人も見ぬ春や鏡の裏の梅
https://blog.ebipop.com/2018/04/basho-ume.html 【人も見ぬ春や鏡の裏の梅】より
江戸時代の鏡は、ちょうど下の浮世絵のような、柄のついた丸い形のものが多かったと言われている。
「柄鏡(えかがみ)」と呼ばれているもので、素材に銅を使った「銅鏡」がほとんど。
鏡の面は錫(すず)でメッキした後、きれいに磨かれていたという。
鏡の裏には松竹梅などのおめでたい文様が描かれ、工芸品としても江戸庶民の暮らしの空間を飾っていたようである。
人も見ぬ春や鏡の裏の梅 松尾芭蕉 元禄五年一月、芭蕉四十九歳のときの作。
前書きに歳旦吟とある。
「人も見ぬ」という断定調でこの句は始まっている。 次に「春や」と春を強調。
強調しつつ、芭蕉は「鏡の」と部屋の片隅に置かれてある柄鏡へ、読む者の視線を誘導する。そして、「裏の梅」と体言止め。
どうやら新年に俳諧の初心者を集めた句会での、師匠の発句の披露のようである(ブログ管理人の空想です)。
元禄五年正月の句であるから、まだ第三次芭蕉庵は出来ていない。
場所(会場)は、そのころ仮住居をしていた江戸日本橋橘町・彦右衛門方借家であろうか。
そこに俳諧好きの江戸っ子が集まった。
「では、この部屋にある鏡をお題にして句を詠んでみましょう。」と芭蕉が言って、会が始まった。
「人も見ぬ春や鏡の裏の梅」
しばらく唸ってから、芭蕉はすらりと句を詠んだ。
師匠の唸り声に聞き入っていた参加者のひとりが、鏡の裏側の庭に目をやり、しきりに梅の木を探している。
「ちゃう、ちゃう。」と隣の人がその男の袖を引っ張る。
「裏の梅」とは、鏡の裏面に描かれている「梅」の絵柄のこと。
『見ないかなあ、オレは見るけどなあ。』とほとんどの参加者が、心のなかでそうつぶやく。
『裏の模様を見るのが楽しみなんだけど・・・』と思っている人もいる。
翁は、座がざわついているのを静かに見ている。
初々しい初心者を前にして、妙に楽しげである。
『支考とか去来とか、理屈っぽい連中の相手をしているときとは別の楽しみがあるわい。』
そう思っていたかもしれない。
「師匠、オレは見まっせ。」ひとりの男が素っ頓狂な声を上げた。
「『よく見れば梅が咲いている鏡の裏』なんてね。」とその男。一堂は、翁の顔を見つめた。
「ホッホッホ、なかなか面白い意見ですな。感心、感心。」翁は一堂に笑顔を見せた。
「ハイ先生。」
じっと翁の顔色を伺っていたひょっとこ面が立ち上がった。
「オレは見ないと思います。自分の顔を見るのに一生懸命で、鏡の裏なんか見ないと思います。」
そういって、興奮がおさまらない様子のまま着席。
一堂は『ひょっとこ面が鏡なんか見てどうする』と言わんばかりにクスクス笑った。
翁は、また「ホッホッホ」と笑ってから、「意見を述べるときには、立ち上がらんでもよろしい。」と男に声をかけた。
それから一堂を見回して、「かりに、見えないものを『見える』と句に詠んだらどうじゃろう?」と言った。
「そ、それは、よくわかんないや。」と参加者のひとりが言った。
「そう、それは作者にはわかっていても、人にはよく伝わらない。」
「だが、多くの人が見るにもかかわらず、あえて『人は見ぬ』と言い切ったらどうじゃろう。」と翁。
「逆に目立ちますね!鏡の裏の梅が。」としたり顔の男。
「そうじゃろう、鏡の裏の梅がぱあっと咲いて、それを愛おしむ気持ちが句を読む者に伝わる。その気持が多くの人の春を愛しむ気持ちへと広がっていく。まあ、自作について自分で言うのもなんじゃがな。」
「あ、そういえば、そういう気持ちになってまいりましたね。」と別の男。
「鏡は見る者の顔を映すが、鏡の裏には見る者の心が映っておるのじゃ。」と翁。
「なるほどなるほど、対比ですね、鏡の裏と表の・・・・」としたり顔の男。
「そうとってもらっても、別に文句は言わんよ。」
翁は、ちょっとうるさそうな顔をした。
「ありがとうございます。」と言って男は恐縮した様子。
「見えないものを見えると詠むよりも、見えるものをさも見えないように詠んだほうが、見えないものまで見えてくるような気がしないかね?」
「おお、そう言えば・・・・」と一堂ざわめく。
「以前に、『よく見れば薺花咲く垣根かな』という発句でわしが使ったトリックじゃよ。」
「とりっく?さすがお師匠さんは南蛮語にも通じていらっしゃるのですな。」
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/ume1.htm 【人も見ぬ春や鏡の裏の梅】 より
(己が光/続猿蓑)(ひともみぬ はるやかがみの うらのうめ) 元禄5年初春。
人も見ぬ春や鏡の裏の梅
鏡の裏に絵を描くというのはおよそ無益のことであろうが、古来手鏡などには鶴や松の絵、梅やら亀の絵が描かれていたものである。現在ではほとんど無地になっているようだが。そういう鏡の裏に梅の花が満開に咲いている。こんなところにも春は来ていたのだ。詩人でなくては見落としてしまう片隅の春である。
https://www.longtail.co.jp/~fmmitaka/cgi-bin/g_disp.cgi?ids=20100411&tit=20100411&today=20100411【人も見ぬ春や鏡の裏の梅 松尾芭蕉】より
鏡の表面をミズスマシのように歩いたり、あるいは鏡の中の世界へ深くもぐりこんでいったり、というのは、アリスの国の作者だけではなく、だれしもがしたくなる想像の世界です。この句で芭蕉は、鏡の外でも中でもなく、鏡の裏側の絵模様に視線を当てています。鏡に映っている下界の季節とは別に、鏡の裏側にも季節がきちんと描かれていて、見れば梅の咲き誇る春であったというのです。けれど、この春はだれに見られることもなく、また、時が進んでゆくわけでもなく、取り残されたように世界の裏側にひっそりと佇んでいます。鏡の外の庭には、すでに桜が咲き、さらにその盛りも過ぎようとしています。けれど鏡の裏側には、いつまでも梅の花が、だれに愛でられることもなく咲いています。句全体に、美しいけれどもどことなくさびしさを感じてしまうのは、鏡の裏という位置に、自分の人生を重ねあわせてしまうからなのです。『俳句大観』(1971・明治書院)所載。(松下育男)