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Chez Moi

秋田蘭画

2016.11.25 22:40

はじめて、聞いた。

おだのなおたけ。

あきたらんが。


平賀源内に、見出された、という。

解体新書の挿絵を担当したという。

32歳、という若さで、亡くなったという。…平賀源内が獄死したのと同時期に。


江戸時代と、いまの世の中がソックリ、という記事をどこかでみた。


戦後一貫して平和憲法に守られて絶対平和を満喫。平和なもんだから、ウマウマと経済成長して経済大国になり、不況がきて閉塞したら今度は文化が爛熟してクールジャパンが拡散されてる不死身の国、、的な。


平賀源内か。


…橋本治さんの本、ひっぱり出してこようかな😆お江戸でござる。


杉浦日向子さん、元気でいて欲しかったな。。。



お江戸でござる。好きだったな。



『江戸時代半ばの18世紀後半、秋田藩の若き武士たちによって西洋と東洋の美が結びついた珠玉の絵画が描かれました。「秋田藩士が中心に描いた阿蘭陀風(おらんだふう)の絵画」ゆえに現在「秋田蘭画」と呼ばれており、その中心的な描き手が、小田野直武(おだのなおたけ・1749~1780)です。本展は直武の画業を特集し、秋田蘭画の謎や魅力を探ります。

小田野直武の名を知らずとも、『解体新書(かいたいしんしょ)』の図は誰しも見たことがあるでしょう。直武は、秋田藩の角館(かくのだて)に生まれ、幼い頃より絵を得意としたといわれています。安永2年(1773)に平賀源内(ひらがげんない・1728~1779)が鉱山調査で秋田藩を来訪したことをきっかけとして江戸へ上った直武は、源内のネットワークを通じて蘭学者に出会い、安永3年(1774)に『解体新書』の挿絵を担当しました。江戸では、ヨーロッパの学術や文化を研究する蘭学がまさに勃興し、また、南蘋派(なんぴんは)という中国由来の写実的な画風が流行していました。江戸に出て7年後の安永9年(1780)に数え年32歳で亡くなるまで、直武は西洋と東洋という2つの世界に挑み、東西の美を融合させ、新しい表現を目指したのです。その画風は、第8代秋田藩主の佐竹曙山(さたけしょざん・1748~1785)や角館城代の佐竹義躬(さたけよしみ・1749~1800)らへも波及しました。主に安永年間(1772~1780)という短い制作期間ゆえに現存作品は少ないながらも、実在感のある描写、奥行きのある不思議な空間表現、プルシアンブルーの青空など、秋田蘭画は今なお斬新で驚異に満ちています。』

※小野田直武展サイトより