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2020.12.22 01:17
いちばん強いのは誰だ―タブーなきプロレス激言
本, 山本 小鉄
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ペーパーバック : 286ページ ページ
作者 : 山本 小鉄
出版社 : 講談社 (1997/09)
コレクション : 本
ISBN-10 : 4062088908
フォーマット : 単行本
発行日 : 1997/09
平均的な顧客フィードバック : 4 5つ星のうち(2人の読者)
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「僕にプロレスの怖さ、奥深さを教えてくれたのは、”プロレスの神様”と呼ばれるあの男、カール・ゴッチさんだった。ゴッチという人は強いだけでなく、格闘技の知識もものすごく豊富だ。とにかく勉強熱心で、来日するたびに、陽に焼けて赤茶けた分厚い古文書のような格闘技の本を携えていたものだ。古今東西の格闘技を自分のレスリングに取り入れようと、いつも強さを追及する姿勢は、まさに求道者という印象だった。『練習は真似できても、俺はあんな難しい本まで読めないよなあ』と、いつも思ったものだ。僕たちは、そんなゴッチさんに憧れて、教えを乞いにいった。その筆頭はアントニオ猪木さんで、僕は猪木さんの付き人をやっていたので、猪木さんを通じてゴッチさんの技を教わることも多かった。当時はまだ、力道山先生の創設した日本プロレスが、僕たちの新日本プロレスとジャイアント馬場さんの全日本プロレスに分裂する前だった。その後、猪木さんと行動をともにして新日本プロレスに参加した連中が、いわばゴッチ教室の第一期生門下生だ。”ゴッチ教室”という言葉は有名だけど、もともとゴッチという人は、誰にでも気安く教えてくれるような人じゃない。ひとことで言えば、”超”をいくらつけても足りないくらいの超偏屈親父だ。『レスラーとはかくあるべき』という自分の基準に合わない奴は、絶対相手にしてもらえない。腹の出っぱった奴は怠け者という考え方で、それはもう目の敵にされたね。教えてもらうどころか、近づくのもヤバかった。ゴッチにみょうなちょっかいを出したばかりに、控え室でボコボコにされたレスラーも少なくない。そのかわり、自分が気に入った選手には、徹底的に教える。何時間でもレスリングの話を続ける。ゴッチという人はそんな人だ。だから、当時同じ釜の飯を食っていたレスラーでも、本当の強さに憧れてトレーニングに明け暮れているような連中以外は、ゴッチさんとの接点はなかった。言い方を変えると、馬場さんの全日本プロレスに参加した選手たちには、古代からの奥義を体系化させたゴッチ流の怖いプロレスは伝わっていなかったということだ。もとはと言えば、日本のプロレス界には、カール・ゴッチさんの他に奥義を理論立てて教えてくれる人はいなかったんだから。だから、新日本と全日本は、団体が生まれる前から別の道を歩いていたんだ。」「そうやってどうにか歩きはじめた新日本プロレスだが、テレビ放映なし、有名外国人選手の招聘ルートは日本プロレスに押さえられている状況では、ファンにアピールする力は弱かった。馬場さんの全日本プロレスは、新日本プロレスより少し遅れて旗揚げしたが、最初から日本テレビのバックアップがあり、日プロ時代からの外人ルートもがっちりつかんでいた。本当に対照的だったね。日本プロレスの乗っ取りを企てたとして追放されたのは猪木さんだったが、このテレビ局と外人招聘ルートを見れば、結果的には日プロを乗っ取ったのは馬場さんだったと言える。向こうは大船、こっちは筏で大海原に船出したようなものだったが、よその様子をうかがっている余裕なんかない。「会場に来てくれたファンを逃がすな」「次は別の人を連れて、二度、三度見にきてもらえるように頑張ろう」試合内容では絶対に負けない自信があったが、観客動員は各地で苦戦していた。そして旗揚げから一年がたち、累積赤字は一億円となり、あと半年、この状態が続けば確実に倒産というところまでいった。無理を言って働いてもらっていた社員たちには、なんとか給料を払っていたが、僕は役員なので、いっさい給料は受け取っていなかった。日本プロレス時代、まだ1ドル360円の頃に、ヤマハブラザーズとして米国遠征で稼いだ2000万円を全部会社に注ぎ込んで、預金は空っぽ。でも、猪木さんは、預金どころか自宅まで会社に明け渡していたのだから、不満など言えるわけがない。「好きで選んだ道、もし駄目になってもしかたない。でも俺は諦めないぞ、絶対にギブアップしないぞ」いつも気持ちは前向きで、悲壮感はなかった。とうとう財布の中から最後の一枚の千円札がなくなってしまった休日、妻と二人で目黒の自然教育園に出かけ、バドミントンをして遊び、弁当を広げたことを、今でも昨日のことのように覚えている。あそこは当時、入園料が大人一人25円だったんだ。でも一度だけ、心の底からつらいなと思ったときがあった。道場での練習を終えて、いつものように妻がつくってくれた海苔弁当を開けたら、僕の大好きな海苔が入っていない。そこで、家に帰ってから、妻に「海苔がなかったよ」と、こっちは軽い気持ちで言ったんだけど、急に泣き出されてしまったんだ。海苔を買う金もないくらい、家庭の台所事情もピンチに陥っていたんだよ。旗揚げから二年目を迎えたとき、ようやく起死回生の逆転打を放つチャンスがやってきた。昭和48年(1973)4月から、NETテレビとゴールデンタイムのレギュラー放送の契約を結び、また、日本プロレスを脱退した坂口征二選手(現新日本プロレス社長)が加入してきて、猪木さんとの二枚看板体制が整ったんだ。その後は、テレビの放映料が会社の売り上げの半分強を占めるようになった。そして全国放送による宣伝効果で、地方会場でも客足が急速に伸びはじめた。この年の10月14日、蔵前国技館で、猪木・坂口組が神様ゴッチと鉄人ルー・テーズのコンビと闘う”世界最強タッグ戦”が行われた。蔵前に超満員のお客さんが集まったあの日が、新日本プロレスのもう一つの出発点だったような気がする。」「そんなこんなで、新日本プロレス設立から一年半にして、ようやく100万円ほどの給料をもらった。それが嬉しくて嬉しくて、苦しかった間ずっと頑張ってくれた弟子たちを連れて、渋谷のキャバレーで大騒ぎをした思い出がある。ちなみにそのとき連れていったのは、僕の付き人をしていた藤原喜明、荒川真(現在のドン荒川)、藤波辰巳や小沢正志(後のキラー・カーン)といった面々だった。」「『イノキがこのルールを受け入れなければ、これからすぐにアメリカに帰る』奴らが僕たちに対してそう言ったのは、すでに会場の設営やテレビ中継の準備が進行している決戦当日の朝だった。もう、『イノキは目をつぶって闘え』と言われても、『NO』と言えるような状況じゃなかったよ、あのときは。新宿のホテルに乗り込んだ僕たちは、『もう何でもいい。とにかくアリをリングに上げてしまえ』という心境だった。とにかくアリ陣営は、無事に試合を終えて、大金を抱えてアメリカに帰るためには、手段など選んでいられるかという感じだった。そこまでやっても、まだアリ側は身の危険に対する防御を考えていた。これを書くのはちょっと勇気がいるけど、アリのセコンドが、バケツの中にタオルを入れて、その下に拳銃を隠し持っていることを、僕は試合中に確認したんだ。自分たちが一方的に決めたルールを無視して、もしもイノキが攻めてきたときには、それを携えてリングへ…と、そこまで考えていたんだから、凄いというか、もう滅茶苦茶だった。しかし、猪木vsアリの個人闘争という観点から見ると、そこまでエスカレートするくらい殺伐とした真剣勝負だったということだ。多くのファンにとって退屈だったであろうあの試合で、新日本プロレスは、10億の負債を抱えて倒産寸前に陥った。そしてアリは、猪木さんに受けた100発以上のローキックのダメージが完治せず、引退を早めることになる。それにしても猪木さんとアリというのは、不思議な運命でつながっている気がするよ。あれほど決戦当時はドロドロした状況だったのに、今は心の友という感じだからね。猪木さんが仕掛けた北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)遠征のときには、アリはわざわざアメリカ政府の許可を取り、パーキンソン病で不自由になってしまった身体を押してまで、猪木さんのもとへ駆けつけた。二人の間にどんな感情が流れているのか、奥深いところまではわからないが、あの世紀の試合が真剣勝負だったからこそ、二人は認め合うことができたんだろう。たしかにルールには問題はあったが、あの試合の夜、NHKの解説者がテレビで言ってたような『茶番』では、絶対なかったということだ。」