、限りない充足を選ぶのなら、行動では達成できないだろう。

12-4 「行動すること」は身体の働きである。「在ること」は魂の働きである。身体はつねに何かをしている。

毎日、毎分、何かをしようとしている。

身体は魂に促されて何かをするか、魂に反して何かをする。人生の質はこのバランスによって決まる。

魂は永遠に在るものだ。身体が何かをしようとも、魂は在るがままに存在する。

あなたは、人生とは「行動すること」と考えているなら、自分を理解していない。

12-5 あなたの魂にとっては、暮らしのために何をするかなどはどうでもいい。人生が終わるとき、あなたもどうでもいいと思うだろう。魂にとっては、どんな行動をするかではなく、その間にどんなふうに在るかだけが大切だ。魂が追求しているのは在り方であって、なにをしているかではない。

12-6 そう、わたしだ。あなたの魂はわたしであり、それを知っている。魂はそれを経験しようと努めている。経験するには何もしないのがいちばんいいということも知っている。何もせずにただ在ることだ。

12-7 さて、同じような資質をもった二人なのに、ひとりは成功し、ひとりは失敗したという例だが、それは「していること」のせいでなく「在り方」のせいだ。

ひとりは開放的で、親しみ深くて、こまやかで、親切で、思いやりがあって、陽気で、自信があって、仕事を楽しんでいる。もう一方は閉鎖的で、よそよそしくて、冷たくて、不親切で、陰気で、自分がしていることを嫌っている。

12-8 さて、あなたがより高い在り方を選ぶとしよう。あなたは善、慈悲、同情、理解、赦し、愛を選ぶとしよう。神性を選ぶとしよう。そうしたら、どんな経験をするか。それを教えよう。

12-9 存在は存在を引きつけ、経験を生む。

あなたは身体によって何かを生むために、この地上にいるのではない。魂によって何かを生むために、この地上にいる。身体は魂の道具にすぎない。身体を動かす動力はあなたの精神だ。だから、あなたが地上にもっているのは、魂の欲求に従って創造するための動力機械なのだ。

12-10 広い意味では、魂の欲求は神であることだ。だが、魂が求めているこの「わたし」には非常に複雑で、非常にたくさんの層、感覚、面がある。わたしには100万もの側面が、10億もの側面がある。わかるだろうか?冒涜的な面と深い面、小さな面と大きな面、うつろな面と神聖な面、おぞましい面と神々しい面とがある。わかるだろうか。

12-11 そのとおり。わたしはアルファでありオメガだ。ただの言葉でも、気の効いた概念でもない。それが真実だ。そこで、「わたし」であることを求める魂には、壮大な仕事がまっている。「在り方」の膨大なメニューの中から選ばなければならない。いま、この瞬間も魂はそれをしている。

12-12 そう、そして、正しい完璧な条件を作り、その条件のなかで経験を創り出している。だから、あなたに起こること、あるいはあなたを通して起こること、自分の最高の善のためにならないことは何もない、というのは真実だ。

12-13 別の言い方をすれば、魂は、計画どおりの経験ができるようにと、正しい完璧な機会にあなたを導く。実際に何を経験するかは、あなたしだいだ。あなたは計画したことを経験するかもしれないし、べつのことを経験するかもしれない。それはあなたが何を選んだかによる。

12-14 最も大きな意味で、あなたの本質的ないのいのちは、自分の望みに目覚め、それと喜ばしい一体化をするときを求めている。だが、いのちは決して、現実のあなたの意識的、肉体的な部分に自分の欲求を押し付けることはない。

「父」は「息子」に自分の意志を押しつけはしない。それは、「父」の本質と異なるものであり、したがって文字どおり不可能だからだ。

「聖霊」は自らの意志をあなたの魂に押しつけはしない。それは聖霊の本質と異なるものであり、したがって、文字どおり不可能だからだ。

12-15 不可能はそこで終わる。精神は始終意志を身体に押付けようとするし、実際に押付ける。同じく、身体は始終精神を支配しようとし、支配に成功することが多い。だが、身体と精神が一緒になって魂を支配しようとする必要はない。魂には何かしなければならないという必要性がなく、身体と精神がしたいようにさせておく。

それに魂は、他にどうすることも出来ない。自分という存在を創造するため、そして自分が何者であるかを知るためには、自発的な意志による行為を通すほかなく、無意識に従属していたのでは不可能だからだ。

12-16 従属は創造でないから、救済にはつながらない。

従属は反応だが、創造は純粋な選択、外から支持されたり、求められたりしない選択だからだ。

純粋な選択は、たった今も最高の考えを純粋に創造することを通じて、救済を生んでいる。

12-17 魂の働きとは、その欲求を示唆することであって、押しつけることでない。

精神の働きとは、選択肢の中から選択することだ。

身体の働きとは、選択を行動に移すことだ。

身体、精神、魂が一体となって調和し、ともに創造するとき、神が肉体化する。

そのとき魂は自らの体験の中で自らを知る。

そして、それを天は喜ぶ。

12-18 この瞬間にも、あなたの魂は、あなたがほんとうの自分を知るために存在し、行動し、所有する機会を創造している。あなたの魂が、いま読んでいるこの言葉にあなたを導いたのだ。以前にもあなたを知恵を真実の言葉で導いてきたように。

12-19 あなたは身体、精神、本質的ないのちである霊魂という三つの部分からなる存在だ。地上に生きている間だけではなく、いつも三つの部分からなる存在だ。

死ぬときには、身体も精神も捨てられる。という説を立てる人たちがいる。だが、身体と精神は捨てられない。身体は形を変え、最も濃厚な部分は捨てられるが、外殻はつねに維持されている。精神もあなたとともに行き、いのちと身体と一体となって、三つの次元、三つの、面をもつエネルギーのかたまりになる。

12-20 地上の人生に戻ることを選ぶと、あなたの聖なる自己は再び絶対的な次元を離れて身体、精神、本質的ないのちと呼ばれる三つに分かれる。あなたもほんとうはひとつのエネルギーだが、はっきりと区別される三つの性格をもっているのだ。

12-21 この地上で新しい物理的な身体に住まおうとすると、あなたのエーテル状の身体の振動数が低下し、目に見えないほどの急速な振動から、物質を生じてかたまりになる速度へと落ちる。この「実体」のある物質は、純粋な思考によって創られる。あなたの精神の働きの結果だ。三つの部分から出来ている存在のなかの高度な精神という面の働きだ。

物質はこの異なる無数のエネルギーがひとつの巨大なかたまりへと凝固したもので、実はあなたの精神が物質を動かす主だ。

12-22 この小さなエネルギーの単位がそれぞれのエネルギーを使い果たすと、身体はそれを捨て、精神が新しいエネルギーを創り出す。精神は「自分とは何者か?」と考え続けることで、そのエネルギーを創っている。言ってみれば、エーテル状の身体はその思考を「とらえ」、エネルギー単位の振動数を低下させ、「結晶化」させ物質にする。新しいあなたという物質である。あなたの身体のすべての細胞は、数年毎に入れ替わる。あなたは、文字どおり、数年前とは別人なのだ。

12-23 魂はこの全ドラマを、毎年、毎月、毎日・・・・毎秒見つめながら、いつもあなたについての真実を持ち続けている。魂は決して青写真を忘れない。元の設計図を、最初の意図を、創造的な思考を忘れない。魂の仕事は、あなたにその青写真を思い出させること、ほんとうの自分を思い起こさせること、そして、こうありたいと思う自分を選ばせることである。こうして、創造と経験の循環、イメージとその実現、知ることと道へ向かっての成長が続く。いまも、そしていつまでも。

12-24 来世には審判はないが、自分がこの世で考えたり、行ったりしたすべてをもう一度見直し、自分は何者か、何者になりたいかということに照らしあわせて考えたら、もう一度同じことをするかどうかを判断する機会があるだろう。

12-25 この世の後にあなたの生命の起こることは、あまりにもとっぴで、あなたが理解できる言葉では語れない。なぜなら、その経験は別の次元のもので、言葉という大きな制約がある道具での表現を受付けないからだ。だから、苦痛や恐怖や審判なしにもう一度、現在の生を見直す機会を与えられる、あなたは現世の経験をどう感じるかを判断し、それをもとにどこへ行きたいかを決める、と言えば、それで充分だろう。

12-26 あなたがたの多くは、この世へ戻ってこようと決意する。現世の自分をどう判断し、どう選択したかをもとに、この高密度での相対的な世界をもう一度経験するチャンスを得ようとする。

12-27 また、少数の者は、それとはべつの使命をもって戻る。他の人をこの高密度の絶対的な世界から連れ出すためにだけ戻ってくるのだ。地上にはつねに、そういう選択をしたひとたちがいる。その人たちは、すぐにわかる。彼らの仕事は完成している。彼らが地上に戻ってきたのは、他の人たちを助けるためだ。それが彼らの喜びなのだ。それが彼らを昂揚させるのだ。彼らは奉仕することだけを目指している。

12-28 あなたがほんとうにしたいことを、どんどんしなさい!ほかのことをしてはいけない。もう、あんまり時間はない。生活のためにしたくもないことをして人生の時間をむだにしようなどと、どうして考えるのか。

12-29 あなた方には楽しむ権利がある。子供があるとなかろうと、配偶者がいようといまいと、楽しみを求めなさい。楽しみを見出しなさい。金があってもなくても、楽しい家庭はできる。もし、家族が楽しくなくて、あなたを捨てて出て行こうとしたら、家族が自らの楽しみを求められるよう、愛情をもって手放してやりなさい。

第13章

ほとんどの人は、全く無意識に病気を創り出している。

なのに、病気になったとき、よそから何かが降ってきたように感じる。

それは単に健康の問題でなく、人生を無意識に生きているからだ。

13-1 すべての病気は自分で創り出している。

13-2 ほとんどの人が、人生を無意識に生きているからだ。

人はタバコを吸っていながら、どうしてガンになったのかといぶかる。

人は動物性食品や脂肪をとっておきながら、どうして動脈硬化になったのかといぶかる。

人は一生怒り続けながら、どうして心筋梗塞になったのかといぶかる。

人は、信じられないストレスに耐えて、過酷な競争をしながら、どうして発作がおこったのかといぶかる。

13-3 心配というのは、最悪の精神活動のひとつだ。非常に自己破壊的な憎悪のつぎに悪い。心配は何の役にもたたない。精神的エネルギーの浪費だ。それどころか、身体を傷つける生物化学的反応のもとで、消化不良から冠動脈血栓にいたるまで、さまざまな障害を引き起こす。

13-4 憎悪はいちばん破壊的な精神状態である。憎悪は身体を毒する。そうなると、元に戻すことは出来ない。

13-5 不安は、あなたのあらゆるものと対立する。あなたの精神的、肉体的健康に悪影響を及ぼす。不安は増幅された心配である。

13-6 心配、憎悪、不安は、さらに、これから生まれる気がかり、苦々しさ、短気、貪欲、不親切、批判、非難などもすべて、細胞レベルで身体を攻撃する。そうなったら健康を保つことは不可能だ。

同じく、うぬぼれ、わがまま、欲張りも肉体的な病気につながる。あるいは、快適さを損なう。

13-7 病を癒す癒し手は、そんな信念をもっている。神の世界の知への境界を越えるのはその信念だ。癒し手は、たった今のあなたが、欠陥のない完璧な存在であるべきことを知っている。その知はまた思考でもある。非常に強力な思考だ。山をも動かす力がある。増してや、あなたの身体の分子などは簡単に動かす。だから癒し手は、時には遠くからでも癒すことができる。

13-8 「健康上の問題を解決」するには、考え方の問題を解決すればいい。既にかかったものでも癒すことができるし、新しい大きな問題が生じるのを予防することもできる。要は考え方を変えればいいのだ。

13-9 魂が思いをいだき、精神が創造し、身体が体験する。これで循環は完結する。魂は自らの体験の中で自分を知る。経験したことが気に入らなければ、また何らかの理由でべつの経験をしたければ、新しい自己の経験について思いをいだき、文字どおり精神を入れ替えればいい。

13-10 自己の三つの面は完全に平等だ。それぞれに働きがあるが、どの働きも他より大きくはないし、他の働きより上位にあるものもない。すべて同等だし、関連しあっている。

13-11 思いをいだき、創造し、体験する。あなたは思いをいだいたことを創造し、創造したことを体験し、体験はまた思いになる。

だから、身体が何かを体験するようにしむければ、まもなく魂がそれを感じ、それが豊かだと言う新しい考えを生んで、あなたの精神が新しい考え方をするようになる、と言ったのだ。新しい考え方からさらに経験が生まれ、身体は新しい現実を永遠の在り方として生きるようになる。

13-12 あなたはわたしの身体である。

あなたの身体は精神と魂のためにあり、あなたはわたしの精神と魂のためにある。したがってわたしはすべてを、あなたを通して経験する。 

第14章

どこでもわたしの声を聞きなさい。あなたの世界に目を開きなさい。

わたしの答えは、すでに発表されている記事、製作中の映画、

愛する人の口から出かかっている言葉、これから知りあう友人の心のなかにある。

14-1 もちろん、セックスはいいことだ。もう一度言うが、あなたがたにゲームをさせたくなければ、玩具を与えるはずがない。あなたは遊ばせたくない玩具を子供に与えるだろうか。

セックスで遊びなさい。遊ぶがいい。非常に面白い遊びだ。肉体的経験ということでは、身体によって得られる最もおもしろい遊びだ。

14-2 だが、頼むから性的な無邪気さや喜び、純粋な面白さ、楽しさ、セックスを誤用することで破壊しないでもらいたい。力を得るため、隠れた目的のためにセックスを使ってはいけない。自我を満足させるためや支配するために使ってはいけない。純粋な喜びと高度なエクスタシーを与え、分け合うという目的以外に使ってはいけない。

14-3 セックスを支えるエネルギーは、人生を支えている。それが生命だ。互いに感じる魅力、愛よってひとつになりたいという激しい切実な欲求は、生きているものすべての本質的なダイナミズムだ。わたしは、それをすべ組み込んだ。「存在するすべて」に生まれつき備わった、本質的なものだ。

14-4 時のはじめから、すべての人間は愛し、愛されたいと望んできた。時のはじめから、人は愛し愛されることを可能にするため、力の限りあらゆることをしてきた。セックスはおおいなる愛の表現である。他者への愛、自分への愛、生命への愛の表現だ。だから、あなたがたはセックスを愛すべきだ。

14-5 わたしはあなたがたに恥ずべきことは何も与えていない。ましてあなたの身体や人体の機能をはずかしがることはない。身体や身体の機能を隠す必要はない。身体や身体の機能への愛も、互いへの愛も隠す必要はない。

14-6 わたしは、この本だけを通して語っているのではない。あなたの魂の真実のなかに、わたしの声を聴きなさい。正直な気持ちのなかに、わたしの声を聴きなさい。精神の静けさのなかに、わたしの声を聴きなさい。

14-7 どこででも、わたしの声を聴きなさい。質問があるときはいつでも、わたしがすでに答えているのだと思いなさい。そして、あなたの世界に目を開きなさい。わたしの答えはすでに発表されている記事の中にあるかもしれない。これから聞く説教のなかにあるかもしれない。製作中の映画のなかにあるかもしれない。昨日、作曲されたばかりの歌の中にあるかもしれない。愛する人の口からでかかっている言葉のなかにあるかもしれない。知り合おうとしている新しい友人の心のなかにあるかもしれない。

14-8 わたしの真実は風のささやき、小川のせせらぎ、稲光、雨音だ。

土の感触、百合の香り、太陽の暖かさ、月の満ち欠けだ。

14-9 わたしはあなたから離れない。離れることはできない。あなたはわたしの創造物、作品、娘であり息子、わたしの目的であり、そして、わたしの・・・・

自己だから。

14-10 だから、いつでもどこでも、神の平安から切り離されたら、わたしを呼びなさい。

わたしは、そこにいるだろう。

真実と

光と

愛をたずさえて、